依頼人 2
「影?」
「はい」
女は頷いた。
「数日前のことです。兄が最近、体調が悪そうなので、ずっと気になってて。たまたま、私が兄の部屋の前を通りましたら、キーボードをたたいているような音がしました」
女は、兄の手に触れながら、ゆっくりと説明をする。
「部屋の扉が、少しだけ開いておりました。部屋の電気は消えていました」
里中家では猫を飼っているらしい。猫が勝手に出入りするので、扉を少し開けておくのはいつものことらしい。
夜中の物音といえば、たいていは猫の仕業。普段なら気にすることもない小さな音だった。だが彼女は違和感を感じて、こっそり部屋を覗いたらしい。
「わずかな明かりは、パソコンのディスプレイでした。最初は兄だと思いました。しかし、ふと目を落とすとベッドに寝ている兄が見えました」
見間違いではなく、呼吸のたびに布団が上下をしていた。
それなのに、キーボードをたたく音は止まらない。
「もう一度、パソコン台の方に目をやりました。あいかわらず、パソコンの前には誰かが座っていました。ただ、ディスプレイの明かりは部屋全体を照らしているというのに、その誰かは、黒い影になっていて、まったく光に照らされていなかったのです」
顔も服装も全く見えない。ただ、背格好は里中と似ていたらしい。
「それで、あなたはどうされたのですか?」
山倉は優しく尋ねた。
「あまりのことに、その場に座り込んでしまいました。多分、何時間もそうしていたと思います」
女は、大きく息を吐いた。
「飼い猫が私のそばに寄ってきて、私は我に返りました。気が付くといつのまにか、タイピングの音は消えていて。兄の部屋を照らしていたディスプレイの光は消え、黒い影もいなくなっていました」
翌朝、兄と妹は、自分たちの見た怪異について話し合い、思い違いや錯覚ではないことを確信したらしい。
「ふむ」
山倉は眉根をよせた。
「それで、私のところにいらした、というわけですね?」
「はい」
女は頷いた。
「念のためお伺いいたします。何者かが侵入した様子などは、見受けられなかったのですね?」
「はい。戸締りはしっかりしておりましたし、外から誰かが入り込んだ様子など、どこにもございません」
里中は断言する。
「私の記憶と違っていたのは、私の小説が更新されていたことだけ」
パソコンを開いて、最初の一行を入力したところまでは覚えているそうだ。
「ちなみに、この小説、あとどれくらいで終わると、ご本人では感じていらっしゃるので?」
内容を読んだわけではないが、みたところでは、かなりの分量だ。
「おそらく、あと三話ほどだと思います。かなり佳境に入っておりますので」
里中は首を傾けつつ答えた。
「それならば、かなり急がねばなりませんな」
山倉は立ち上がった。
「あの? いったい何が起こっているのでしょう?」
里中はすがるように山倉を見上げている。
「わかりません。だが、書き終えてしまったら、きっと間に合わない」
何がどう間に合わないのか、実際に山倉にも想像がつかない。だが、早々に手を打たねばならないことだけは確かだ。
山倉は、車のキーを手に取った。