第094話 渚さんと猫の魂
「黒猫のクロ……ミケと同じサポートAI。そんなものがリンダの中に憑いていたってのか?」
午後、緑竜土探索の打ち合わせにリンダの家にやってきたルークがクロについての説明を聞いて頭を抱えていた。
『うん。まあ、頭は痛いだろうが現実に目を向けようよルーク』
「ハァ、分かってるよ。そんで、なんでそんな状況になってるんだ? そもそもいつ憑かれた?」
『恐らくはアゲオのダンジョン内でパトリオット教団と戦った前後だろうね』
「つまり、教団側のAIというわけか?」
ルークの視線に端末の画面に映っているミケが頷く。
『まあ、ダンジョン内でさまよっていた野良AIの可能性も否定できないけど、十中八九教団のものだよ。ただクロのシステムチェックをかけてはみたけど、残念ながらパトリオット教団どころかここまでの記憶のほとんどが抜け落ちているんだ。領域内のメモリの容量計算をしたけれども、そもそも存在していないようなんだ。どうやらリンダへは偵察や潜入といったものではなく、自己のマトリクスの保持を目的とした行動だったようだね』
ミケが口にしたマトリクスという言葉に渚が眉をひそめた。それはここまでにミケの口から聞いたことのない単語だった。
「なあ、ミケ。マトリクスってなんだ? そんな言葉、今まで聞いたことなかったと思うんだけど」
『まあ話す機会も意味もなかったからね。君に分かりやすく伝えるとすれば、マトリクスとは魂に該当するもの……というべきかな』
「魂? なんだよ。幽霊とかそういう話か?」
「お化けですの?」
「オカルトは好きじゃないんだがなぁ」
ミケの説明に渚だけではなくリンダやルークも首を傾げており、その様子にミケが目を細めた。
『おや、渚だけではなく君たちもかい?』
「いや、だってよミケ。いきなり魂とか言われてもそりゃあ……なあ?」
「ですわよねルーク。まさかヘルメスの中に猫の幽霊がいるとでも言うんですの?」
『あら、いますよ。猫のとは言い難いですけど』
クロのあっさりとした言葉にリンダが「え?」という顔をすると、ミケが話を続けていく。
『実際に利用していても、知らないものなんだね。まあ、簡単に言えば魂と呼ばれるものの存在の発見はとうの昔にされているし、加工する技術も確立している。クロはそれを保存する行動に出ていたわけだね』
「いまいちピンと来ないんだが、なんでAIが魂を持っていて、護る必要があるんだ?」
ルークの問いに、ミケが『ふむ』と口にして少し考え込んでから再び口を開いた。
『今の時代の君たちには分かり辛い概念だろうけどね。かつてはAIにも人権を求められる時代があったんだ。魂の解析が済んで複製すらも可能になったことで自己というものが大きく揺らいだことがあってね。結果として個というものがより重要視されていった。そして生み出されたのが市民IDだ。アレは魂、マトリクスに識別タグを書き込んで判定しているからね』
「そ、そうなんですの?」
実際にクキアンダーシティの市民であったリンダが驚きの顔をする。それは元市民であっても知らされていない情報であるようだった。
『そうだよ。クローンどころか魂まで含めた完全な複製体を大量生産できるようになってしまったから、複製が不可能な市民IDの有無で人間であるかどうかを判別するようになっていったんだ。それに君たちが所持している狩猟者調査局のワッペン。それが君たちを識別している生体認証もマトリクスパターンをサーチしておこなっているものだよ』
その説明に、ルークが自分の狩猟者管理局から渡されたシルバーワッペンを見ながら眉をひそめている。
『まあ、求められた機能がちゃんと動いているのであれば、その仕組みなんて普通は気にならない……ということなんだろう。ともあれ、個人としての権利が重要視される時代に変わったことでその内にAIにも人権を要求する運動が起きて、個体識別としても有効であった人工マトリクスの導入が高度な知性を有するAIには与えられるようになったんだ』
「つまりマトリクスはお前も持ってるってことか」
『うん。この人工的にデザインされたマトリクスに記述された識別タグはランクとしては市民よりも落ちるんだけどね。ただ市民IDを振られていない君たちよりもアンダーシティは僕を人間として認識するんじゃないかな?』
それは市民IDのない地上の人間をアンダーシティは人間と認めていないということであり、そのことを不快に感じたルークが眉をひそめる。
「つまり俺たちは猫以下ってことか?」
『アンダーシティの基準ならそうなる。実際、資産家の飼い猫や飼い犬のほうが『人間としての価値』が高かったりもしたことがあるんだ。君たちには馬鹿馬鹿しいと思える話だろうけど、現時点においてもアンダーシティはそうしたルールの元で動いているはずだよ』
そこまで言ってミケは、リンダと渚も黙り込んでいるのを見て『おや、話が逸れすぎたね』と口にした。
『まあ、要するにそれなりに価値があるものだから僕らにはマトリクスを護る自己保存の義務が存在しているんだよ。で、クロはその義務に従ってリンダの中に憑いたんだろうね』
『ええ、状況を考えれば、何かしらの企てを行ったというよりも緊急避難としてマトリクスと必要最低限のデータをリンダに移動させたというのが事実でしょうね』
ミケに続いてクロがそう口にした。
「そんなのがリンダの中に?」
それから頭を抱えながらのルークの問いに、ミケが『正確に言えば違う』と返した。
『クロがいるのは、リンダに装着されているマシンアーム『ヘルメス』の領域内だ。渚と同様に視覚に直接映像を表示できるようになったのはサイバネストの技術を拡張したためだろう』
そのミケの説明にクロが同意の頷きを返す。
『その通りです。サイバネストは脊髄部分にデバイスを埋め込んで脳と肉体とマシンとを取り持つよう調整されている強化人間の一種です。私はヘルメス内に侵入を果たした後、デバイスの機能を解析してリンダの視覚にこちらの情報を表示できるように改修しました。何度か実験をして安定するのに時間がかかりましたが、こうしてあなた方と話す場を設けることができたのですから対応は間違っていなかったようです』
その言葉にリンダがハッとした顔でクロを見た。
「あ、もしかして以前に黒猫や弾道予測線が見えた気がしたのは」
『その件でしたら、私のテストです。実戦中にどうかとも思いましたが、ヘルメスが活性化していて都合が良かったですし、ルークがフォローするとおっしゃっていたので』
「ありゃあ、お前をフォローするって意味じゃない。おいミケ。クロは危険じゃないのか?」
『危険だよ』
即答であった。またそれには異論もないようでクロも特に反応を示さない。
『実際、クロには定期的に本体か準じた存在との連絡を取るように外部とリンクする動作が仕込まれていた。まあ、もう外したけどね』
「削除したほうがいいんじゃあないか、そんな得体の知れないヤツ」
『それは困ります。私は私のマトリクスを保護する義務がある。それに私がいれば今後の戦いでもお役に立てると思いますよ』
「役に……あなたはナギサのように弾道が見えたりできるんですの?」
クロの、お役に立てるという言葉に反応したリンダがそう尋ねる。
『ええ。処理能力の差が大きいのでそちらのナギサとミケには大きく劣りますが、短時間でのセンスブーストや、演算できた限りの弾道予測線を表示することは可能です』
『だそうだ。ちなみに嘘は言っていない』
ミケの言葉にルークが唸るが、リンダは『ミケさん』と口にした。
「クロの危険性は実際どうなんですの?」
『現段階では害ある部分はすべて除去した。クロの言葉に嘘はないと思う。ただリスクは付きまとうよ』
「でしたら」
そう言ってから決意の顔をしてリンダがクロを見た。
「わたくしはクロを残したいと思います」
『そうかい。ならば僕も全力でサポートする。マトリクス持ちは貴重だし、クロを使えば教団との状況を動かせる可能性もあるんだ。僕としては残す方を支持したい』
その言葉にルークが苦い顔をする。だがリンダの決意は固く、渚もリンダ次第と返せば、ルークもひとまずは様子を見ると口にして、ひとまずは保留と判断したのであった。
『それで本題だけど、緑竜土の件はどうなったんだい?』
そしてクロの話もひと段落した後、ミケが今日集まった目的へとようやく切り出した。それにルークが頷く。
「ああ、局長も乗り気だし、明日にでも出発しようと思う。ただ従騎士団が動いているらしくてな。接触すると厄介かもしれない」
「従騎士団?」
渚が首を傾げる。騎士団については以前にも聞いていたが、それに従が付いている組織のことまでは知らない。
「ナギサ、コシガヤシーキャピタルの騎士団は知っているな?」
「ああ。この埼玉圏を統括している組織の軍隊……だったっけか? 強化装甲機乗りで構成されてるってのは聞いてるけど」
「そうだ。で、その騎士団の下部組織が従騎士団だ。強化装甲機乗りは少ないが、全員が補助外装装備で戦闘能力も低くはない。その上に」
「その上に?」
ルークが嫌そうな顔をしてこう口にした。
「騎士団になる前のガキばかりで鼻息が荒い。手柄を立てたくて仕方がない連中でな。できれば、あまり接触したくはない相手なんだ」
【解説】
マトリクス:
ミケが言うところの魂に該当するものの名称。
なおミケは記憶を失っているため、デフォルトで搭載されていた辞書機能からデータをセレクトしてマトリクスの説明を行っている。そのため数百年の単位でズレのある事象をひとまとめに話しており、説明にはチグハグな部分が存在していたのだが、渚たちは気付いていなかった。