xx 世界で一番美味しいモノ(前)
「……あれ? おーい、シャル? シャルロットちゃーん? 寝ちゃった?」
お姉ちゃんがあたしを起こそうとしているのか、起こさないようにしているのか、微妙な強さで揺さぶってきたけれど、あたしはそのまま寝たふりを続けた。
だってあたしは、きっとあたしが起きていたら言わないであろう、お姉ちゃんの本音を知りたかったから――
「初めまして、こんにちわ。私の名前はマリナだよ。君のお名前は?」
あたしより少しばかり年上の女の子は、小さなあたしと目線を合わせるように、しゃがみながらそう第一声を投げかけてきた。
柔らかな声と穏やかな笑顔。ココアブラウンの髪に、トパーズの瞳は今まであたしが見たことがない「優しさ」というものに染まっていて。
どれもあたしにとってはすごく慣れないモノで戸惑ってしまい、咄嗟に名前を答えることができなかった。
早く言わなきゃ、と頭では思っていても、何故かなかなか出てこなくて。
あまりに長い時間をかけてしまい、怒られる、とビクビクしながらも、やっとのことで絞り出すように「シャルロット、です」と告げたら。
「そっか、シャルロットって言うんだね。これからよろしくね、シャルロット」
急かすでもなく、苛立つでもなく、気長に待っていてくれたその人は、そうあっさりと返した。
……ちょっと待たせただけでで怒るなんて、あたしの実の父親含むごく一部の人だけだというのは後になってわかったことで、当時のあたしは怒られなかったのがすごく不思議なことに感じて。
特に何も(当然媚びも)考えず、スルリと出てきた言葉を口にした。
「よろしく、おねがいします。……マリナ、おねえちゃん」
「……うん」
この瞬間、あたしのお姉ちゃんとなった人の照れたような笑顔は、ひどく印象に残っていて。
今にして思えば、その時すでにお姉ちゃんを好きになっていたのだと。さすがにこの時点では恋ではなかったけれども。
お姉ちゃんによく似た……というよりはお姉ちゃんがこの人に似たのだろう、優しい笑顔のお義父さんと、その優しさに絆されて少しずつ険が取れ穏やかになっていくお母さんと、お姉ちゃんと。
あたしのこの病弱な体はいつまで経っても快方に向かう傾向は見せず、内心では焦燥感を抱えていたけど、それでもこの四人で幸せに生きていけるのだと少しずつ実感し始めた頃。
……お義父さんとお母さんが、事故で亡くなった。
あたしは真っ青になった。これから訪れるだろう未来を想像して。
だってあたしはただ子どもというだけでなく病弱だ。お姉ちゃんだって準成人を迎えてから少しずつ働き始めていたものの、やっぱりまだ子どもだ。
子どもが、足手まといにしかならない子どもの面倒を見るなんて、無理に決まっている。
もちろんお義父さんとお母さんが亡くなったこと自体もとても悲しいのだけれども、あたしは非常に勝手ながら、自身の暗闇しかない先行きに怯えて涙を流した。
その時半ば無意識に、隣で大泣きしていたお姉ちゃんの服の裾を握ったのは、正解だったのか、間違いだったのか。
お姉ちゃんはさしたる間もなく声をあげるのをやめ、まだまだ叫び足りないだろうにしゃくりあげながらも必死に口を引き結び、真っ赤になった目元をこすり、それでも溢れる涙をいっぱいに溜めながら。
あたしの手を、痛いくらいに強く握りしめて。
あたしという重荷を、背負うことを決めてしまった。
それからお姉ちゃんはがむしゃらに働きだした。日の出から日の入りまで。夜は夜で家事をして、あたしの相手をして。安息日には内職をして。
日に日に疲れが増していっているのに、それでも笑顔は絶やさずに。優しさを失わずに。
……正直な話、あたしはどうしてお姉ちゃんがここまで頑張れるのかわからなかった。
血の繋がらない、血が繋がっていてすら見捨てる実の父親が居るというのに、何故ここまで他人のために必死になれるのか、理解ができなかった。
だからこそ……あんな馬鹿な真似を、してしまった。
「……お星さまが、ふってくる?」
「うん、三日後の深夜だったかな。空にいくつもの流れ星が見えて、それに向かって一生懸命お願い事をすると、願いごとが叶う……っていう、まぁ噂だけども」
その時あたしは、「これしかない」と思ってしまった。
一緒にお願い事をしようと誘い出せば、お姉ちゃんが何を考えているか少しは理解できる気がしたのだ。
とはいえ同時に恐怖でもあった。
「お金持ちになりたい」とかなら可愛らしいとさえ思えるけれども、「シャルロットをどうにかしてほしい」と願われてしまったらどうしよう、と。
それでもあたしは一歩を踏み出してしまった。本音を「知りたい」から、「知らねばならない」に変化してしまった。
……結果的に、知ることは必要なことだったけれども、あたしはこの上なく後悔をした。
「……妹に、おなかいっぱい食べさせてあげたい。この子が、健康に、強い体になれる日が来ますように――」
「……っ」
思いもよらなかった囁くような願い事に、寝たふりをしていたことも忘れて声を出してしまうところだった。
まさか、自分のことじゃなく、あたしのことを願うだなんて。
疎ましく思うどころか、それが第一の願いになるほど心配して、想っていてくれただなんて。
何を考えているかわからないだなんてとんでもない。
きっとこの人は、何も大したことを考えていない。これは別に悪口ではなく、隠すような裏がないという意味で。
理由とか理屈とか抜きに、ただ、家族のことを、大切にしてくれていたのだと。
これまでの経験からあまりにも思考が鬱々とした方向に凝り固まっていたあたしは、そんな簡単なことに今まで気付けなかった。
……後になってやはりここまでのレベルは異常だと気付き、ただ家族というだけでそれができてしまうお姉ちゃんに、深い尊敬の念を抱くことになった。
ごめんなさい、ごめんなさい。
嘘を吐いて、騙して、ごめんなさい。
勝手にお姉ちゃんを疑って、怪しんで、信じてあげられなくて、ごめんなさい。
あたしは、ここに至ってやっと、どうしても保身第一になってしまう方針を捨てることができた。
それは、この人ならあたしを見捨てないだろう、という後ろ向きな確信を得られたからだけども。
それでも、この人のために前を向いて生きていこうと思えるようになったのだ。
愛想笑いなどもうしない。全て、心の底からの、笑顔と好意を。
……まぁ、お姉ちゃんの願い事が変な風に叶って、胃袋をガッチリと掴まれてしまったのは……うん。
ごめんね。お姉ちゃんの後悔とか、罪悪感とか、葛藤とか、全部知っていたのに。
すでにあなたのことが大好きになっていたから。どうしても離れたくなかったし、誰にも渡したくなかったから。
負い目すらも利用して手元に縛り付けようとした……悪い子で、ごめんね。
お姉ちゃんのおかげで、歪ではあっても、あたしは今元気に生きています。
だから、胸を張ってください。あなたがしたのは、とても良いことです。良心の呵責に苛まれる必要は、ありません。
もうそんな、自分で自分を追い詰める慚愧の念は、無かったものだと放り投げていいのです。
ただ、お姉ちゃんのそれは手放していいけど……あたしは、絶対にお姉ちゃんを手離さないんだからね。
×××××
二年。それがあたしたちの旅の期間。長かったような、あっという間に過ぎ去ったような。
決して実態が表で語られることはないだろうけど、この旅は一体どこのグルメツアーなんですか、というある意味とてもヒドい有り様だった。
もちろん数多の苦難はあったけど、最強種たちとの遭遇のくだりを語ったら誰もが「何を言っているのかわからない」って反応に確実になると思う。
南の大草原で大火事が起こっているというので向かってみれば、カレイドフェニックスと遭遇した。
常に空高くから襲い掛かろうとしてきたので大変だったけど、飛ぶことはできなくても跳ぶことはできる。地に落としてしまえばこちらのもの。後に唐揚げパーティとなった。
死してなお火に強いという話だったのに、お姉ちゃんの手によってカラっとジューシーに揚がりました。
そのまま食べてもよし、塩やレモネーをかけてもよし、タルタルソースをかけてもよし。何をトッピングしても美味しかった。
油物を食べすぎたというのに胃もたれすることなく、むしろ逆に肌がツヤツヤになったとか、女性の味方と言えるお肉だね!
西の熱帯雨林で雷鳴のような咆哮が絶えないというので向かってみれば、ライトニングタイガーと遭遇した。
木々を活かし縦横無尽に駆け回っていたけど全てを吹き飛ばしてしまえば関係なかったし、雷の咆哮も分かりやすい溜めがあったため先んじて潰してしまえば問題はない。後に焼肉パーティとなった。
肉の臭みが強いから、と色々香草をまぶしていて味が千変万化だったし、タレとの絡み具合が本当に絶品でした。
ミルクやハチミツ、ヨーグルトなどに付け込んだやつも、臭みが旨味へとなって大爆発、って感じ。
フレイムドラゴンのバーベキューも十分以上に美味しかったけど、調味料が加わるとここまで段違いになるんだね……料理って本当にすごい。自分で覚える気はないけど。
北の絶海で季節外れの嵐が発生したというので向かってみれば、ティラノタートルと遭遇した。
海の中に陣取っていたからどう戦うか悩んでいたのにお姉ちゃんがまさかの一本釣り。さすがにあたしも訳が分からなかった。陸にあげられて動きが鈍ったところをみんなで囲んでフルボッコしてちょっとだけ可哀想だと思った。でも容赦なく後に鍋パーティとなった。
……この時は別の意味で大変だった。段々体が熱くなってきて、何故か一人だけ影響を受けずスヤスヤ眠るお姉ちゃんじゃなかったら、間違いを起こしていたかもしれない。
無防備すぎて逆に手が出せなくなるパターンね。これは信頼なのか、全く想像をしていなかったのか……お姉ちゃんのことだから後者だろうね。
いやその、うん、起こるならむしろ起こってほしかったかもだけど、でもやっぱり何というか、後が怖くなりそうで……うん。
あと微妙にフリードリヒ王子の視線が鬱陶しく感じたのはあんまり思い出したくない。別に嫌いではないのだけれど、あたしはお姉ちゃん一筋です。
そして……東の雪山で、魔王と成った、深い深い、深すぎて黒にも見える青い鱗をした、ノクト・セレネイドドラゴンと遭遇した。
猛吹雪でわずか数メル先すら見通しが立たず、風切り音も鋭く、視覚と聴覚が制限された状態での戦い。しかも氷点下で足元も悪いという悪条件のオンパレード。
でも、あたしには関係ない。だって(推定)最高のごちそうが目の前にあるのだ。燃えないわけがない。
激しい戦いの末、最終的には雲すら吹き飛ばし、聖剣の一撃を。それでは倒せなかったのだけど、わずかながらも気を失ったのがドラゴンの運の尽き、お姉ちゃんにあっさり切り分けられましたとさ。
きちんと計測はできないからはっきりとは言えないのだけれど、蓄えた魔素の量に比例して美味しさが増しているというのが今までの経験則。
だからあたしは大いに期待をして、まさにその期待の通り。魔王に成っただけあって、今まで食べた中で一番美味しかった。
鮮やかな赤に対比を成すように白くきらめく脂がさしかかったいわゆる霜降り肉の一種。
寒いから、ということでシチューにしてくれたのだけど、食べる前はゴロゴロと浮かんでいたお肉の塊が、どういうわけか口に含んだ途端に雪のように柔らかく儚く消えていく。それでいて、おなかの底からしっかりと熱が伝わってきて、まるで温泉に入っているかのように体中を芯から温めてくれる。
シチューもシチューで負けていない。クリーミーな甘さの中に野菜と肉の旨味が溶け出し、とても濃いのに爽やかさも感じられ、命の風というか、そういう感じのものが吹き抜けていった気配がした。
あたしたちは、魔王討伐の達成感と、旅の終わりの寂しさのようなものを噛みしめながら、おなかいっぱいになるまで堪能した。
その夜、いつものようにお姉ちゃんの寝床に潜り込んだら、いつもすぐ寝ちゃって抱き枕状態になるだけのお姉ちゃんにしては珍しく抱きしめ返して頭を撫でてくれた。
そして「よく頑張ったね」って万感の思いを篭めた声で囁かれて、あたしは勇者としての仕事をやり終えたのだという実感が湧き、安堵の涙がじわりと滲みだしてきた。
……まぁ、でも、うん、対最強種ではお姉ちゃんもものすごく頑張ってたよね。
全然力をこめてるように見えないのに、あたしの聖剣より切れるんだもん。すっごく不思議……を通り越して勇者要らなくない?と少しだけ思ったのは内緒。
と言うか……やはりこの旅で一番褒められるべきはお姉ちゃんだと思う。
確かに能力はすごい、とてもすごい。
でもその能力には対価があって。普通の魔物が相手なら最弱のゴブリンとすら戦えなくて。
身を護るのも一苦労でどう考えても危険だとわかっていたのに、あたしが依存症抜きにしてもどうしても離れたくなくて無理矢理ついてきてもらって。
怖くて震えているところも、泣きそうなところも、何度も見てきた。
自分は足を引っ張っている、役立たずだと悲しそうに、悔しそうにしてたところも、知っている。
……それまでは常に絶やすことのなかったあの優しい笑顔が減っていることにも、気付いていた。
全部、全部あたしの身勝手で巻き込んだのに、一度たりともあたしに文句を言うことなく、あたしが告白したあの夜以外に弱音も、泣き言も零さず一人で抱え込んで。
それなのに、あたしが困っている時には何も言わずとも気付いて手を差し伸べてくれて。
料理だけじゃなく、精神面でも、どれだけ助けられたことか計り知れない。
お姉ちゃんが居なければ、あたしは最後までやってこれなかった。そう断言できるくらいに、すごく頑張ってくれた。
パーティのみんなはお姉ちゃんを認めてくれるだろう。むしろ勇者より重要だったんじゃない?ってレベル。
フリードリヒ王子は毎度どこの評論家ですかってくらいに料理の感想を詳しく述べつつ絶賛してくるし。
アルベルトさんは逆に静かだけど常に手が止まらない感じだったし。
フレデリカさんは料理もそうだけど能力の仕組みとか色々お姉ちゃん自体に興味津々だったし……おかげでケンカばかりだったよ。親友にもなれたけど。
トマスくんはもうアストラ教に戻れないんじゃないかってくらいお姉ちゃんを崇めだすし。
頻繁に能力全開料理を作ってたわけじゃないからあたしのようには依存症にはなってないだろうけど、ちょっと怖くなる時も……依存症になってないよね? 大丈夫だよね? 旅が終わってからもお姉ちゃんに付きまとうようなことはないよね?
けれど……世間の目は、どうだろう。
あたしは何度も耳にした。目にした。お姉ちゃんへの陰口や、悪意の視線を。
あたしが(はらわたが煮えくり返っていても表面上は穏やかに)どう説明しても身内贔屓だと勝手に解釈する人がどれだけ多いことか。
そりゃお姉ちゃんは実際に魔物は倒せないし、最強種が相手の時は危険すぎて人払いして目撃者も居ないし、実力を疑いたくなるのはわからないでもないけど……勇者パーティ全員が認めているのに、何故他の誰も信じてくれないのだろう。
……あたしたちは、これから帰還することになる。そして、栄誉と報酬を受け取ることになるだろう。お姉ちゃんにも表面上は贈られるだろうけど……裏では、どう思われることか。
お姉ちゃんならきっと困ったように笑うだけで、不満を漏らしはしないだろう。でもそれは表に出さないだけで内心では傷ついているだろうし、そんなことになったら許せそうにない。
別にあたしはどうしてもお姉ちゃんに榮譽や報酬を与えてほしいわけじゃない。お姉ちゃん自身もむしろ要らないと思うだろう。ちなみにあたしも要らない。
ただ、あたしは認めてほしいだけなのである。
お姉ちゃんは無能じゃない、お荷物じゃない。大事な、パーティの一員だったんだ、って。欠けてはならない存在だったんだ、って。
もしくはせめて認めるとまではいかなくても、腰巾着だなんだのと、悪意を向けるのを止めてほしい、と。
あたしはあたし自身が責められるよりも、お姉ちゃんが責められる方が遥かにつらい。
だから……きちんと守っていかなきゃ。うん、あたしの仕事の本番はこれからだ。
半ば無理矢理あたしを勇者だなんだのと持ち上げてきたんだから、その地位とか権力とか、思いっきり利用させていただきますよ? ウフフ。
でも、今日のところはそういうのは置いておいて。
「お姉ちゃん」
「……うん?」
「お姉ちゃんも、すごく頑張ったね。いっぱい助かったよ。とっても、とってもありがとうだよ」
そう囁いて、あたしはお姉ちゃんの頭を撫でた。
「…………――っ」
お姉ちゃんはあたしが何を言ったのかすぐにはわからなかったのかしばらく目をぱちくりとさせていたけど、やがて染み渡ったのか静かに目から涙を溢れさせた。
そして。
「……うん、どういたしまして」
泣きながら浮かべたその笑みは、今までで一番綺麗だった。
長くなったので前後に分割します。
後編は1時間後くらいに。




