第二話(三浦半島編) 失われた魔法を求めて 1
第二話が始まります。
お楽しみいただけますように。
ブクマなどの評価をいただけますように……!
古びたドアの向こうにあったのは、虎澤百貨店の事務室だった。
「失礼いたします……」
おそるおそる足を踏み入れると、ごくわずかに煙草のにおいがして、思わず鼻をふすんとさせてしまった。
先を行く佐倉は、それを聞きとがめたらしい。歩きながら、
「紳士フロアの喫煙室から、時どき換気の関係で流れてくることがある。数値としては問題のない範囲だそうだ」
と、説明してくれる。
佐倉の背中を追いながら、私はそっと周囲を見渡した。
そこには昭和もしくは平成前期の時代を彷彿とさせる、「ザ・日本の会社の事務室」の光景が広がっていた。
要するに、テレビだとか動画配信サービスの映像で見たことがある感じの。
昔ながらの細長い蛍光灯で、白く照らされた室内。部屋に入ってすぐの、応対カウンター。敷き詰められた杢グレーのカーペット。
天井から吊り下げられた「総務部」「経理部」「販売部」といった部署ごとの案内板は、もしかすると毛筆で手書きされたものかもしれない。
部屋の隅には白いプラスチックの鉢に入った大きな観葉植物が置かれていて、年季が入って薄黄色に変色した壁紙と、妙に色合いがマッチしていた。
デスクトップパソコンが載ったグレーの事務机は、天板の下に広くて浅い引き出しが一段、右側に大中小の引き出しが三段ついているタイプで、隅には固定電話が設置されている。
電話が鳴るとすぐに、社員らしい人が受話器を上げ、美しい声で応対していた。
低い壁で仕切られた商談ブースを通り過ぎる。さらに奥に進むと、途中に薄暗い給湯室があって、電気スイッチの横に「節水節電」とマジック書きされたコピー用紙が貼られていた。
黒い塗りの盆に茶托と平茶碗を乗せた社員らしき人とすれ違い、「社長室」「秘書室」「資料室」とそれぞれ表記のあるドアの前を通り過ぎてから、私たちはようやく「外商二部」へとたどり着いた。
ドアを開けた佐倉が、「どうぞ」とでも言うように私が入るのを待っている。
「失礼します……」
部屋の中へと、足を踏み入れる。
外商二部の事務室は、十二畳くらいの広さで、左手に黒い革張りの応接スペースがあって、右手にさっき見たのと同じような事務デスクが五つ。
一番奥に窓を背にして置かれているのは、おそらく及川部長の席だ。
その部長席にくっつけるようにして、四つのデスクが向かい合わせに置かれている。
うち廊下側の一つは空席のようだった。他のデスクには私物らしいものが置かれていて、誰かが使っている気配を感じる。
壁には「行動予定表」のホワイトボードが掲げられ、「及川」「板花」「宮ヶ丘」「佐倉」とプリントされたマグネットシートが貼られている。
四人全員、行き先のところに「都内」とマジックで書いてあるけれど、帰社時間はそろって空欄だった。
ここで、私は今日から働くのだ。
最初は佐倉が教えてくれるとのことだけれど、何を教えてくれるのだろう?
ビジネスマナーだとか、事務のやり方だろうか?
ドキドキしながら待っていると、壁に沿うように置かれた書類棚の中から、佐倉が段ボールを一箱取り出し、空席のデスクの横に、どすんと置いた。
「──まずはこれらを頭に入れながら」
佐倉が「これら」と称した段ボールの中身は、書籍だった。
厚みのある図鑑みたいな本から、ムック本、雑誌……三十冊くらいはありそう。
これを読んで知識を身につけなさい、ということらしいと察して、ちょっとワクワクする。
私は本をあまり読まない。でも、「これら」は面白そうな本ばかりだった。
たくさんあるけれど、がんばって読むぞ! という気持ちになっていると、行き先を記すホワイトボードの、自分の欄を書き換えた佐倉がこちらを振り向く。
「並行して、礼儀作法を徹底的に身につける。徹底的に」
「! はい」
礼儀作法と聞いて、私は思わず顔を上げた。祖母の勧めがあって、中学生まで日本舞踊を習っていたのだ。
佐倉はちょっと考える素振りを見せながら、呟くように言った。
「まずは礼の仕方からやるか……?」
「あ、それなら知っているかも……ちょっと、やってみても良いですか」
佐倉が頷いたので、私は記憶にある礼の仕方を呼び覚まし、お辞儀の体勢に入った。
胸を張り、両肘はきれいな三角形のイメージで。
口角をゆるく上げ、背すじは伸ばしたまま、角度は垂直に……。
「……」
二秒数えて、上半身を戻す。よし。
われながら、上手くできたと思う。受験勉強が大変だったので他のことはすべて忘れたような気がしていたけれど、どうにかなるものだ。
「どうでしょうか」
胸を張りながら問う。どんな感想が返ってくるか、ちょっと楽しみですらある。
が、佐倉は何か気の毒なものを見てしまったような顔をして、
「何か、落ち着きのない犬を彷彿とさせるというか……虫、と言った方が近いかもしれない。うん。そういう動きだった」
と、申し訳なさそうに言う。
衝撃のあまり、「エッ」と小さな声を出して硬直した私に対し、佐倉は優しい声で「いや、大丈夫だ」と続ける。
「そもそも礼とは何なのか、なぜ頭を垂れるしぐさが敬いとみなされるのか、日本人はどうして礼をするのかというところから学び直し、重ねて体幹を鍛えて、重ねて基本の所作とその手順を踏まえ、千回くらい練習を重ねればどうにかなると思う。大丈夫だ」
「……」
そんなにたくさん重ねないといけない上に、「落ち着きのない犬」や「虫」と表現される私のお辞儀って一体なんなんだろう。
私が無言でいたのを佐倉は誤解して、
「やる気が漲っている顔だな」
と満足そうに頷く。それから「すまない。小笠原流の作法の本はこれから出すところだった」と言って、再び書類棚を開き、段ボールを次々に三箱取り出した。
まだ説明は受けていないけれど私の席になるらしいデスクの横に、さっきと同じようにして箱を持ってきては、置いていく。
どすん。どすん。どすん。
開きかけた蓋の内側に、びっしりと詰まった本が見える。タイトルは面白そう。面白そうなんだけれど。
私が「これら」の本を自分の知識としてアウトプット出来るようになるまで、どれくらいの月日が必要になるのかは、見当もつかない。
そして、
「ここにある作法の本は少々古く、表現が椿のようなにはおそらく難解で読み進めにくいだろうから、俺が自分でまとめたものを予習の資料として共有する。まずはPCを開いて……そういう時にも、体幹を意識した方がのちの財産になる」
佐倉の指導は、どうやらかなりのボリュームになりそうだった。
次回もお楽しみいただけますように。




