山に棲む怪異
私が育ったのは、たくさんの山に囲まれた古い町だった。農業を営む人間が多かったと記憶している。緑は豊かで鮮やか、穏やかな風の通り道だった。
7つの頃だったか、やんちゃな少年だった私はいつも一緒に遊んでいたNとKと共に恐ろしい体験をした。
そのことが原因で私は他の町へ引っ越したし、Kは……いや、これは後々語ろう。とにかく、あれは今思い出しても震えるほどに恐ろしく、私は未だ山が怖くてたまらない。
これを語ることで、何か自分の中で変化があればいいと思って、今こうして記憶を紐解いているのだ。
そうあれは……何のことはない、蝉の声が響く、普通の夏の日のことだった……
私たちは眩しい陽光が照りつける田んぼの畦道を並んで歩いていた。
夏休みで、宿題を早々に片付ける気のない私たちは外へ出ては、勝手に秘密基地と定めた空き地に集まって遊んでいた。何をするか決まればそれを夕暮れまでやり続けたし、決まらなければ町の中を木の枝を拾いながら歩き回ったものだ。
その日も遊びが決まらなくて、暑い中を何となく歩きながら、蛙でも捕まえようかなんてNは言っていた。
「……おばけ山に行ってみねぇ?」
そして唐突にKが言ったのである。
おばけ山というのは町を囲む山の1つのことで、正式な名前は何と言うのか忘れてしまったが、とにかく当時、町の子供たちはその山をおばけ山と呼んでいた。
それは町の大人たちが「あの山にはバケモンが出るから行っちゃならん」と口を揃えて言うからで、子供たちはそこからおばけ山という名前を使うようになったのだった。
さて、そんな山へ、Kは行ってみようと言うのである。
「え~? でも父ちゃんが行くなって」
「おばけが出るんだってさ」
私とNはそう言って肩を竦めた。私はともかくNの父は厳しいことで有名で、約束を破って山へ行けば岩のような拳骨が落とされることは目に見えている。それに私とNは、口にはしないがおばけが怖かった。
「怖いのかよー!」
「そうじゃねぇよ……」
「危ないのかもしれないじゃんか」
変なプライドで「怖い」とは言えず、私とNは気まずく視線をそらす。Kはその場で足踏みをして「行きたい行きたい!」と騒いだ。
彼は好奇心旺盛な子供で、好奇心に突き動かされて怪我をしても懲りない、そんなやんちゃ坊主だった。
「頼むよぅ、一回行ってみたいんだよ」
最後にはしおらしい態度になったKに勝てず、私とNはKに「危なそうならすぐ帰る」と約束させて、3人揃っておばけ山へ行くことになって。
大人に見つからないようにこそこそとやってきたおばけ山は、不気味なほどに静かな山だった。
他の山や、町の中ですら蝉が鳴いているのに、そこは恐ろしいほどにしーんと静まり返っていた。ただ、風が木々の枝葉を揺らす音だけが、まるで山の声のように響いていた。
もうその時点で私は怖くなっていたのだが、Nはワクワクしたふうだった。Kはすでに「すげぇすげぇ」とその場で跳ねており、私は呑気な彼を軽く睨んだ。
「それで、何するんだよ」
「うーん、そうだなぁ……」
考え込んだ彼がしばらくして、かくれんぼ、と呟いた。静まり返った森が怖かった私は正気か、と思いながらKを見つめたが彼は自分の案に賛成するように一度頷いて「かくれんぼ!」と繰り返す。
「いいよ、やろう」
「広いから大変だなぁ!」
「まだ昼だもん、余裕余裕」
何か、よく分からない嫌な感じに沈黙する私を他所に、KとNは楽しそうに話を進めていく。
「俺は……」
「ここにきてやらないなんてのはナシだからな!」
「えっ……でも」
「ワクワクしねぇの? こんなに広いとこを貸し切りなんだぜ!!」
「…………」
ワクワクなんてしない。それよりも、肌をごわついた毛の束が掠めるような気持ちの悪い嫌な感じがして止まないのだ。私はそれを2人に伝えようと試みたが所詮は七つの子供の語彙。どうにも伝えたいことは伝わらず、2人は「よく分かんないけどつまりは怖いってことだろ」と首を傾げて言う。
「っ、そ、そうだよ! なんかざわざわして怖いんだ! だから帰ろう、な?」
私の必死さに、少しなりとも考えることがあったのか2人は押し黙る。そして汚れた運動靴の先で地面を軽くつついたKが不満げな顔をして「じゃあお前は帰ればいいだろ」と言った。
「俺はNとかくれんぼするから、お前は帰ればいいよ」
「え……」
「怖いんだろ。なら、もういい」
これにはNも少し目を見開いて口を開いたり閉じたりしていた。私は仲の良い友人に突然突き放された絶望的な感覚に言葉が出てこなくなって、意味をなさない呻き声のようなものばかりこぼしていた。
そして……私はこの嫌な感じのする森に大切な友人2人を置いて帰ることができなかった。
今でも悩む。そうしていたら私はあんな恐ろしい目に遭わなかっただろうから。けれど、そうしなければ私は永遠に後悔することになっただろうとも思う。
今更考えても、どうしようもないことなのだが。
厳粛なじゃんけんの結果(子供にとってじゃんけんほど厳粛な決めごとの儀式はあるまい)、Kが鬼に決まり、私とNはこの広大で不気味な森に散り散りに隠れることになった。
杉だったか、高い木々の枝葉が夏の陽光を遮って森の中は驚くほど涼しかった。遠くに聞こえる蝉の声、そしてどこかから響くカラスの鳴く声。
私は背筋を冷たい手が撫で擦るような気持ちの悪い怖さを忘れるために思いっきり走り、やがて隠れるのに良さそうな低木の群を見つけるとガサゴソと音を立てて飛び込んだ。
緑の葉の生えた低木と言うのは、外から見ると内側が全然見えないのに中に入ると外が結構よく見えるものである。私はそれに不安を覚えながらも、遠くから響いてくる、Kが数を数える声を聞いていた。
やがて、もーいーかーい、と聞こえてきた声に「もーいーよー!」と答える。Nが同じように答える声も聞こえた。かくれんぼが本格的に始まる合図。
そして静けさが辺りを満たす。Kがどこから来るかは分からない。かくれんぼ特有の緊張感。私はそっと息を潜めて辺りに目を向け続けた。
勿論恐怖心は変わらずあったが、私は遊びが始まってしまえば結局はそこに集中してしまう子供だった。そうなるとこの不気味な静けささえもかくれんぼのスパイスに感じられて、非日常の感覚に少し笑っていたのを覚えている。
それからどれくらい時間が経っただろうか。動かず鬼を待つというのは退屈なもので、私は「早く見つけてほしい」と思い始めていた。
そんな時、アレが来たのだ。
誰かが近くで枝を踏むパキリという乾いた音が聞こえて私はハッと息を止めた。ついにKが探しに来たのだと思った。
かさり、かさり、と落ち葉を踏む音も聞こえる。近い。私はいつ「みーつけた」と言われるか、ドキドキして待っていた。
「もーイーかァーイィ?」
そして聞こえたのはKの声とは程遠い不気味な声。老爺と女の声を混ぜて、金属の軋る音を加えた様な、耳障りな声だった。
人ではない何かだと、そう思った。
それは本能で察したようなもので、未だにそれが本当は何であるかなど判明していないのであるが。
とにかく、そう思って凍りついた私の隠れる低木の繁みの前にソレがのそりのそりとやって来た。
前述の通り、低木と言うのは外から見ると内側が全然見えないのに中に入ると外が結構よく見えるものである。だから、ソレの姿は私からよく見えた。
まず最初に見えたのは小さな頭のついた長く太い首だった。横顔が恐ろしいほどに人に似ていたのをよく覚えている。
それから地面すれすれにぶらりと揺れる長い両腕。4本指で、土や赤茶色の何かで汚れた長い爪が生えていた。
そして前傾した長身痩躯。草や小枝の絡んだごわついた体毛は焦げ茶色で、遠目ならば随分と奇妙な姿勢をした猿だと思ったはずだ。
しかし、かさかさと落ち葉を踏む足の後ろに、人の腕によく似た尾を見て、私はソレが猿ではないのだと理解してしまった。
そして同時に、見つかったら終わりだということも。
私が必死に息を殺して潜む低木の前をソレはゆらゆらと両腕を揺らしながら進んでいく。
「モォーいーかァァァァいィ??」
耳に突き刺さるおぞましい声。私は耳を塞いで耐えた。恐ろしかったが目は閉じなかった。ソレから目を離して見失うのが怖かったし、再び目を開けるのが怖くてたまらなくなるだろうと思ったから。
「もーォォ、ィーイかァイーー?」
そして不意にソレは私の目の前でぴたりと立ち止まった。見つかったか、と私はガタガタ震えながらソレを凝視していた。
長い首の上にある小さな頭が辺りを見回している。私の方へ向けられたそれを見て危うく悲鳴を上げるところだった。
その顔は人間によく似ていた。
光のない眼、薄く開いた口腔の奥に覗く黄ばんだ歯。能面に似て、様々な感情を想起させる不思議な表情だった。
目が合った、そう思った。しかしソレは私に気づくことなく顔をそらす。
早くどこかへ行ってくれ、そう願う私の前でソレは長く辺りを見回していた。
「おーい、2人ともどこだよーー!」
そんな時だった。Kの声が遠くから聞こえた。どうやらNのことも私のことも見つけられずに諦めて声をかけることにしたらしい。
しかし私は焦った。目の前のソレがKの声がした方へ首をもたげてじっとそちらを見ていたから。
喋るな、と言いたかった。けれど口を開けば目の前のソレに気づかれると分かってしまったから、私は口を押さえているしかなかった。
「おーーい! いじわるすんなよー!」
Nはどうしたのだろう。もしかしたら彼もコレを見て口をつぐんでいるのかもしれない。Kのいる方へ、ゆらりゆらりと歩を進め始めたソレの姿に絶望しながら、口を押さえている私と同じように。
「いルヨォぉぉー」
そしてソレは、嬉しそうにそう答えて走り出した。
数秒後、Kの尋常ならざる悲鳴と、アレが狂ったように笑う声が静まり返った森に響き渡った。
私はついに堪えきれなくなった涙を流しながらそこでじっとうずくまっていた。好奇心旺盛で、やんちゃ坊主な私の友人は、もう戻ってこないのだと分かってしまった。
その後、私とN、それからKは捜索に来た大人たちに保護されて帰宅した。帰り際にちらと見えたKは、どこかを見つめながらひたすらにケタケタと笑い続けていた。
町長はKの両親に「可哀想に、もう戻らんじゃろう」と告げていた。Kの両親は泣き崩れていた。
そして町長はその後悲しげな顔で私とNの家へやって来た。彼が我々の両親に告げたことを要約すると「危険だから2人は町を出ろ」ということだった。
それで我々2人の家族は引っ越しが決まり、あの町には二度と戻らないことになったのだ。
アレが何であったのかは分からない。猿に似た姿からして、山に棲む怪異であることは間違いないだろう。
だから私は未だに山には近づかない。いつあの声が、耳の奥にこびりつくあの声が聞こえてくるか分からないからだ。
化け物の上げたけたたましい笑い声、そして友人の悲鳴を、私は永遠に忘れることはないだろう。




