ユダヤ人の祖先の歴史 ②
ユダヤ人の祖先アブラハムとその子孫の歴史について。その②「モーセの誕生と出エジプト」
◆ モーセの誕生と『出エジプト』
ユダヤ人の祖先、アブラハム(アブラム)は、
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」(旧約聖書『創世記』12:1-3)
という神の啓示を受け、家族を連れてメソポタミアの都市ハランから出て神との「約束の地」であるカナンのネゲブ地方(カナン南部の高原性乾燥地帯)へと移り住んだ。
「カナン」は、ヨルダン地溝帯と地中海の間に挟まれた現在のイスラエル国に相当する地域。
アブラハムには妻サラ(サライ)との間にイサクという嫡子が産まれ、イサクにはエサウとヤコブという双子の兄弟が誕生した。
長男エサウの子孫は、アカバ湾から死海にかけての地に住み着き「エドム人」と呼ばれた民族の祖になり、次男ヤコブにはさらに12人の子どもが生まれ、そしてその家系が「イスラエルの12部族(イスラエルの十二支族)」を形成し、その後のいわゆる「ユダヤ人」の祖先になった。
「イスラエル」という言葉は、ヤコブがあるとき神との格闘に勝利し、そのことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」と「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられたことにちなむ呼称で、これがその後、紀元前10世紀後半に彼ら部族が統一して建国した「イスラエル王国(ヘブライ王国)」の名の由来ともなった。
しかしそれ以前、祖父のアブラハムたちは「ヘブライ人」と呼ばれていた。ヘブル人(Hebrew)とは、「国境を越えてきたもの」「川向こうから来た者」との意味で、主に、アブラハムやイスラエル人が異民族に自分を紹介する際に用いていた言葉だったという。
現代、イスラエル人を呼び表す一般呼称としては「ユダヤ人」が使われるが、それは紀元前前586年の「バビロン捕囚」後に用いられるようになった呼び名で、そのころからイスラエル人の部族の中で中心の存在となった「ユダ族」にちなんで呼ばれるようになったものだという。
「イスラエルの12部族(イスラエルの十二支族)」はアブラハムの死後、カナンの地にイスラエル王国を築くに至るが、やがて北と南に分裂。その際、南のユダ王国のほうはユダ族とベニヤミン族から構成され、北のイスラエル王国はそれ以外の十部族から構成されたが、北の十部族のほうはアッシリア帝国に滅ぼされたときに捕囚され、そのまま行方不明となって姿を消していってしまった。
南王国のほうもやがて新バビロニア帝国に滅ぼされるが、ユダ族はバビロン捕囚を受けてもしぶとく生き残り、イスラエル民族の血を受け継ぐ部族の中心となっていった。
● ヤコブの子ヨセフの追放とヤコブ一族のエジプトへの移住
ヤコブには4人の妻と12人の息子たちがいたが、ヤコブが11番目のヨセフを他のどの子よりも特に偏愛したことで、ヨセフは他の兄弟たちから憎まれ、家から追い出されてしまう。
家を追われたヨセフはイシュマエル人の隊商に奴隷として売られてエジプトまで連れて行かれ、そこでエジプト王宮の侍衛長ポティファルという人物に下僕として買い取られる。
しかし、ヨセフは非常に智恵にすぐれた人物で、また、常に神の加護を受けてエジプトで成功を収め、最後にはエジプトの宰相にまで登りつめる。
その後、ヨセフは、エジプトとカナンで発生した「7年間の大飢饉」のためにカナンからエジプトへと非難してきたヤコブの他の異母兄弟たちと再会し和解を果たすと、彼は父と兄弟たちをカナからエジプトのゴジェンへと移住させた。
● 移住したエジプトで苦難に遭うヤコブの子孫たち
ヤコブはヨセフをのぞく11人の息子たちと、ヨセフのいるエジプトへと飢饉のため移住した。ヨセフはエジプト王国で宰相にまでなり、飢饉を予知して備えをたくわえていた。ヤコブらの死後、イスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、エジプトの国に満ちるようになった。
が、そこへ、ヨセフのことを知らない新しいエジプト王が起こると、彼は、
「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる」といって警戒心を抱き、イスラエル人の上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめるようになった。
王はまた、「ヘブルびと(イスラエル人のこと)に男の子が生れたならば、みなナイル川に投げこめ。しかし女の子はみな生かしておけ」と命じた。
● モーセの誕生
そうした中、イスラエル人のレビ族同士の夫婦に、一人の男の子(のちの「モーセ」)が生まれる。その子はとても麗しく、夫妻は三月のあいだ隠していたが、やがて隠し切れなくなって、パピルスで編んだかごにアスファルトと樹脂とを塗って防水処理を施し、子をその中に入れると、ナイル川の岸の葦の中に隠し置いた。
するとそこへ、たまたま水浴びしにきたファラオの王女(王の娘)がその子を見つけ、侍女に拾いあげさせた。王女はその子が「ヘブルびとの子供」に違いないと思ったが、不憫に思い助けることにした。
が、実はこの光景をずっと捨てられた子の姉(モーセの姉のミリア)が見ていて、彼女はモーセを拾った王女のもとへ現われ出ると、
「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」といった。
王女が「行ってきてください」と頼むと、なんとミリアはモーセの母親を連れて来たのだった。
王女に命を救われたモーセはしばらく自らの母親をうばとして育てられたのち、王女の息子として引き取られることとなった。
王女はその子を、「引き上げる」というヘブライ語の「マーシャー」にちなんで「モーセ」と名づけた。
● 同胞をかばって殺人を犯し、エジプトから逃亡
モーセは成長したが、ある日、同胞がはげしい労役を強いられ、しかも一人のエジプトびとによってヘブルびとが打たれるのを目の当たりにしたため、モーセはそのエジプトびとを打ち殺してしまう。モーセの犯行はエジプトのファラオに知れ、モーセを殺そうとした。しかしモーセはファラオの前をのがれて、ミデヤンの地へ逃れた。ミデヤンはアラビア半島北西地域、アカバ湾東岸の地で、ミデヤン人とは古代パレスチナに住んでいたセム系民族。
モーセはそこで、ミデヤンの祭司の娘の一人だったチッポラと結婚する。
● 神の使命を受け、イスラエルの民をエジプトから脱出させるべくエジプトに乗り込みファラオと対決
一方、エジプトのほうでは、王の死後も、イスラエルの人々は、苦役の務に苦しめられ続けていたが、その苦役の叫びは神に届いた。神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い出した。
神は、モーセの父が飼っていた羊の群れを連れて彼が神の山ホレブにきたとき、しばの中の炎のうちから現われて、モーセを呼んで声をかけた。神はモーセに対し、
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」
と言い、さらに、
「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」と言った。
神はモーセに「わたしは、有って有る者」と自らを名乗り、もしモーセがエジプトのイスラエル人に自分のことを聞かれたら、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』
と、イスラエルの民に説明しなさいと言った。
また、神は、もしモーセがイスラエル人たちに会って、彼らから神の言葉を預かってきたといっても信じてもらえなかった場合に備えて、モーセに「三つのしるし」を与えた。
一つ目のしるしは、モーセが持っていた杖を、地に落とせばヘビとなり、その尾をつかめば元の杖に戻るというもの。
二つ目のしるしは、モーセがふところに手を入れると、その手はらい病で雪のように白くなり、手を出せばまた元に戻るというもの。
三つ目のしるしは、もしモーセがナイル川の水を取って、それをかわいた地に注げば、その水は、かわいた地で血となるであろうというものだった。
モーセは妻と子供、それと雄弁な兄のアロンを伴い、神から与えられた神の杖を持ち、エジプトの地に帰った。エジプト入りするとモーセは先ず、エジプトのイスラエルの人々の前で神から与えられた三つのしるしを示し、彼らに「エジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い」出せという神からの使命を信じさせることに成功した。
次いで、モーセたちはエジプトのファラオのもとへと赴き、
「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」と申し出た。
が、モーセたちの要求にファラオは、
「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」といって拒み、ますますひどい目にあわせるようになった。
そこで、モーセたちが神から与えられた三つのしるしをファラオの前で実行し、ナイル川の水をことごとく血に変えてみせたが、それでもファラオはいよいよ意固地になって、モーセたちの要求を拒み続けた。
エジプトのファラオはモーセの口を通して出されたヤハウェの神の要求に異常なまでに頑固で、ヤハウェによっていくら、エジプト中にカエルを溢れさせられようと、人と家畜にブヨをまとわりつかせられようと、人家にアブの大群を発生させられようと、疫病でエジプトびとの家畜を全滅させられようと、雷と雹の雨を降らせられようと、イナゴに地のすべての青物と木の実を食べさせられようと、それでもファラオはエジプトのイスラエル人たちをエジプトから去らせようとはしなかった。
ヤハウェの奇跡はかえってファラオの心をかたくなにするばかりで、いつまでもファラオはモーセたちの要求を聞き入れることがなかった。
が、最後、ファラオの息子を含めすべてのエジプトの人と獣の初子が無差別に殺されるという事態に及んで、遂にフラァオは観念し、
「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい」といって、イスラエルの人々をエジプトから解放した。
こうしてようやく、イスラエルの人々はエジプトのラメセスを出立してスコテ(ヨルダン川の東で、ヤボク川の北岸にあり、ペヌエルの西8km)に向うこととなったが、その人数は、女と子供を除いて徒歩の男子だけで約60万人もいたという。また、イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、430年だったという。
かつてヤハウェがアブラムに対して語った予言(『創世記』第15章 13-21)は、確かにその400年後に実行されたのだった。
● 苦難のエジプト逃避行 → モーセが海を割って脱出
ところがその後、エジプトから去ったイスラエル人たちを追いかけて、ファラオ自らえり抜きの戦車六百と、エジプトのすべての戦車およびすべての指揮者たちを率いて追っ手の軍勢を差し向けてきた。
モーセたちは、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前の宿営地にいて、海を目の前にエジプト軍に追いつめられた。
イスラエルの人々はモーセに、「荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」といって歎いたが、モーセは、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい」「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」と答えると、神の声の指示にしたがい、持っていた神の杖をかかげ、もう一方の手を海の上に差し出した。
すると、強い東風が吹いて、目の前の海を半分に割って水を退かせ、海の下の陸地があらわとなって道ができた。
イスラエルの人々はその中を進んで対岸へと渡ったが、フラァラオの戦車と騎兵も、彼らのあとについて海の中にはいった。しかしそこでもう一度、モーセが神の言いつけ通りに手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプト軍は海の中へと投げ込まれていった。
※ルートや細かい地名はおよその推測
・オレンジ矢印線 - 海を割ってエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授かり、パラン高原まで進む行程。
・紫矢印線 - パラン高原でのカナン探索の結果に恐れをなしたことが神の怒りに触れ、罰として40年間荒野をさまよい続けることなった行程。
・青矢印線 - ホル山からアタリムの道を通ってカナン人アラデの王と戦闘になったルート
・赤矢印線 - カデシの地から改めてカナン入りを目指し、アラバの道を離れて紅海の道からエドム人とモアブ人の領地を迂回して、死海東側のアモリ人たちの支配する領域へと向った行程。
・緑線 - モアブ人の領域へと侵入し、シホン王とオグ王と倒し、領地を奪って根拠地とし、40年の放浪生活から初めてイスラエル人の領地を獲得する行程
● ヤハウェの神が自分たちの主であるとなかなか信じようとしない「かたくなな」イスラエルの民
エジプト軍の追っ手から何とか逃れたモーセ一行だったが、その後、エリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきた彼らに待っていたのは、食べ物が何もない場所での"飢え"だった。
その荒野でイスラエルの人々は、モーセとアロンの兄弟に、
「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」と文句を言った。
それに対して神はモーセに、
「わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう」というと、朝になって、宿営の周囲に露が降りた。その降りた露がかわくと、荒野の面には、ちょうど地に結ぶ薄い霜のように、薄いうろこのようなものが残った。
イスラエルの人々にはそれが何であるのかわからなかったが、モーセは「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである」と説明した。それはコエンドロの実のようで白く、その味は蜜を入れたせんべいのようで、イスラエルの人びとはその物の名をマナと名づけた。
ただしこの神から与えられた「マナ」という食べ物は特殊な食べ物で、食べ方や収穫方法に細かい条件があり、早朝に各自ひとり一オメルずつずつ採って食べなければならず、余分に採取することも許されなかった。また、食べずに置くとすぐに腐敗して悪臭を放ち、気温が上がると溶けてしまう。
そのためモーセはイスラエルの人々に「だれも朝までそれを残しておいてはならない」と注意したのだが、にもかかわらず、中には朝までそれを残しておいて腐らせる者もいて、モーセを怒らせた。
また、安息日の7日目には収穫してはならないともモーセは注意したが、それでも七日目に出て集めようとして何も得られなかった者があり、モーセは、
「あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか」と呆れて言った。
マナは安息日には降ってこないのでその前日には二倍集めることが許されていて、その日に獲ったマナは朝まで保存しても臭くならず、虫もつかなかった。しかしそれも、安息日のうちに食べ終えてしまわなければまた腐った。
このマナは、エジプト脱出後、カナンの地に着くまでの四十年間、イスラエルの民の食料になったという。
それから、一行は、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかったため、それでまた、イスラエルの人々がモーセに向って、
「わたしたちに飲む水をください」「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」と争って文句を言い出した。
モーセは彼らに「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」といって歎いた。
しかし、水を求めるイスラエルの人びとに対して神は、モーセにホレブの岩を杖で打つように命じると、水がそれから出て、民はそれを飲むことができた。それにより、モーセはこの場所を「マッサ」(「試み; 試練」の意)、あるいは「メリバ」(「言い争い」の意)と呼ぶようになった。
これまでイスラエルの民は散々、何度も神の不思議や奇跡を目の当たりにしながら、それでもまだ疑い深く、彼らは「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って神を試すことを止めようとしなかった。
● アマレク人に襲われる → カナン周辺民族との生存戦争の開始
その後、一行は、アマレク人の襲撃を受けて戦争となるが、モーセはエフライム部族のヌンの子ヨシュアに命じて撃退させる。
「エフライム族」とはイスラエルの12支族の中の1部族で、ヨセフ族から分かれた2部族(マナセ族、エフライム族)の内の1つ。
アマレク人は当時、カナンの土地の南部に居住する遊牧民だったが、しばしばネゲブ(イスラエル南部の地)の牧草地を占拠していたという。
アマレク人はエジプトから出てきたモーセ一行を最初に攻撃してきた相手として、この行為によって彼らはヤハウェの怒りを受け、以後アマレク人はイスラエル民族にとって、ヤハウェからの命により根絶やしにしなければならない仇敵と化す。
「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにしたことを忘れないこと。彼は神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落伍者をみな、切り倒した。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない」(申命記25:17-19)
イスラエルの民はかつて、祖先のアブラハムがヤハウェからカナンを「約束の地」として与えられる啓示を受けた際、
「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。
しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。
あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。
四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」
と、まだ見ぬ遠い先の未来を予言し、その上で、神はアブラムと契約を結んで、
「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」(『創世記』第15章 13-21)
と約束していたが、今、モーセ一行がエジプトから脱してカナンの故郷へと戻るにあたって、これらの民族と領土を巡る戦いをしていかなければならなくなった。
しかしアブラハムと交わした契約のときから400年が過ぎた今、それらの民族の人びとは、ヤハウェにとって、まさに滅ぼさねばならない「悪」徳に満ちた民族となっていたのだった。
● シナイ山で『十戒』を授かる
エジプトの地を出て三月目のその日に、イスラエルの人びとはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。
すると、シナイの山から神がモーセを招いて、
「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』
と語り、山頂でモーセに対し後世に有名な『十戒』を授けた。
神はこのすべての言葉を語って言われた。
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」(『出エジプト記』第20章 1-17)
そして、神はシナイ山でモーセに語り終えると、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書いた石の板をモーセに授けた。
● イスラエルの民による「金の子牛崇拝事件」が発生
モーセはシナイ山の山頂でヤハウェの神から直接「十戒」を記した2枚の石板を授かったが、同じころ、山のふもとではイスラエルの人々がとんでもないことをしでかしてしまっていた。
彼らはモーセが山を下ることのおそいのを見ると、心配して、モーセの兄のアロンのもとに集まり、
「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」と彼に言った、。
するとそれにアロンが素直に応じて、
「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」というと、アロンはこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳物の子牛をつくった。
そしてアロンはなんと、
「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」とイスラエルの民衆に向って宣言してしまった。
しかしこれはとんでもないことだった。なぜなら神はモーセに対し、
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」と訓戒を垂れたばかりだったから。
神はシナイ山でモーセに十戒を授けている最中にアロンらの行動に気づき、激怒して言った。
「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。
また、
「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」といった。
神の激しい怒りに、モーセは、
「どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し」そして、
「あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」といって必死になだめて懇願すると、それで、神はその民に下すと言った災について思い直すことにした。
モーセはすぐに山のふもとへと降りていったが、モーセがイスラエルの人々の宿営に近づくと、彼らは金の子牛を祀る踊りをおどっていた。
それを見たモーセは、怒りに燃え、神から授かった「あかしの板」を手から投げうち、山のふもとで砕いてしまった。
また、それだけでなく、モーセは、
「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」といって集ったレビ族の子たちに対し、
「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」と命じた。
レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、イスラエルの民のうち、おおよそ三千人が倒れたという。
その後、モーセは再び石の板二枚を持ってシナイ山に登り、そこで改めて神の訓戒を授かった。
モーセが神から授かった十戒の2枚の石板は、神の指示に従ってアカシアの木で作られた特別な箱「契約の箱、聖櫃、アーク」の中に、マナを入れた金の壺、アロンの杖と一緒に納められた。
移動の際には、祭司たちが直接担いで持ち運んだが、普段は、モーセがイスラエルの民の宿営の離れた場所につくった「会見の幕屋」と呼ばれる幕屋の中の、垂幕で箱を隔て隠した「至聖所」内に安置された。
「会見の幕屋」はモーセが神と対面し、「人がその友と語るように」その言葉を受ける場で、他のイスラエルの民ですべて主に伺い事のある者は出て、宿営の外にある会見の幕屋に行ったという。
この「契約の箱」はさらにその後、二代目イスラエル王国の王となったダビデによって、エルサレムに運ばれて安置され、またそのことにより、エルサレムがヤーウェ宗教の中心地になったという。さらに三代目ソロモン王は神殿を造営してそれを確固たるものにしたという。
※ 「契約の箱」とイスラエルの神の関係性
橋爪大三郎氏の「宗教社会学入門」によれば、「契約の箱」とは、もとは目に見えない神様が座る椅子だったのが「契約を入れる箱」になったものだという。
ヤハウェとはもとは、シナイ半島の砂漠で信じられていた戦争の神、復讐の神だったらしく、それを、ユダヤ各部族の団結の象徴として祀るようになったようだと。
当時の宗教は多神教が一般的で、そして古代の戦争とは、そんな様々な神と神との戦いだったと。金の雄牛を拝む人々なら、それを戦場に担いでいき、敵も、自分たちの神様をはりぼてに作って持っていく。あとは大きな音を出したりして相手をびっくりさせ、勝てば神様のおかげだといって感謝をした。
ユダヤ人の場合、偶像を持っては行けないため、ヤハウェが座る椅子、箱を担いでいった。そのうちに、その箱が契約を納める「契約の箱」、アークとなっていったのであろうと。
● 自らを「ねたむ神」といい、イスラエルの民に異民族崇拝の禁止を厳しく命じるヤハウェの神
一度は激怒してイスラエルの民を滅ぼすとまでいったがヤハウェだったが、モーセの説得と償いに考えを改め、
「あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう。あなたは朝までに備えをし、朝のうちにシナイ山に登って、山の頂でわたしの前に立ちなさい」といって、再びモーセに十戒を授けることにした。
また、神はその際、イスラエルの民の今後について、
「あなたと、あなたがエジプトの国から導きのぼった民とは、ここを立ってわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にのぼりなさい。わたしはひとりの使をつかわしてあなたに先立たせ、カナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとを追い払うであろう。あなたがたは乳と蜜の流れる地にのぼりなさい」
と指示するするとともに、
「あなたが行く国に住んでいる者と、契約を結ばないように、気をつけなければならない。おそらく彼らはあなたのうちにあって、わなとなるであろう。むしろあなたがたは、彼らの祭壇を倒し、石の柱を砕き、アシラ像を切り倒さなければならない。あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。おそらくあなたはその国に住む者と契約を結び、彼らの神々を慕って姦淫を行い、その神々に犠牲をささげ、招かれて彼らの犠牲を食べ、またその娘たちを、あなたのむすこたちにめとり、その娘たちが自分たちの神々を慕って姦淫を行い、また、あなたのむすこたちをして、彼らの神々を慕わせ、姦淫を行わせるに至るであろう。あなたは自分のために鋳物の神々を造ってはならない」(『出エジプト記』第34章)
ということについても念を押して警告を与えた。
ヤハウェの神はイスラエルの民に対し、他国を占領しても、決して異民族の宗教や習慣に従ってはいけいと厳しく注意し、そしてそれは自分が「ねたむ神だからである」と言った。
● 部族軍団の結成とカナン偵察
ヤハウェの神はモーセに対し、祖先のアブラハムと契約して彼の子孫であるイスラエルの民に与えると約束したカナンの地に行くことを命じ、さらに、既にその血に住み着いている「カナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびと」を、「わたしはひとりの使をつかわしてあなたに先立たせ、を追い払うであろう」と告げたが、その後、神はモーセに、カナンを侵攻するための細かい軍団結成の指示までを与えた。
エジプトの国を出た次の年の二月一日に、神はシナイの荒野において、会見の幕屋で、モーセに言った。
「あなたがたは、イスラエルの人々の全会衆を、その氏族により、その父祖の家によって調査し、そのすべての男子の名の数を、ひとりびとり数えて、その総数を得なさい。イスラエルのうちで、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を、あなたとアロンとは、その部隊にしたがって数えなければならない。また、すべての部族は、おのおの父祖の家の長たるものを、ひとりずつ出して、あなたがたと協力させなければならない」(『民数記』第一章)
軍団は、イスラエルの12部族それぞれの族長が「つかさ・かしら」となり、各部族の中から戦争に出ることのできる20歳以上のすべての者を兵士として集める。
・ルベン部族はシデウルの子「エリヅル」が長となり、4万6500人の兵が集り、
・シメオン部族はツリシャダイの子「シルミエル」が長となり、5万9300人の兵が、
・ガド部族からはデウエルの子「エリアサフ」が長となり、4万5650人の兵が、
・ユダ部族からはアミナダブの子「ナション」が長となり、7万4600人の兵が、
・イッサカル部族からはツアルの子「ネタニエル」が長となり、5万4400人の兵が、
・ゼブルン部族からはヘロンの子「エリアブ」が長となり、5万7400人の兵が、
・エフライム部族からはアミホデの子「エリシャマ」が長となり、4万500人の兵が、
・マナセ部族からはパダヅルの子「ガマリエル」が長となり、3万2200人の兵が、
・ベニヤミン部族からはギデオニの子「アビダン」が長となり、3万5400人の兵が、
・ダン部族からはアミシャダイの子「アヒエゼル」が長となり、6万2700人の兵が、
・アセル部族からはオクランの子「パギエル」が長となり、4万1500人の兵が、
・ナフタリ部族からはエナンの子「アヒラ」が長となり、5万3400人の兵が、集ったという。
集った軍勢は総勢で60万3550人にもなった。
しかしこの軍勢の中に、「レビ族」だけは神の指示により加えられなかった。
レビ族はモーセとアロン兄弟の出身部族で、また12氏族中最小の部族で、男子の人数が2万2000人しかいなかったという。
神はモーセに、
「あなたはレビの部族だけは数えてはならない。またその総数をイスラエルの人々のうちに数えあげてはならない。あなたはレビびとに、あかしの幕屋と、そのもろもろの器と、それに附属するもろもろの物を管理させなさい。彼らは幕屋と、そのもろもろの器とを持ち運び、またそこで務をし、幕屋のまわりに宿営しなければならない。幕屋が進む時は、レビびとがこれを取りくずし、幕屋を張る時は、レビびとがこれを組み立てなければならない。ほかの人がこれに近づく時は殺されるであろう。イスラエルの人々はその部隊にしたがって、おのおのその宿営に、おのおのその旗のもとにその天幕を張らなければならない。 しかし、レビびとは、あかしの幕屋のまわりに宿営しなければならない。そうすれば、主の怒りはイスラエルの人々の会衆の上に臨むことがないであろう。レビびとは、あかしの幕屋の務を守らなければならない」
といって、レビ族は戦争には参加させることなく、荒野でレビ人は、アロンの監督の元で幕屋の奉仕、契約の箱の運搬、聖所での奉仕に従事させられることとなった。
のち、モーセの後継者ヨシュアの時になって、イスラエル人はパレスチナ地方の占領を果たすが、レビ人には相続地が与えられることもなく、祭司に関わる役目を任されていくこととなる。
中でもレビ族において、アロンの家系は名門として特別に扱われ、アロンの息子のナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルらは、みな油を注がれ、祭司の職に任じられて祭司となり、さらに三男エルアザルの家系からは大祭司が世襲で輩出されるようになった。
他のレビ人たちは全国に居住の町を与えられて、住み、そして、レビ人はその奉仕の報酬として奉納物の十分の一が給付され、そして、古代イスラエル王国が誕生すると、神殿が建設されて、レビ人の神殿礼拝は政治と結びつくようになっていったという。
・レビ族 - Wikipedia → https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%93%E6%97%8F
● 「タベラ」での罪 → 肉が食べられずマナには飽きたといってまたも神の炎で焼かれるイスラエルの民
これからカナンの地に攻め込もうとするなか、イスラエルの民は、マナしか食べられず肉が食えない現状に不満を漏らし、タダで魚、きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにくを食べられたエジプト時代を思いかえしてモーセに不満をもらし、またも神の怒りの炎によって焼かれるという事件が発生。
モーセが神に祈って、その炎はおさまったという。
「さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、『ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない』」(『民数記』第十一章)
● モーセを非難した姉のミリアムと兄のアロンも神からの罰を受ける
モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。彼らは、
「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」
と不平をこぼしたが、神はこれを聞いて怒り、
「あなたがたは、いま、わたしの言葉を聞きなさい。あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか」
といい、モーセはヤハウェの神にとって他の者とは違う特別の存在だと諭すと共に、姉のミリアムに対して罰を与えた。
神からの罰を与えられたミリアムはらい病となり、その身が雪のように白くなった。しかしこれも、モーセが
「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」
と嘆願すると、宿営の外に7日間閉じ込めるという罰で済ましてもらうことができた。(『民数記』第十二章)
● 12部族から代表者を選んでカナンの偵察に行かせる
イスラエルの民に軍団を結成させた神は、次いで12部族の中からそれぞれ代表者を一人ずつ選んで、これから侵攻をかけることになるカナンの偵察に向かせることを命じた。
神は彼らに、カナンののネゲブ地方に行って、
「山に登り、その地の様子を見、そこに住む民は、強いか弱いか、少ないか多いか、また彼らの住んでいる地は、良いか悪いか。人々の住んでいる町々は、天幕か、城壁のある町か、その地は、肥えているか、やせているか、そこには、木があるかないかを見なさい」
と命じた。それと、一緒に
「その地のくだものを取ってきなさい」とも命じた。時は、ぶどうの熟し始める季節であったという。
命じられた偵察隊は、カナンの地をチンの荒野からハマテの入口に近いレホブまで探り、四十日の後、探り終って帰ってきた。
そして、パランの荒野にあるカデシにいたモーセとアロン、およびイスラエルの人々の全会衆のもとに行って結果を報告した。
彼らはモーセに、
「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」
と言った。
● カナンの敵を恐れ神の栄光を信じない者に罰が与えられ、ヤハウェの神を疑った者はとうとう「約束の地」であるカナン入りが許されなくなり、さらにその後、イスラエルの民は「40年間」荒野をさまよう罰をうける
斥候の一人に選ばれたユダ部族のエフンネの子カレブは、
「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」
と強攻策を主張したの対し、他の斥候たちはみな、
「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。
「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」(『民数記』第十三章)
と、消極的で臆病だった。
ネフィリムというのは、大昔に地上に降りてきた神の子が人間の娘たちと交わって生まれた巨人の種族で、ヘブロンという土地に住むアナク人はその末裔だという。
そしてこれを聞いたイスラエルの会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしたという。
またイスラエルの人々はみなモーセとアロンにむかって、
「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」
と、またしてもモーセに不満をもらし、そして互いに、
「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」と言い合った。
それでもそのような状況の中、エフライム部族のヌンの子ヨシュアとユダ族のエフンネの子カレブのみはあくまで、
「主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」
と訴えたが、カナンの強敵を恐れる他のイスラエルの人々は、石で二人を撃ち殺そうとするほどだったという。
当然、このことにヤハウェの神はやはり激怒し、
「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがもろもろのしるしを彼らのうちに行ったのに、彼らはいつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病をもって彼らを撃ち滅ぼし、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう」
とモーセに言った。
それに対してモーセもまた、もしそんなことをすれば、
「『主は与えると誓った地に、この民を導き入れることができなかったため、彼らを荒野で殺したのだ』と言うでしょう」といって神をなだめ、
「どうぞ、あなたの大いなるいつくしみによって、エジプトからこのかた、今にいたるまで、この民をゆるされたように、この民の罪をおゆるしください」と赦免を請い願った。
すると神は、
「わたしはあなたの言葉のとおりにゆるそう」と言ってくれたのだが、ただし今回に限っては、
「わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう」
と、もはや神の栄光を信じない者には、約束の地カナンの地へ入ることは許さないという決定を下した。
また、神は続けて、
「あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。
エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、わたしがかつて、あなたがたを住まわせようと、手をあげて誓った地に、はいることができないであろう」といい、さらに、
「あなたがたの子たちは、あなたがたの死体が荒野に朽ち果てるまで四十年のあいだ、荒野で羊飼となり、あなたがたの不信の罪を負うであろう。
あなたがたは、かの地を探った四十日の日数にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう」と告げた。
その結果、その地を悪く言いふらした人々は、疫病にかかって主の前に死んだが、その地を探りに行った人々のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフンネの子カレブとは生き残った。(『民数記』第十四章)
● レビ族の子コラとルベン族の子ダタンおよびアビラムとオンがモーセに反乱を起す
カナン人の強大さにおびえて不満をこぼし、神からまた重罰を加えられたにもかかわらず、今度は、
レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に、モーセに対して反乱を起した。
彼らは集まって、モーセとアロンに、
「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」と逆らって言った。
しかし当然、神の怒りを買うこととなり、コラとダタンとアビラムとその妻子たちは、突如として裂けた地の底にのまれていった。
が、それでもまだ、イスラエルの人々の会衆は、みなモーセとアロンに、「あなたがたは主の民を殺しました」と恨みをぶつけて言った。
それに対して今度は激しい疫病が発生し、1万4700人もの死者が出た。
● 「モーセはカデシュで岩を打つ」ったが、致命的な失態を犯してしまい、モーセとアロンの二人まで神の怒りによってカナンの地へ入ることが許されなくなる
それは、イスラエルの人々の全会衆は正月になってチンの荒野にはいったときのこと。そこで民はカデシにとどまったが、その地でまたも水が得られなかったため、
「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを。なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」
と、彼らは何度おなじことを繰り返せばいいのか、またしても相集まってモーセとアロンに言い迫った。
しかしこのときも神がモーセの前に現れて、
「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」
といってくれたのだが、ここでモーセとアロンの二人は致命的な失敗を犯してしまう。
モーセとアロンはイスラエルの民たちを集めると、かつてホレブの岩を杖で打って水を出したときと同じようにして、カデシュの岩を2回打って水を出してみせた。
しかしその際に、モーセは、イスラエルの会衆を前に、
「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」と、うっかり口を滑らせてしまったのだ。
「"神が"あなたがたのために」ではなく、「"われわれが"あなたがたのために」と言ってしまったのだ。
それから、イスラエルの人々の全会衆がカデシから進んでエドムの国境に近いホル山に着いたとき、神はそこでモーセとアロンに、
「アロンはその民に連ならなければならない。彼はわたしがイスラエルの人々に与えた地に、はいることができない。これはメリバの水で、あなたがたがわたしの言葉にそむいたからである。あなたはアロンとその子エレアザルを連れてホル山に登り、アロンに衣服を脱がせて、それをその子エレアザルに着せなさい。アロンはそのところで死んで、その民に連なるであろう」と告げる。
モーセは神から命じられたとおりにしたが、アロンはその山の頂で死んだ。アロンの死に、イスラエルの全家は三十日の間アロンのために泣いたという。(『民数記』第二十章)
しかし、このときの罪のために、モーセもまた、カナンの地には入れぬまま、ヨルダン川の手前の頂ネボ山で、約束された国を目にしながら120歳でこの世を去る運命となってしまうのであった。
● ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王から襲撃を受けるが、反撃して国を滅ぼす
ネゲブに住んでいたカナンびとアラデの王は、イスラエル人たちがアタリムの道をとおって来ると聞き、イスラエルを攻撃し、そのうちの数人を捕虜にした。
アタリムとは、シナイ半島北東部のカデシュ・バルネアからホル山を経て、カナン南部のネゲブ地方へと向う道と思われるが、イスラエル人たちは神に、
「もし、あなたがこの民をわたしの手にわたしてくださるならば、わたしはその町々をことごとく滅ぼしましょう」と誓いを立てて言うと、神は彼らの言葉を聞き入れてカナンびとをわたしたため、イスラエル人たちは彼らの町々をことごとく滅ぼしたという。その後、その場所はホルマと呼ばれるようになった。(『民数記』第二十一章)
● またしても飢えに対する不満をもらし、神から火のヘビで焼き殺されるイスラエルの民 (もう何度目か)
モーセの兄アロンの死に場所となったホル山から出て、イスラエルの民は紅海の道をとおって、ヨルダン地溝帯(アラバの谷)をまたいだその東側のエドムの地へと回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなり、またしても神とモーセに不満をもらしてつぶいた。
「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。
すると神は、火のへびを民のうちに送って、彼らの多くを焼き殺した。
そこでモーセが神に嘆願してまた助命を請い、神の言いつけ通りに青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置くと、すべてへびにかまれた者がその青銅のへびを仰ぎ見ることで生き残ることができた。(『民数記』第二十一章)
● アモリ人の二人の王、シホンとオグを倒し、その領土をことごとく奪い取って、流浪の境遇から初めて定住地を獲得する
その後、さらに一行はマッタナ、ナハリエル、バモテへと行き、そこからモアブの野にある谷に行き、荒野を見おろすピスガの頂に着く。
ここでイスラエルの民はアモリびとの王シホンに使者をつかわして、
「わたしにあなたの国を通らせてください。わたしたちは畑にもぶどう畑にも、はいりません。また井戸の水も飲みません。わたしたちはあなたの領地を通り過ぎるまで、ただ王の大路を通ります」
ととの許可を求めたが、しかし、シホンはイスラエルに自分の領地を通ることを許さなかった。
だけでなく、シホン王は民をことごとく集め、荒野に出て、ヤハズにきてイスラエルと戦った。
しかし、イスラエルの民は、やいばで彼を撃ちやぶると、反撃してアルノンからヤボクまで彼の地を占領し、その領域はアンモンびとの領地との境にまで及んだ。
イスラエルの民はこれらの町々をことごとく取ったあと、アモリびとの王の都をふくめ、すべての町々に住みついた。
こうしてイスラエルの民は流浪の身境遇からアモリびとの地に居住地を得たが、モーセはまた人をつかわせてヤゼルの村を探らせると、さらに北進してその村々を奪い取り、住んでいたアモリ人たちを追い出した。
モーセはさらにバシャンの道を北進したが、シホン王と同じアモリ人でバシャンの王だったオグは、その民をことごとく率い、イスラエル軍と戦おうとして出迎えた。
しかし、神はモーセに、
「彼を恐れてはならない。わたしは彼とその民とその地とを、ことごとくあなたの手にわたす。あなたはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように彼にもするであろう」と言うと、イスラエル軍はオグ王とその子とすべての民とを、ひとり残らず撃ち殺して、その地を占領したという。(『民数記』第二十一章)
手直ししながら書き足していきます。