「出エジプト」のルートおよびカナン周辺民族のまとめと関連地名地図
「出エジプト」のルートについての詳細と、カナン周辺民族についてのまとめ。+関連地名地図の掲載。
◆ 「出エジプト」のルートおよびカナン周辺民族のまとめと関連地名地図
※正確さを保証するものではありません
● エジプトとカナンを結ぶ主要道路
・「王の道」
ヨルダン川の谷と死海の東を南北に走り、エジプトとメソポタミアを結ぶ幹線道路で、アカバ湾岸のエラテから、ダマスカスに至る道。
ソロモン王の治世においては、アカバ湾岸のエツヨン・ゲベル(エラテ)とユダとアラム(シリヤ)を結ぶ重要な交易道路だった。
・「海の道」
エジプトの都メンフィスとアラム人の都ダマスカスを結ぶ地中海沿岸側の道路。
・「シュルに至る道」
エジプトとカナンを結ぶ「王の道」と「海の道」の間の道路。
アブラハムの子をはらんだハガルがアブラハムの妻サラのつらい仕打ちに耐えられず身重のまま逃げ出した際に通った道。
● カナン周辺の民族
○ 『カナン人』
カナン人の祖先はノアの次男ハムの四男カナンを祖先とする民族。
カナンの息子にそれぞれまたシドン、ヘテ、エブス、アモリ、ギルガシ、ヒビ、アルキ、セニ、アルワデ、ゼマリ、ハマテといった子が生まれ、それぞれが後になってカナンびとの氏族としてひろがった。
カナンびとの住む領域の境界は、シドン(地中海沿岸のフェニキア人の都市)からゲラル(カナン南部)を経てガザ(地中海沿岸のペリシテ人の都市)に至り、ソドム(死海周辺)、ゴモラ(死海周辺)、アデマ、ゼボイムを経て、レシャに及んだ。
ネゲブ地方に住んでいたカナンびとのアラデの王は、モーセに率いられてエジプトから逃れたイスラエルの一行がホル山にいたころ、彼らがアタリムの道を進んで来ると聞いて、襲撃をかけるが、逆襲されてその町をことごとく滅ぼされた。その後、その場所は「ホルム」と呼ばれることとなった。
○ 『アモリ人』(エモリ人、アムル人)
カナン南部に住んでいたハム系の民族。
エラム人の王がアブラムの甥ロトが住むソドムとゴモラの町に侵入してきたときは、ヘブロンにいた三人のアモリ人がアブラムと同盟を組んでエラム人を一緒に撃退したりしたりが、ヤハウェの神からは400年後にアモリ人の「とがが満ち」、アブラムの子孫であるイスラエルの民が剣や弓によって『アモリ人の土地を得る』ことが予言される。
そしてその400年後、モーセに率いられたイスラエルの民が、ホル山から進んで、モアブ人の住む国を北上して抜け、アモリ人の住む国にまで来ると、アモリ人の王シホンはこれを拒んで戦闘となったが、イスラエル人に反撃され、逆に領地のほとんどを占領されてしまう。
エジプト脱出後、40年も荒野をさまよったイスラエルの一行は、ここでようやく、奪い取ったアモリ人の土地に住み着いて根拠地を獲得することとなる。
その後、イスラエル人はさらに北上して同じアモリ人でバシャンのオグ王も滅ぼして土地を奪った。
○ 『アマレク人』
アマレク人はアブラハムの嫡子イサクの子エサウの長子エリパズが、そばめのティムナによってもうけた子のアマレクを祖先とする民族。
エサウは「エドム人」の祖とされる人物で、エサウの孫アマレクもエドムの首長の一人だったが、やがてカナン南部のネゲブ地方のほうで独立した民族となったものと思われる。
しかし、イサクの次男ヤコブから続くイスラエルの民とは非常に敵対的で、モーセに率いられエジプトを脱出してきたイスラエル人の一行に対し、シナイ半島南部のレフィディムで最初に襲撃をしかけてきたのもアマレク人だった。
アマレク人はイスラエル人対して弱まることのない憎悪を保ち、イスラエル人と敵対していたモアブ人、アモン人、ケニ人らと同盟を組み、ヤコブの子孫を滅ぼそうとしたという。
アマレク人はエジプトから逃れたイスラエルの民を襲った「諸国民のうちの最初の者」となり、ヤハウェの神からも、相手を滅ぼさなければ自分たちのほうが滅ぼされる危険な天敵として絶滅を命じられる民族となり、のちにカナン全域を支配してイスラエル王国を打ち立てたイスラエル人によって吸収され、消滅する運命となる。
○ 『エドム人』
エドムはアカバ湾から死海にかけての地名。
もとはアブラハムの嫡子イサクの長男エサウがその祖先で、エドム人とはエサウの弟ヤコブ(イスラエル)を祖先とするイスラエル民族とは兄弟関係にあたる民族だった。
エドムとはエサウにつけられた別名で、エサウ自身がカナンから「セイル」の地へと移住し、その後エサウの子らが先住のホリ人の首長たちを立ち退かせて、その地域を奪い取り、やがてセイルがエドムの地として知られるようになったのだという。
○ 『モアブ人』
モアブ人の祖先はユダ人の祖アブラハムの甥ロトの娘が生んだ子。
ロトは住んでいたソドムの町が神の怒りによって塩の海に沈められたあと、生き残った二人の娘と山中の洞窟で暮らしはじめたが、結婚相手に困った娘たちは父を泥酔させてまぐわい、子を生み落とす。
二人の娘のうち、姉のほうに生まれた子はモアブと名づけられ、のちのモアブ人の祖先となった。
妹との間に生まれた子は「ベン・アミ(私の肉親の子)」と名づけられ、アモン人(アンモン人)の祖先となった。
モアブ人はイスラエル人の祖先アブラハムと同族とあって、モーセの時代のイスラエルの民と当初のうちは敵対関係にはなく、ヤハウェの神からも「モアブと戦うな、あそこは彼らの取り分だから」(『申命記』第2章)とのお告げを受けていた。
しかしイスラエルがかつてモアブ人を破ったことのあるアモリ人を倒したのをみて、モアブ人の王バラクがイスラエル人の数の多さと強さを恐れるようになり、関係が悪化。バラク王は占師のバラムを雇ってイスラエル人を呪いにかけようとする。
が、ヤハウェの神から、イスラエルは自分が祝福した民だから呪ってはいけないと告げられたため、バラムは結局なにもできないまま帰される。
ところが、イスラエルの民の中にモアブの娘達と淫らな行い、さらに娘達が崇める神々に犠牲を捧げる儀式にも参加し、異教の神々を拝んでしまう者が現れ、怒った神によって疫病が発生し24000人もの死者が出た。
モーセが異教神『ペオルのバアル』を拝んだ者を殺させると疫病は治まったが、異教の儀式の参加者にミディアン人の一族の頭の娘がいたため、モーセはこの事件は、バラク王の雇ったバラムによる仕業だと思った。ミディアン人がモアブの女性やモアブと同盟関係にあったからだった。
その後、イスラエル人とモアブ人は、激しく戦い合う関係と変っていく。
○ 『アモン人』(アンモン人)
アブラハムの甥ロトと娘との間に生まれた子がアモン人の祖先。
ロトの二人の娘のうち、妹のほうとの間に生まれた子が「ベン・アミ(私の肉親の子)」と名づけられ、のちのアモン人(アンモン人)の祖先となった。
○ 『ミデヤン人』(ミディヤン人)
アラビア半島に住む砂漠の遊牧民。しかしミデヤン人もその祖先はアブラハムの第二の妻ケトラが産んだミデヤン(ミディヤン)から出た民族とされていて、アブラハムの孫ヤコブから出たイスラエル人とは同族の関係にあたる。(ヤコブの別名がイスラエル)
モーセの妻もミデヤン人で、ミデヤン人はイスラエル民族と同族のモアブ人と同盟関係にあったが、しかしモアブ人と結託してイスラエルの民をまどわそうとした疑いにより、モーセからイスラエル人を堕落させた報いとして攻撃を受ける。
● モーセ一行が通ったルート
エジプトで長い間、奴隷労働を強いられていたイスラエルの人びとは、神からの使命を受けたモーセによって430年ぶりに解放される。
その人数は、女と子供を除いて徒歩の男子だけで約60万人だったという。
※ルートと細かい地名はおよその推測
・オレンジ線 - 海を割ってエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授かり、パラン高原まで進む行程。
・紫線 - パラン高原でのカナン探索の結果に恐れをなしたことが神の怒りに触れ、罰として40年間荒野をさまよい続けることなった行程。
・青線 - ホル山からアタリムの道を通ってカナン人アラデの王と戦闘になったルート
・赤線 - カデシの地から改めてカナン入りを目指し、アラバの道を離れて紅海の道からエドム人とモアブ人の領地を迂回して、死海東側のアモリ人たちの支配する領域へと向った行程。
・緑線 - モアブ人の領域へと侵入し、シホン王とオグ王と倒し、領地を奪って根拠地とし、40年の放浪生活から初めてイスラエル人の領地を獲得する行程
● エジプト脱出後の行程
解放されたイスラエルの民衆は、モーセとともにラメセスを出てステコに向った。
○ 「ラメセス」 - エジプトのどこか。不明(『出エジプト記』12)ラメセスはエジプトでイスラエルの民が重い労役で苦しめられていた倉庫の町の一つ。
○ 「スコテ」 - ラメセスを出立して一行が次に向った場所。どこだか不明(『出エジプト記』12)
○ 「エタム」 - スコテから進んで宿営した場所。荒野の端にある。(『出エジプト記』13)ビター湖の東、「シェルの荒野」と同じ辺りの場所なのではないかと推察されているという。
エタムを出たあと、モーセ一行は神の言いつけに従って"謎のターン"を遂げる。
ヤハウェの神は一行を、「昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを先導して進み行かせた」という。
しかしその後、神はモーセに、
「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない」と告げて、モーセ一行を進ませていた道から引き返させる。
さらに神は、自身が彼らにそうせた行動によって、一度はエジプトからイスラエルの民を解放したファラオが、
「彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった」と思って、後を追ってくるに違いないといい、けれども自分がエジプト軍を破って撃退して、自分がイスラエルの民の"主"であることを示すといった。(『出エジプト記』13)
○ 「バアルゼポン」 - 神から命じられ進んでいた方向から引き返して、モーセとイスラエルの民一行が宿営した場所。ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前にあり、一行は海のかたわらに宿営しなければならなくなった。(『出エジプト記』13)
※ モーセ一行が海を割ってエジプト軍の追っ手から逃れた場所
モーセが海を割ってエジプト軍の追っ手から逃れた場所は、英語では「紅海」と訳されたが、ヘブライ語の原語では< yam suf >で、直訳すれば「葦の海」になるという。
そのため近年の研究では、強風による「ウィンドセットダウン現象」で海割れが生じる可能性のある「グレートビター湖」や「マンザラ湖」など北方の湖のほうだったのではないかと推察されているという。
※ モーセ一行が地中海沿岸の北側のルートを通らず、シナイ半島南端の南側のルートを使ってカナンの地へ戻った理由
イスラエルの民は、430年前にエジプトのゴシェンという地域にカナンからエジプへ移住した。
エジプトからカナンへと戻るには、普通であれば地中海沿岸の「海の道」を通るか、アブラハムの子をはらんだハガルが使おうとした「シュルに至る道」を使えばいいはず。
ところが、モーセ一行は、シナン半島の南端まで下って、そこから大きく迂回してカナンの地へと帰還している。そのためわざわざヨルダン側のネポ山を越えていかなければならなくなった。
しかし、エジプトから北側の道を通ってカナンを目指した場合、カナン南部のネゲブ地方にはイスラエルの民とは敵対するアマレク人やカナン人の王がいた。
特にアマレク人の王からは、モーセ一行はエジプト脱出後、シナイ半島の南部レフィディムにまで出てこられて襲撃を受けている。
だからエジプト脱出後に神の指示を受けてイスラエルの民が進行方向を逆戻りしたのも、その先の敵の気配を認識したからということなのかもしれない。
その後、モーセ一行は、シナイ半島の沿岸ぞいに大きく迂回しながら、死海の反対側に出てカナンの地へ戻っていくこととなるが、その方面を支配していたエドム人、ミデヤン人、モアブ人はイスラエル民族と同族のグループに属す民族だった。
○ 「マラ」(メラ) - エジプト軍撃退後、シュルの荒野を三日歩いたのち、一行がたどり着いた場所。そこの水は苦くて飲めなかったが、神の力で甘い水に変えてくれた。(『出エジプト記』15)
○ 「エリム」 - 水の泉となつめやしの木があった場所。一行はエリムにあった水の泉のほとりで宿営する。(『出エジプト記』16)
○ 「シンの荒野」 - エリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目にきた場所。エリムとシナイとの間にある。イスラエルの民が飢えの不満に、神は「マナ」と呼ばれる食べ物を空から降らせる。(『出エジプト記』16)
○ 「ドフカ」 - 『民数記』第33章のほうに、 シンの荒野を出立して宿営したと記されている場所。不明
○ 「アルシ」 - 『民数記』第33章のほうに、 ドフカを出立して宿営したと記されている場所。不明
○ レフィディム(レピデム) - 民の不満にモーセがホレブの岩を杖で打って水を出す。「マッサ」(「試み、試練」)また「メリバ」(「言い争い」)とも呼ばれるようになった。また、アマレク人から最初の襲撃を受けるが、ヨシュアが撃退した。(『出エジプト記』17)
○ 「シナイの荒野」 - イスラエルの人々が、エジプトの地を出て後三月目に入った場所。(『出エジプト記』19)シナイ(ホレブ)山の頂でモーセが神から『十戒』を刻んだ2枚の石板を授かる。(『出エジプト記』20)
○ 「キブロテ・ハッタワ」 - イスラエルの民が、肉が食べたい、マナには飽きた、エジプトにいたときのほうがよかったといって神から宿営地を焼かれる。しかしモーセからの嘆願に、神は空からうずらを降らせるが、イスラエルの人々がその肉を食べ尽くさないうちに、神は新たな怒りを発し、激しい疫病で民を撃った。欲心を起した民を、そこに埋めたことにより、その場所はキブロテ・ハッタワと呼ばれるようになった。(『民数紀』11)
○ 「ハゼロテ」 - 『民数記』第33章のほうに、 キブロテ・ハッタワの次に宿営したと記されている場所。
○ 「パランの荒野」 - ハゼロテを立って、モーセ一行が宿営した場所。ここからモーセは、イスラエル十二氏族のうちからそれぞれ一人を選んで、神から与えられると約束されたカナンの地を探らせに行かせる。彼らはチンの荒野からカナン南部のネゲブを北上し、ヘブロンまで行った。(『民数紀』12)
ところがその際、探索の結果、カナンのその地に住む民は強く、またその町々は堅固で非常に大きいことがわかり、このことに落胆したイスラエルの人びとは、
「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに」と、また不満をこぼしてしまう。
その結果、またしても神の怒りを受け、
「あなたがたは死体となってこの荒野に倒れるであろう。
あなたがたの子たちは、あなたがたの死体が荒野に朽ち果てるまで四十年のあいだ、荒野で羊飼となり、あなたがたの不信の罪を負うであろう。
あなたがたは、かの地を探った四十日の日数にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう」
と神から新たな罰を下されることとなり、ここでその後「40年間」イスラエルの民は荒野を延々さまい続けねばならなくなることが決定されてしまう。(『民数記』14)
○ 「リテマ」 - 『民数記』第33章のほうに、ハゼロテを出立して次に宿営したと書かれている場所
○ 「リンモン・パレツ」 - リテマを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「リブナ」 - リンモン・パレツを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「リッサ」 - リブナを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「ケタハラ」 - リッサを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「シャペル山」 - ケタハラを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「ハラダ」 - シャペル山を出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「マケロテ」 - ハラダを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「ダハテ」 - マケロテを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「テラ」 - ダハテを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「ミテカ」 - テラを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「ハシモナ」 - ミテカを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「モセラ」(モセロテ) - ハシモナを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)アロンが死んだ時にイスラエル人が宿営していた場所。(『申命記』10)アロンはホル山で死んだ。しかしその『申命記』のほうでは、「イスラエル人はベエロト・ベネ・ヤアカンを出発してモセラに向かいました。アロンはそこで死んで葬られ,彼に代わって息子のエレアザルが祭司として仕えるようになりました」となっていて順序が逆になっている。
○ 「ベネヤカン」 - モセラを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「ホル・ハギデガテ」 - ベネヤカンを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「ヨテバタ」 - ホル・ハギデガテを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「アブロナ」 - ヨテバタを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)
○ 「エツヨン・ゲベル」(エジオン・ゲベル、エラテ) - アブロナを出立して次に宿営した場所。(『民数記』33)アカバ湾の北端に位置する湊町。イスラエル王国のソロモン王の時代には、紅海貿易のための港町、また銅の精錬所のある場所だったという。「エラテ」(エロト)も同じく「エドムの地の紅海の岸」(『列王第一』9)にあったといい、エツヨン・ゲベルと同じ場所だったのではないかとも。
※「リテマ」から「エジオン・ゲベル」までの行程は『民数記』第33章のほうにまとめて略記されているが、詳しいことは不明。とにかくバランの荒野からエドム人の領地の端にあるカデシへと至るまで、神の罰として40年間、バランの荒野を中心に、これだけの地をさまよいまくったということのようだ。『民数記』第33章ではエジオン・ゲベルを出立して次に宿営した場所が「チンの荒野すなわちカデシ」だと記されている。
○ 「カデシ」 - 紀元前1407年1月、カナン入城約1年前。モーセの姉ミリアムが死去。この地にきたとき、モーセはイスラエルと兄弟民族だったエドムの王に使者をつかわして領地内の通過を求めたが、王に拒否されてしまい、一行はホル山へ向った。(『民数記』20)
○ 「ホル山」 - 紀元前1407年5月1日、カナン入城約8ヶ月前。イスラエルの人々がエジプトを出て約40年目のこの日に、モーセの兄アロンが死去。アタリムの道を通ろうとしてカナン人アラデの王と戦いになり、その町をことごとく滅ぼす。(→「ホルム」と呼ばれるようになる)その後、ホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとするが、イスラエルの民がその道に耐えがたくなり、不満をつぶやいてへびの炎に焼かれる。そこから進んで、オボテに宿営した。(『民数記』21)
○ 「ザルモナ」(ツァルモナ) - 『民数記』第33章のほうに、ホル山を出立して一行が次に宿営したと書かれている場所。
○ 「プノン」 - 『民数記』第33章のほうに、ザルモナを出立して一行が次に宿営したと書かれている場所。
○ 「オボテ」 - 『民数記』第33章のほうに、プノンを出立して一行が次に宿営したと書かれている場所。
○ 「イエ・アバリウム」 - 『民数記』第33章のほうに、オボテを出立して一行が次に宿営したと書かれている場所。オボテから進んで東の方、モアブの前にある荒野にあった場所。死海の南東の辺り、モアブの南の境界の、ゼレドの奔流の谷の近くにあったと思われる。「アバリム」とは「向こう側の地域」という意味の言葉で、つまりカナンの側からみて、死海の反対、東側のモアブ人やアモリ人の住む地域を広く指して使われる言葉だったのかもしれないとのこと。
○ 「ゼレデの谷」 - モーセたちがイエアバリウムから進んで宿営した場所。(『民数記』21)
○ アルノンの川 - ゼレデの谷から進んで宿営した場所。アルノン川はアモリびとの境から延び広がる荒野を流れるもので、モアブとアモリびととの間にあって、モアブの境をなしていた。(『民数記』21)
○ 「ベエル」 - アルノンの川から進んで行った場所。不明(『民数記』21)
○ 「マッタナ」 - 荒野を出て一行が入った場所。不明(『民数記』21)
○ 「ナハリエル」 - マッタナの次に進んだ場所。不明(『民数記』21)
○ 「バモテ」 - ナハリエルの次に進んだ場所。不明(『民数記』21)
○ 「モアブの野にある谷」 - バモテの次にきた場所で、ここからさらに荒野を見おろすピスガの頂に行き着く。死海のすぐ東のアバリム山脈の北部にあった高所。モーセらはここでもエドムのときと同様、使者を送って領内の通過をアモリ人のシホン王に求めるが、やはり拒否され戦闘となる。しかし今度はイスラエル側が反撃し、都のヘシボンを陥落させ、アルノンからヤボクに至るシホン王国の町々を占領したうえ、住み着いて自分たちの領土としてしまう。ここで長かった四十年の放浪生活を終え、はじめて定住の領地を獲得するに至る。モーセらはさらに同じアモリ人の支配する北方へのバシャンへと侵入し、バシャンの王オグと戦い、彼とその子とすべての民とを、ひとり残らず撃ち殺して、その地を占領する。(『民数記』21)
○ 「ディボン・ガド」 - 『民数記』第33章のほうには、モーセ一行がイエ・アバリムから出立して入った宿営地だと書かれている。デボン・ガドとはイスラエル人たちが奪い取ったアモリ人の都ヘシボン内にあった町の一つだったように思われる。征服直後この場所にイスラエル十二支族のうちガド族が住み、ディボン・ガドと名づけられたという。
○ 「アルモン・ディブラタイム」 - 『民数記』第33章のほうで、ディボン・ガドを出発してモーセ一行が宿営したとされる場所。ディボン・ガドとアバリムの山地の間に位置する。
○ 「アバリウムの山」 - 『民数記』第33章のほうで、モーセ一行がアルモン・デブラタイムを出立して入った宿営地。ネボの前にあったという。
○ 「モアブの平野」 - 『民数記』第33章のほうで、モーセ一行がアバリムの山を出立して入った場所で、この平野内のベテエシモテとアベル・シッテムとの間に宿営地が築かれた。エリコに近いヨルダンのほとりにあったという。
○ 「ギルガル」 - モーセの死後、イスラエルの民を率いてヨルダン川を渡りカナンの地に入ったヨシュアが、カナン征服のための軍事拠点とした場所。
※ 40年の荒野の放浪ののち、カデシからモアブの国を抜けてアモリ人の支配する領域へと入っていくまでのルートについて
モーセ一行は、シナイ山で十戒を授かったあと、パランの荒野のどこかにいるときに、カナンの地へ探索に行かせ、そこで受けた神の怒りによって40年間、パランの荒野をさまよい続けることとなった。
その後、チンの荒野のカデシへと出てきたときに、そこで兄弟民族だったエドムの王に、
「どうぞ、わたしたちにあなたの国を通らせてください。わたしたちは畑もぶどう畑も通りません。また井戸の水も飲みません。ただ王の大路を通り、あなたの領地を過ぎるまでは右にも左にも曲りません」と使者をつかわして領内を通過する許可を求め、彼らはそこからまたカナンの地へ向けて進行を再開しようとした。
ところが、その要請はエドムの王から拒否されてしまう。(『民数記』20)
『民数記』の記述ではその後、エドム領内の通過を拒否されたモーセたちはカデシから進んでホル山へ向った。ホル山にいるときにモーセの兄のアロンが死に、またカナン人アラデの王の攻撃を受けたりしたが、それから、モーセ一行は、ホル山から出て、「紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとした」という。(『民数記』21)
ちなみに、アラデ王の攻撃には反撃してその町まで滅ぼしたのに対し、エドム人のほうは、エドムの王が多くの民と強い軍勢とを率い出て、立ちむかってきたにもかかわらず、モーセたちは彼らと戦闘することはなかった。のちには激しく敵対する関係に変るが、このときはまだ神から、「あなたはエドムびとを憎んではならない。彼はあなたの兄弟だからである」(『申命記』23)と命じられていた。
エドムの王から領内の通過を断われたモーセは、『申命記』第2章のほうでは、
「それでわたしたちは,自分の兄弟である,セイルに住むエサウの子ら(エドム人のこと)から,すなわちアラバの道からは離れて,エラトから,またエツヨン・ゲベルから進んで行った」と語ったと記されている。
ここの記述が非常にややこしいのだが、地図でエドム人の支配する領域を確認するかぎり、「紅海の道」を進んでもぜんぜん「迂回」にならない。どころかそのど真ん中を突き抜けていってしまっている。
しかし、実際にエドム人たちが中心に住んでいたのは、アラバの谷の東側の山岳地帯のほうだったらしい。
・「エドム — ものみの塔 オンライン・ライブラリー」 → https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200001258
それなら紅海の道を通れば彼らの領域を「避けた」ことになる。モーセはエドムの王に、
「ただ王の大路を通り、あなたの領地を過ぎるまでは右にも左にも曲りません」
と申し出ていたが、つまりエドム人は、その「王の道」が突き抜ける山地を抱え込むような格好でその辺りを根拠地としていたのだろう。
その後、『民数記』第21章の記述では、イスラエルの民がアタリムの道を通ってカナン南部のネゲブ地方に住むカナン人アラデの王と戦闘になるが、これは、エドム人から領地の通過を拒否されたモーセたちが、直接カナン南部のほうからカナンの地へ、敵を押しのけて強行突入していこうとしたのではないか。
しかしカナン南部のその方面には事前の探索で、
「その地に住む民は強く、またその町々は堅固で非常に大きい」
ということが判明している。
だから、アラデの王には勝利したが、それ以上、強敵と戦いながら突き進むの困難だったのではないか。
それで結局、ホル山から出て、アラバの道から離れて、紅海の道を通り、アカバ湾の港湾都市であるエラト、エツヨン・ゲベルに向けて下っていった。
そしてさらにそこから、北上をしていく。
けれども王の道は通れないので、恐らくさらにその東側にある道を選んで北上し、そうすることでエドム人の領地を「迂回」した。
『申命記』の第2章には、
「こうしてわれわれは、エサウの子孫でセイルに住んでいる兄弟を離れ、アラバの道を避け、エラテとエジオン・ゲベルを離れて進んだ。われわれは転じて、モアブの荒野の方に向かって進んだ。その時、主はわたしに言われた、『モアブを敵視してはならない。またそれと争い戦ってはならない。彼らの地は、領地としてあなたに与えない。ロトの子孫にアルを与えて、領地とさせたからである」と書かれている、
しかし、『民数記』第21章には、
「民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった」
と書かれているように、「王の道」から外れる道を選択した場合、それほどの困難を覚悟しなければない。
道なき荒野を40年もさまよい続けたイスラエル人たちの苦労も並大抵のものではなかったにちがいない。
手直ししながら書き足して行きます。