依頼人
それはじとじとした雨の降る晩のことだった。
約束の時間に現れた依頼人は、二人。青ざめた顔つきで、いかにもやせ衰えた男と、その男を支える女。
男は三十代半ば、女は二十代後半といったところか。
「里中光男さんとご家族のかたですね?」
山倉の問いに、二人は頷いた。
「どうぞ。お待ちしておりました。こちらへ」
山倉は、狭い事務所に強引に置いてあるソファに、二人を案内した。
男の足元はややふらついている。かなり体調が悪そうだ。女が、心配げに身体を支える。
男は、ソファに座ると、ようやく落ち着いたかのように大きく息をついた。
「あの。こちらは、常識では考えられないような事件を扱ってくれると伺って、参りました」
「はい。もちろん、常識的な事件も扱ってはいるのですけどね」
山倉は苦笑する。
山倉は探偵である。ところが、少しばかり普通ではないものが見えるため、その手の事件の依頼が多くなっている。山倉としては、密室殺人的な事件を解く名探偵にあこがれてこの世界に飛び込んだこともあり、若干、複雑だ。
もちろん、現代の日本において、探偵の『普通』となると、浮気調査的なものが一般的で、小説のように殺人事件などを扱うことはほぼ皆無と言っていい。密室の謎を解く探偵というのは、物語の中にしかいないというのを、この仕事についてしみじみと感じている。そもそも、探偵の一個人の捜査が、警察の人海戦術や高度な科学を駆使した捜査に簡単にかなうものではない。
「メールでのお話によれば、あなたの名を騙って、小説を書くやからを突き止めてほしいとのことでしたが?」
「はい」
里中は頷いた。
「参考までに、どのような小説をお書きになっているので?」
「ラヴクラフトのクトゥルフ神話はご存知で?」
「まあ、少しは」
こういう仕事をしていると、全く知らずにやってはいけない。
ただ、山倉は、それほど「話」としてはホラー系は好みではないため、一般的なおおざっぱな知識しか持っていない。
「夜に吠えるものを題材にした、ホラーを書いているのです」
里中はとつとつと話し始めた。
「ある男が、大企業に住む土地を奪われ、家族を失い、復讐するために闇の書に手を出す、そんな話です」
「ふむ」
山倉は、顎に手をあてた。
話自体は、それほどオリジナリティにあふれているとは思えない。言っては悪いが、ありがちな設定だ。
「そのお話を、webの小説サイトで連載されているのですね?」
「はい。小説プラス生活というサイトです」
里中は答えた。
「少し調べてもよろしいか?」
「どうぞ」
山倉は、里中に確認すると、手元のタブレットで検索をかけてみた。数ある小説投稿サイトのひとつだ。なかなかに人気のあるサイトで、投稿者の数はそこそこに多い。里中の小説もみつけた。ランキングに載るほどではないにしろ、そこそこの閲覧者はいるようだ。
「それで、他人に投稿されていると感じたのは、いつくらいですか?」
「……ちょうど五話めのところです」
里中はぶるりと身体を震わせた。
「ふむ」
見てみると、それまでは三日に一度くらいの周期で書かれていたものが、そこから毎日更新に切り替わっている。
里中の話を纏めると、五話からは、里中が書いたものでなく、それが二十日も連続で更新されているということになる。
山倉は首をひねった。
「このサイトは、広告掲載の還元もない。仮に第三者が、あなたのパスワードを盗み、あなたに成りすましたところで、何のメリットがあるのかわかりませんな」
無論、悪質な嫌がらせという可能性はある。ただ、他人に成りすまし、小説を書く理由として考えられるのは、歪んだ自己承認欲だ。だが、里中に成りすまして、得られる承認欲はそれほどとは思えない。どうせなら、有名作家の名を騙ったほうが、アクセスは増えるだろう。
「それは、私にもわかっております」
里中は頷いた。
「最初は、自分が書いたのかもしれない、忘れているのかもしれないと思いました。そもそも、自分が思っていた通りの小説を他人が書けるとは思えません。たとえ、設定やプロットが同じだとしても、こまごまとしたものが違ってくるはずなのです。読んでみると、そのような違和感は全くありません。まるで、未来の私が書いてくれたような、そんな錯覚を覚えるほど、どうしようもなく自分の小説なのです」
「あなたが、ご自身で書かれているという可能性は本当にないのですか?」
山倉は里中をじっと見つめる。依頼人を疑っているわけではない。ただ、依頼人が、知らないだけということもありうる。
そして、それならば、探偵ではなく、行くべきは医者だ。
本人は眠っているつもりなのに、深夜に書き続けているとすれば、身体を壊して当然だろう。実際、里中は見るからに体調が悪そうだ。
「あの」
付き添いの家族の女が遠慮がちに口をはさむ。
「おっしゃることは、よくわかります。信じていただけないことも」
「いえ、信じていないわけではありませんよ」
山倉は、耳の後ろをポリポリと掻いた。
依頼人とその家族が、何かに怯え、必死で手を伸ばそうとして山倉の事務所を訪ねたのは理解している。
「私はただ、私に手助けができるかどうかを確認していただけなのです」
できるだけ相手を安心させるように、山倉は優しく笑んで見せた。管轄外だからと門前払いをしようとしていたわけではない。
女は、そんな山倉を真っすぐに見た。
「私……見たのです」
女の声は震えている。
「夜中に、暗闇の中で、キーボードを叩く影を……そして、ベッドに横たわる兄の姿を」
だから、こちらにお邪魔いたしました、と言い、女は山倉に頭を下げた。