聖女と英雄と、賭け
私がはじめて彼に会った時、彼はただのウィレムだった。いくつもの夜といくつもの戦いを越えて彼は英雄となったけれど、私の知る限り、彼はやっぱりただのウィレムのままだった。
ひとつだけ違うのは、はじめて会った時はいなかった彼女が、今は彼の横にいることくらいか。
そのウィレムが、今、私に頭を下げている。お前にしか頼めないことなんだと、そう言って。
私は小さく頷くと、蒼玉のようにきらめく深く青い目を細めて、ウィレムの横に立つ彼女を促した。
彼女はゆっくりと一歩踏み出して、けれど後ろ髪を引かれるように一度だけ振り向き……それからまた私の傍らへと進む。
ウィレムは、その彼女の背をじっと見つめている。
「“盾の竜”たる私の名と誇り、そしてお前の信頼に掛けて、確かに承ろう。
私はこの子とこの子の末裔を守る。お前はその子の末裔を繋げていく。いつかそのふたつが再び交わる時まで、私はきっと見守っていくよ」
ひたすらに彼女を見詰め続けるウィレムの胸中は、いかほどだろうか。
彼の腕の中から小さな声とともに手が差し伸べられる。だが、彼女の手がそれに応えることはない。
さあ、ともう一度彼女を促して、私は首を下げた。彼女の腕に抱かれた赤子がにこりと笑った。
黒炎の悪魔さえ倒せば、皆、幸せになれるのだと思っていた。英雄と聖女ももちろん結ばれて、末永く幸せに、余生を送るのだと。
けれど、悪魔は呪いを残した。
聖女の上に、復活の予言と呪いを。
恐ろしい悪魔が己の存在を賭けた呪いは、解くことなど不可能だった。
ただ、“聖女の生命が尽きる時”と告げられた呪いの成る条件を、“聖女の血脈が尽きる時”と歪めるだけで精いっぱいだった。
何昼夜も話し合ったふたりは、結局、己ではなく世界の幸福を選んだ。
“聖女アデル”の血脈を守るために、ひとつを公にして、もうひとつは隠し守る。故に、この後、決して英雄と聖女が共にあることはない。
いつか呪いが消える日がくるのか、それとも彼のものの再来する日がくるのか、それはいかな神々にもわからないことだろう。
ただ、私の長い生が尽きる前にその日が到来することは確実だ。
彼女が背にしっかりと跨ったのを確かめて、私は大きく翼をはためかせる。
「ウィレム。もう今生でお前に会うことはないだろうが……幸あらんことを」
「ああ。それではシルヴァリィ……どうか、先を頼む」
私はばさりと羽ばたきを繰り返し、強い後肢で大地を蹴る。程なくして、身体がふわりと浮き上がり、土埃が舞う。
背に乗せたふたりが飛ばされないよう、風の守りを纏う。
数度の力強い羽ばたきで、地は瞬く間にはるか下方となった。行く手にはずっと続く空の青と海のような木々、そしてその先に霞む山々が広がる。
「シルヴァリィ、ありがとう」
「なに、私にとってはたいした時間じゃない」
背にしっかりとしがみつくアデルに、私は笑いかける。
* * *
「それで、この現状があるわけですよ」
かつて英雄の仲間だった男はそう言うと、自嘲するかのように笑った。
彼に会うのは何百年振りなのか。
定命の者だった彼は「死」という滅びを乗り越え、永遠を手に入れていた。
「人々は英雄ウィレムと聖女アデルを讃えた。
けれど、彼らは縋るばかりだ。自らは何もせず、ただ、取り縋るばかり」
彼の目に昏い光が宿る。私は彼の変わりように少しだけ驚いていた。
いや、正直なところ、微かに予感はしていたのかもしれない。
「あなたも考えたことはありませんか?
ウィレムもアデルも彼らのために戦ったのにと。彼らは本当にふたりがその身を……いえ、己が血脈すら犠牲にしてまで救う価値があったのかと。
ウィレムとアデル亡き後の彼らは、いかがでしたか?」
「だが、善も正義も、そのような打算だけで行なうものではない」
「あなたは、あなたの愛したウィレムが救った者たちをずっと見てきたはずです。それでもそう思えるのですか?」
彼の目にはわずかな狂気が宿っていた。
彼が過ごした時間は、かつて人だった者にとっては長すぎたか。
「人がたやすく過去を忘れることは、私も知っている。だが、私はお前のように考えてはいない」
「本当に?」
紅く揺らめく彼の目が光を増す。
その光は、かつての彼からは伺えなかったものだった。
「さすが、偉大なる正義の使徒、善なるものの導き手、銀の竜は違う。
――ならば、賭けませんか? 彼らとこの世界は、ウィレムとアデルが守るにふさわしいものなのか。
善と悪、彼らがどちらを望むのか」
くつくつと彼は笑った。
その目に宿る光は、やはり狂気が灯しているのだろうか。
「彼の者の再来を招くのか、それとも呪いの浄化を叶えるのか――天秤がどちらに傾くのかを賭けましょう」
楽しそうに笑い続ける彼は、既に歪んでしまっていた。ならばいっそこの場でと考えるが、しかし、ただの影を殺したところで意味はない。
私は小さな吐息を漏らす。
私にも彼にも、まだまだ長い時が残されている。その間はずっと、この世界にとどまることになるのだろう。
彼が何を思い何を感じたのかはわからない。
だが、ウィレムとアデルがその身を賭して救った世界と人びとなのだから、私はまだ、期待していてもいいはずだ。
「それでお前が満足なら」
にい、と彼の唇が弧を描く。
「――シルヴァリィ、知っていましたか? 黒い炎は消えていないんです」
思わす目を眇める私に、彼はまた笑いだす。
「しかも、炎に焼かれた者たちは、末裔を殺すだけが方法ではないと考えたんです。それよりももっと良い方法があると、ね」
「お前は何を言っている?」
いったい何のことなのか。
訝しむ私に、彼はおかしくてたまらないと哄笑する。
「すぐにわかりますよ。
とてもえげつない……本当にえげつないですね、彼らは。もともと善良な、無垢な子供ばかりで、なのにこんなことを考えるなんて相当にえげつない。つまり、そもそもの人の本質が邪悪であるということの、これが証左なんでしょう」
「いったい、何の話を……」
「わかりませんか? 伝説から悪魔を見出した人びとが、黒炎の洗礼を浴び、進んで悪魔の下僕と変わっているんです。
英雄も聖女も哀れですね。己とその血脈、そして竜の果てしない寿命までを犠牲に守ってきた結果がこれだなんて。
まさか、守ったはずの者が、悪魔の復活を願うとはね」
彼の言葉に息を呑む。
彼は何を見た? 彼は何のことを言っている? そして――
「お前は、いったい何をしようとしている?」
「何も」
笑いをおさめて、彼は遠くを眺めるような表情を浮かべた。
「ただ見ているだけ……そう、ただ、何もせず見ているにすぎません。あなたも手出しは無用です。我々が手を出すべき時は、とうに過ぎています」
それから、ふと、彼は考え込むかのように視線を彷徨わせる。
「ああ……けれど、まだ足掻くのかもしれませんね。ウィレムの末裔たちが」
目を細め、睨みつける私の視線をどこ吹く風と受け流し、彼はまた笑った。
「ですから、賭けをしようと言ったのです。ウィレムとアデルの末裔は守り通せるのか、それとも力及ばず斃れるのか、を」
はたして天秤はどちらに傾くのでしょうね……彼は、元英雄の仲間であった魔術師ラルフの影は、それだけを言い残して私の前から消えた。