ネクロノミコン
ネクロノミコンと言われても、山倉は、アブドル・アルハズラットが記したと言われる伝説の魔導書ということくらいしかわからない。
そもそも、架空の書物だと聞いている。それが今回の事件と何の関係があるのだろう。
「内容を拝読させていただきます」
「はい」
山倉は、第四話を読み始めた。
杉村は、テーブルに置かれたその本を凝視した。
何の文字も印刷されていない表紙。ノートという感じでもない。
前の客が置き忘れたのであろうか。
食堂内には杉村の他に客はいない。
セルフサービスの店だ。食べ終わったら、それぞれが返却場所に食器を運ぶシステムである。店員の目がなかなか店内に向けられていないから、そのまま置かれているのかもしれない。
店員に届けようと思い、杉村は本に手をのばした。
手が本に触れたとたん、心がざわついた。
ねっとりと、絡みつくような感じだ。
ーーこの本は、触れてはいけない。
杉村の中の何かが、警笛を鳴らす。
しかし、その中を見たいという欲求が、杉浦の中で膨れ上がった。
ちらりと見るだけ、と自分に言い訳しつつ、ページをめくる。
手書きのようだ。ぎりぎり読めるくらいの草書体。紙は黄ばんでいる。誰かの個人的なノートであろうか?
詩のような文章。
そして、どこかおかしな言い回し。外国語で書かれたものを翻訳しているのかもしれない。
ほんの少しだけ、目を通すつもりだった杉村は、いつのまにか夢中になっていた。
「生姜焼き定食です」
「あ、ああ」
自分の前に注文品を置きながら声を掛けられ、杉村は我に返る。
その時にはすでに、本を手放すことは考えられなくなっていた。たとえ、本の持ち主が戻ってきたとしても、そ知らぬ顔を決め込んだであろう。それほどまでに杉村はこの本に魅入られていた。
そして、杉村は、自分が手にした本が『ネクロノミコン』の写本であると確信する。人類が地上に現れる前に地球を支配したであろう、異形の神々についてかかれた暗黒の魔導書だ。
『ネクロノミコン』とは、狂える詩人、アブドル・アルハズラットによって記された『アル・アジフ』を原書としたギリシア語の翻訳が底本とされている。
アブドル・アルハズラットは、八世紀の詩人で、異世界の怪物を召喚したりするのに用いられたらしい。
さまざまな言語に翻訳、写本を繰り返されており、現存している本のほとんどは十七世紀に翻訳されたものだ。
翻訳、写本を繰り返されているため、劣化欠損が進み、内容の異なる複数のネクロノミコンが存在するという。
どうやらこの本は、紆余曲折を得て、日本語に翻訳されたものらしい。
食事を終えると、杉村は何食わぬ顔で本を手にしたまま、食堂を出た。
山倉は、読みながら背筋が冷えるのを感じる。
本を手にした杉村は、限界集落の空き家に不法侵入をし、暗黒の儀式を始めるのだ。
実に細やかな描写で、本当に闇を引き付けるかのようだった。
不思議なのは、写本に書かれていたと思われる文章である。
その部分は、里中光男が書いている文章とは、随分と異質だ。もちろん、わざとそうしているのであろうが、かなり違和感を感じた。
山倉が読んでいる間、光男はじっと見つめている。不安に満ちた目だ。
「あの……この、文章、随分とあなたの書いたものと違う印象を受けます」
「え? そんなことがわかるのですか?」
光男が驚いた顔をした。
「やはり、違うのですか?」
「はい。そこは、ネット記事の引用なのです」
「引用?」
さすがに、著作権的にまずいのではないか、と山倉が指摘すると光男は首を振った。
「著作権フリーの素材なのです。そもそも、クトゥルフ神話は、シェアワールドの性格を持っていて、ラグクラフトだけでなくたくさんの作家が書き継いでおります。件のネット記事は、ファンの間で『ネクロノミコン』を再現しようとする企画から生まれたものです。引用をしてますから、参考文献として、文末にアドレスを入れてあります」
「なるほど」
山倉は、頷いてサイトを検索する。
しかし、どうやら、サイトはみつからないようだ。これを書く少し前までは、検索するとすぐに引っかかったらしい。アドレスは、サイトが見つからなくなっており、どうやら閉鎖されてしまったようだ。
「おかしいですね」
光男は首をかしげる。
だが、山倉は確信した。この話を書きあげた後、怪異が起こり始めたのだ。無関係であるはずがない。
「あなたは、作中の杉村と同じように『偶然』ネクロノミコンを手にしてしまったのかもしれません」
魔導書は、それを『欲した』もののもとへと、自分から現れる。光男は、『本』に選ばれたのだ、と山倉は思った。