紅を探して
目もくらむような日差し、体を焼き尽くすような暑さ。その秋らしい空の下、私は紅を探して彷徨っている。
お供は古いトラック。顔には精一杯の洒落たサングラス。蒸した空気を体にまとって。
ガタガタなリズムはどこか下手なドラムを刻むよう。
そうして揺れる景色の向こうに、小さな紅を探したかった。
けれど、目の前に広がっているのは、どこまでも一面の深緑。いちいち種類が分かるほど博学ではないが、葉の形も、木肌の色も多種多様。そのどれもが葉の色は緑で、どこにも紅はない。
出発前から分かり切ったことではあったのだが、何日もそんな景色ばかりを見ている。変化も何もない。もはや緑は見飽きたものだ。紅と言わず、青でも黄色でも、七色でも構わない。緑以外の色を見たかった。
そんな長いドライブは長く続けられるものではない。腰を痛みから解放したくて、外に出てみる。ただ、そこは灼熱の秋だ。休める日陰はどこかと探せば、緑色の木があるのは幸いではあるが、こんな日に旅をする人間もそうそうはいないだろう。
いくつかの木を見比べて、枝ぶり見事な大木を選び、そうして下に入って腰を掛けた。
腰につけたペットボトルを取り出して、口をつければ、ミネラルウォーターがのどを潤してくれる。水音が首を通り過ぎていけば、あとに聞こえてくるのは蝉の大合唱と少しの木々の揺れだけだ。
「見事な秋ぶりだな……」
蝉に、陽ざしに、カブトムシ、秋の風情を感じさせるものは、この森の中に溢れているだろう。この世界に、私以上に秋を感じている人間はいないに違いない。
ただ、それが本当の秋ではないという人がいて、何を思ってか、私はそれを確かめたいと思っていた。
懐から一枚の写真を取り出す。そこに存在するのは一面の紅の景色だ。今、目の前に広がるものとは似ても似つかない。それが、彼女が知っていた、本当の秋の景色。驚くことに、今、目の前に広がっている緑の景色が紅に変わるというのだ。
「……紅の秋なんて、本当にあったのかね」
記録では、確かにそんな時代もあった。けれど、もはやその時は彼方に消えて、誰も気にするものがいない。この世界にそれが残っているのか。ぼやく声は秋の煌々とした空に消えていく。
私にだって、自信はない。ただ、それを探したいというがむしゃらな気持ちだけが、身体を動かしている。
ただ、今は……、その気持ちに逆らって、微かな疲労と心地よさに身をゆだねた。
幼いころに、紅の写真を手渡してくれた皺だらけの手を覚えている。ずっとベッドに横たわったままではあったが、彼女にできる限りで私を愛してくれた家族。そんな彼女が十月になると、毎日のように呟いていた言葉。
『昔はね、秋といえば真っ赤な景色だったのよ。モミジが緑色から、赤になってね。モミジ狩りなんて言葉もあったくらいよ……。今では想像できないでしょうけどね』
『……モミジは緑色だよ?』
当時の私の舌足らずな声が答えた。思えば、それは無神経な言葉だったのか。曾祖母は、そんな私に寂しげな笑顔を向けて、皺だらけの口を細々と動かして言うのだ。
『そうね。あなたはもう、それしか知らないのだもんね……。けど、叶うなら、もう一度だけあの赤い紅葉が見てみたいわ……。お父さん、あなたのひいおじいちゃんが真っ赤な紅葉が好きだったのよ。
私へのプロポーズも、そんな紅葉を見ながらだったの』
それが彼女と交わした最後の会話だった。次に思い出すのは、顔に白い布をかけ、棺桶に静かに眠る曾祖母。その手には紅色に染まった秋の写真が握られていた。結局、曾祖母はその紅葉を見ることは叶わなかったのだ。
忘れもしない、私が初めて人の死と出会い、今でもノスタルジーと共に思い出す日。
『真っ赤な紅葉が見たいわ……』
そんなか細い声が、眠る曾祖母から聞こえてくるようだった。
「……」
熱い空気に眼を覚ます。少しばかり木陰で眠ってしまっていた。シャツにはじっとりと汗が染み込んでしまっていて、秋の温度とやらが体にさらされていたのを思い出させる。
熱でぼんやりとした頭をふるいながら立ち上がると、私は再びトラックへと乗り込み、アクセルを吹かせることにする。そうしてガタガタの音と熱気だけが頼りの旅が再開するのだ。
曾祖母が死んで、二十年がたつ。舌足らずな子供が、大人の中間の小僧に代わるには十分な時間。いずれは学業を終えて、就職すると、そんな人生最大の暇な時期。
その余暇を消費するものを探していた私は、秋の緑を見るたびに、曾祖母の遺した言葉を思い出し、そしてその景色を探そうと、そんな馬鹿な考えに支配されてしまった。思い立ち、家を飛び出してしまったのが一月前。証拠は彼女が遺した一枚の写真。
たった一人で本当の秋を探す旅だ。
この世のどこかにあるとも知れない、そんな紅を探す無謀な旅。
私は全国を巡った。薄暗い森林の奥も、郷愁を感じさせる寒村も、大都会の公園にも行ってみた。けれど、秋の木々はすべてがきれいな緑色。いつまでたっても、赤い景色なんて見つからない。もしかしたら、この世界からそんなものは本当に消え去ったのかもしれない。
今ではモミジといえば、手のひらを広げたような、緑の葉と決まってしまっている。きれいな秋を示す、緑色の木だ。
四季は時と変動の中で薄れ、人はそれに慣れてしまっている。今では誰も覚えていない、そんな微かな日々の彩の変化。人の生活にはあまり関係がないからだろうが……、確かにあったソレらへと思いを馳せる者はあまりいない。人間、命にかかわらないことには思う以上に鈍感なのだろう。
車は音を鳴らしながら山道を行く。これから向かうのは、この国で一番高い場所。気温が低いのなら、そこに希望があるかもしれない。そうは思っても遠い場所だ。効きの悪いエアコンのせいで、汗を垂れ流し、小刻みに動いては腰を痛くするおんぼろでは、着いたときに真面に動けるのだろうか。
『もう少し楽な方法で行けばいいんじゃないか?』
ふと、とある友人が言ってくれた言葉を思い出した。確かに、いくらでも楽な方法はある。けれど、なぜだか、この一大旅行には、その手段は似合わないと思ったのだ。
『紅葉なんて見ても、どうにもならないじゃないか』
そう言ってくれた友人もいる。
確かに、彼の言う通りだ。見たところで、きれいだね、で終わる。昔の写真をあされば、その景色を実際に見ることも可能だ。
きっと意味はないのだろう。葉が赤かろうが、緑だろうが。地球にとっては誤差の範囲、植物にとっては生きていればそれで十分。単なる色の違いに大きな意味は存在しない。
けれど、私はきっと、この旅を終えて、紅に染まった秋を見た時こそ、彼女の心がわかる気がするのだ。彼女が最後に感じた寂しさと郷愁を共有できる気がするのだ。
景色を見たいわけではない。
大切な人との思い出に彩りを一つ増やし、少しの心を届けたいだけ。
私が紅を探す理由はそれで十分なのだ。
この緑の向こうに一面の紅が広がる日を夢見て、私の旅は続いていく。
企画には初参加だったのですが、いかがだったでしょうか?
「紅の秋」という題目にかかわらず、少しも紅が出てこないという我ながらひねくれた解釈をした作品となってしまいました。いつも書いている作品とも、また違った作風にもなっているので、ご意見をいただけると幸いです。
最後に「紅の秋」企画を主催された遥彼方様にお礼申し上げます。