旧神の印
「私自身の手で小説を書く?」
光男は視線を膝の上の手に落とした。
「でも、兄が気づいたときには、既に書かれているということですよね?」
真奈美が不安げな顔をする。
そう。そもそも、自分でない誰かが書いているからこそ山倉の下にやってきたのだ。
「まず、里中さん自身の体調不良の原因の第一は、睡眠不足があると思います」
山倉は指摘する。
「あなたは寝ているようで、おそらく頭の中は起きたまま小説を何者かの手によって紡ぎ続けている。つまり、ずっと起きて執筆しているのに近いと思われます」
「……そうかもしれません」
光男は頷いた。
「しかし、最近はパソコンを開いて一行を書くのがやっとなのです。気が付くと、ベッドで目が覚めるような状態で」
無意識にパソコンを閉じ、ベッドに入ってしまう。そんな状態が続いている。
「まずは、必ず一定時間、眠れる方法を考えなければいけませんね。今の睡眠不足状態のあなたでは、小説を書く体力があるとは思えない」
山倉は顎に手をあてた。
「パソコンがない部屋に寝れば大丈夫でしょうか?」
真奈美が口を開く。
「どうでしょう。同じ部屋にパソコンがなくても、この家にいる限り『影』が移動できないとは限りません。それに、ウエブサイトは、パソコンでなくてもアクセスはできる」
「どこかに泊まるとか?」
光男が首をかしげる。
「それはありかもしれませんが、『影』がどの程度移動できるかとか、電子機器がなくても小説を書こうとする可能性もゼロではありません」
「それは……そうかもしれません」
サイトの更新はできなくても、物語の続きを書くことはできる。それこそ、紙とペンがなくても、人は文字を紡ぐことは可能なのだ。考え出すと、かなり絶望的な話だ。
「何か方法を考えるしかありません。相手は神です。ただ、あなたは現実に儀式を行って召喚したわけではない。あくまでも儀式を行ったのは杉村だ。つまり、まだ、現実のあなたを直接、どうこうすることはまだできないはずです」
山倉は顎に手を当て考え込む。そう。まだ、何か方法があるはずだ。光男が完全に壊れてしまう前に、自分に助けを求めに来たのだから、なんとかしたい。
「何か、こうニンニク嫌いみたいに苦手なものとか、嫌いなものとかないのかしら?」
「さあて、どうでしょう」
そんなに簡単な方法があればいいのだが、相手は神だ。
「ひとつだけ方法があるかもしれません」
光男の顔は随分と険しい。
「古き神を封じた、旧神。一説にはその印に退魔の効果があると言われています。もっとも、クトゥルフの神は、たとえ人に友好的であっても、ひとの望む救いをくれるとは、限らないのですが」
気に入った人間をさらってしまったりとか、敵対する神に嫌がらせをしたいだけなので、アフターケアとか全く気にしなかったりする側面があるらしい。ナイアルラルトテップがもっとも恐れているとされている『神』クトゥグアは、確かに敵対はしているものの、ナイアルラルトテップが支配していた森を焼き尽くしたりしている。彼らは彼らの理由で勝手に敵対するのであって、人の思い通りに救ってくれたりする可能性は低いという。
「その印とやらをあなたは、ご存知なのでしょうか?」
「一応は。ただ、その。例のサイトからダウンロードしたデータの中にありまして」
パソコンの中にデータが残っているかどうかわかりません、と、光男は首をかしげた。