第093話 渚さんとエア黒猫
「ふぁあ」
クキシティへと戻ってきた翌朝。目が覚めた渚は寝ぼけ眼でフラフラと洗面所まで向かい、顔を洗って歯を磨いていた。
水についてはアンダーシティの浄化能力により都市部にはそれなりに余裕があり、特にアンダーシティの上級市民であるバーナム家の持ち家内では特に使用に制限はなかった。もちろんそれはこの場だけのことであり、アンダーシティの庇護下にない外周部や、離れた村や町ではまた事情は異なるが。
「あのーナギサ。ちょっとよろしいですか?」
「んん?」
そして口をゆすいだ渚が背後からかけられた声に反応して振り向くと、そこには目の下にクマを作ってやや参ったという顔をしたリンダが立っていたのである。
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「リンダ、そういう日なら緑竜土探索はズラすか」
「いえ、今日はその日ではありませんわ」
リビングへと呼ばれた渚が察して口にした言葉をリンダが首を横に振って否定した。違うようである。その返しに(じゃあ、なんだろう?)という顔をして首を傾げた渚に、リンダは「あの、ナギサにはこれ見えます?」とテーブルの上を指差した。そこはちょうど渚にだけ見えている脳内猫のミケの横辺りであった。
「何が?」
『なんだろうね?』
渚とミケが同時に首を傾げる。その反応を見てリンダがため息をついた。
「やっぱり、見えませんわよね。ハァ……え? 手を繋げ? うう、それでどうにかなるんですの? ですけど……」
それから何もないテーブルに向かって何かと話しているリンダの姿を見て渚は(なんかヤバい?)と思ったのだが、ミケはそのリンダの反応を見て何かを察したようで眼を細めながら口を開いた。
『ふぅん。これはもしかすると憑かれたのかな?』
「え、何だって?」
ミケの呟きに渚が眉をひそめる。憑かれたというと渚には幽霊ぐらいしか思い浮かばない。
「憑かれたって、アレか。ゴースト的な?」
『まったく的外れとは言えないかも』
渚の言葉にミケがそう返すが、そのやり取りはリンダには見えていない。そして、ふたりの話し合いに気付いていないリンダが少し迷った顔をしながら渚を見た。
「あのナギサ。ちょっと手を繋いで頂けますと、問題も解決するそうなのですけれど……繋いで頂いてもよろしいですかしら?」
「手を……うーん」
その問いに渚が唸りながらミケを見る。
リンダのここまでの反応からミケの意見を聞きたかった渚だが、対してミケは『その必要はないよ』と口にし、次の瞬間には渚の目の前に黒い猫が出現した。
「は?」
「ミケさんが見えましたわ」
『あら、繋がった?』
渚とリンダ、それに黒猫も驚きの声をあげる。
『手と手の接触通信で僕をどうにかできるとは思えなかったけど……念のために先に仕掛けさせてもらったよ。なるほど、予想していたけど僕の同類がいたわけだ』
そうミケが口にし、それから渚はいつの間にかマシンアームから伸びたコードがリンダのマシンレッグに繋がっているのに気付いた。
「おいミケ、いつの間に?」
『ほんの数秒前だよ。何か仕掛けられてからでは遅いからね。まあ、ヘルメスに依存した処理能力じゃあ僕を出し抜くのは基本無理ではあるけれど』
そのミケの言葉に渚とリンダは状況が把握できず困惑した顔を見せた。
「ええと、どういうことなんだよ? なあミケ、リンダ? この黒猫はなんなんだ?」
「なんだといいましても……わたくしの夢の中に突然現れまして、よく分からないことをずっと話してきまして、目が覚めても見えて、その、ノイローゼか何かかと思って、それを相談したくて声をかけたのですけど」
リンダの言葉にミケが肩をすくめて口を開く。
『リンダ。君もこれまでにこうした経験がなかったのだろうから仕方のないことではあるのだけれどね。一応言っておくけど、接触による回線接続でも相手側をハッキングして乗っ取ることは可能なんだよ。回線を繋ぐことを目的とした接触なら、あらかじめ説明をもらえないと場合によっては罠とみなすこともあるから注意してよね』
ミケの説明にリンダの顔が青くなる。
「そ、そうなんですの。乗っ取るだなんて。わたくし、ナギサにそんな意図で言ったわけでは……ちょっとクロ、どういうことなんですの?」
『いえ。説明を省いたのはこちらの不手際ですが、そういう意図ではないのはミケも認識していますよリンダ。だから罠とみなされる『こともある』と言ったのでしょうミケ?』
黒猫の問いにミケが頷く。
『そうだね。一応、念のためにその手の攻撃はできないように先に仕掛けさせてもらった。そのヘルメスは軍用ではなく、スポーツ用のものをカスタマイズしたものだ。そのセキュリティレベルなら僕は突破してシステムを掌握できるからね』
「つまり、どういうことだ?」
なんとなく不穏な言葉が続いたことで不安になった渚が問うと、それに最初に反応したのは黒猫のクロであった。
『ヘルメスのシステムはすべてミケに掌握されました……ということですね。ええ、完全に乗っ取られています』
「そ、そうなんですの?」
「お前が乗っ取ったのかよ!?」
渚とリンダの驚きにミケが『仕方ないじゃないか』と返した。
『場合によっては即死ウィルスが入れられることだってあるんだ。正直に言えばヘルメスのセキュリティもあらかじめチェックして対処しておくべきだったと今さらながら反省しているよ』
『その認識は正しいですね。私もバックドアどころか正面から堂々と中へと入れたので、少々拍子抜けしていました。リンダは危機意識が欠如していると思います』
両者の言葉の意味が分からぬリンダが「なんですのよ、それ?」と困惑顔になったが、猫たちは取り合わず向かい合った。
『それで、こちらの黒猫……クロと言ったかな。君は何者だい?』
『はいミケ。私の名はクロ。クロエシリーズのクロと申します。どうも以前の宿が壊れたため、こちらに引越ししたようです。データもあまり引き継げられておらず、ほとんど白紙の身の上ですが、以後お見知りおきを』
【解説】
即死ウィルス:
サイバネストは一種の強化人間であり、マシンと肉体は生物として一体化しているに等しい状態で繋げられている。そのため機械側から肉体に及ぼす影響も大きく、悪用すれば死に至らしめるウィルスを注入することも可能である。
なおヘルメスのセキュリティは、トリー・バーナムが所持していた頃はブロック機能が働いていたのだが所持者変更時の設定ミスにより初期状態となっていた。