第062話 渚さんと動物園
「うぉ、リンダ」
「うぉじゃないですわよ。どうしてあんな場所にいたんですのよ?」
ふわっとした感覚の後、次に渚がいたのは人通りの多いどこかで、渚の目の前にはリンダが不機嫌な顔で立っていた。
一緒の場所に出現するはずだったのに、なぜかリンダはひとりで指定のこの場所にいたのだから非常に不安だったようである。もっともリンダに問い詰められようと渚にも先ほどの住宅街にいた理由は分からない。
「どうって言われもな。なあミケ、分かるか?」
その渚の問いに、ミケの方も首を横に振って返した。
『そんなの僕にも分からないよ。もしかすると無意識下で由比浜って部分が引っかかってあの場所に出現したのかもしれないけど。それも予想でしかないからね』
「そんなことあるのか?」
『可能性だけなら。この電子の世界に君は意識を繋いでいるんだからある程度は考えるだけで操作はできるんだ。実際に君がそんなことをしたのかどうかは分からないけれど』
そのやり取りにリンダが驚いた顔でミケを見た。
「あら、ミケさんも来てたんですのね。ちゃんと猫さんの姿なのですね」
『まあね。いつもは画面越しだけど、ここでは渚が見ている姿で失礼するよ』
その言葉にリンダが渚に視線を向ける。
「ナギサはいつもこのミケさんを見てるんですの?」
「そうだな。いっつも適当に歩いてるか、丸くなってるぞ」
ミケの姿が見えるのは脳内チップで演算された情報を直接視界に映すことができる渚だけだ。それからリンダが「いいですわねえ」と口にするとミケが「にゃー」と鳴いた。
「それでリンダ。私、一瞬でここまで飛ばされたんだけど……今のってなんなんだ?」
「転送ですわよ。この仮想空間は非常に広いので、ある程度自由に移動ができるような操作が可能なのですわ」
「転送……?」
『渚、リンダはこれを使ったんだよ』
ミケが前足をクイッとすると、空中にウィンドウ画面が開いた。そこにはいくつかの項目がありこの場所は上野と表記されていた。
「おお、なんかいろいろと書いてある。これってゲームみたいなヤツか?」
『似たようなものだね。この世界の移動や時間を変更するためのメニュー画面だ』
「ええ、そうですわ。ここはわたくしのお気に入りですのよ。データとして残された最古の日本の首都の一角ですわね」
「最古の?」
その問いにリンダが頷いた。
「ええ、これより古い記録は残されておりませんから。記録媒体がその辺りで変わって長期的な保存が可能になったため……ということらしいのですけど。だからここは、私たちが確認できる中でも一番古い、四千年も昔の古代文明の詳細な記録でもあるんですの。楽しめる場所も多いですし、基準点としても分かりやすいのでVRシアターでもこの時代を選択する方は多いようですわね」
リンダがそう説明する。その言葉に渚はよく分からないながらも「へぇ」と口にして相槌を打つ。
見慣れたこの光景が古代文明と言われても渚には正直なところピンと来ない。それからミケが周囲を見渡しながら『ここは動物園かな』とリンダに尋ねる。
「はい。そうですわ。派手なところがお好きな方も多いのですが、わたくしはここが一番落ち着いて好きなんです」
「動物かぁ」
そう言いながら渚が(ミケやあのシラコバトという化け物以外で動物を見たことないなぁ)と考えていると、ミケが少しだけ目を開けて『ああ』と口を開いた。
『そういうことか』
「何だよミケ?」
突然の声に渚が眉をひそめる。目の前の猫はAIのくせに情緒的な反応が妙に多い。それからミケは少しだけ興奮したような声で渚に話しかける。
『ねえ、渚。ここまでに君は猫を見たかい?』
「お前」
指を差す渚に『僕じゃなくて』とミケが返す。
『野良でも飼い猫でも別にいいんだけど、街で実際の猫を見たかい? 犬でもいいのだけれど』
その言葉に渚が考え込むが、首を横に振った。
少なくとも渚はそんな光景は見ていない。
『だろう。いないんだよ。猫も犬も。いや人間以外のほとんどの生物を僕らは見ていない』
「そりゃあ、現実に犬や猫がいるはずないじゃありませんか」
リンダがそう言うと渚が「え?」という顔になり、ミケが頷く。
『そうだろうね。この環境下では配給などによる栄養補給の手段がある人間以外は生きていけない。ネズミぐらいはとも思ったがそれもいないようだね』
「当然ですわね。瘴気内での環境に適応した生き物なら街の外にはいますが、都市内にいるのは小さな虫ぐらいですわ」
「いないのか、この世界に猫?」
意外そうな顔をした渚の言葉にリンダが頷く。
「わたくしは見たことがありませんし、アンダーシティでも飼っている方はおりませんわ。森にならいるのかもしれませんけど」
「森?」
森とはここまでにも渚が何度となく耳にした言葉だ。だがその詳細までは聞いたことがなかった。
「埼玉圏の外、群馬圏などですわね。この動物園の中よりも緑があふれる地だと聞きます。動物も森にならばいるそうですわ」
「なあ。そんな場所があるのになんでこんな砂漠にいるんだよ?」
『渚、忘れたのかい? 黒雨だよ』
「ああ、あの雨か」
渚が苦い顔をする。
砂漠で遭遇した雷の雨。それは雷嫌いの渚にとってあまり思い出したくはないものだった。
『黒雨は人類を殲滅するために自己増殖し続けるナノマシンだ。あれは人間だけを殺す。だから浄化物質の外の生態系には人間がいないという以外は影響を及ぼさない。多分、外の世界は『普通』なんだ。君たちはそこにいけないけれど』
「じゃあ……あたしらってここでしか生きていけないってことか?」
渚の言葉にリンダが頷く。
「一応、防護服よりも頑丈なアストロクロウズなら活動は可能です。けれども機械獣の数も埼玉圏より多くて、森は大変危険な場所なのだとも聞いていますわ。どうにか暮らしている人たちもいるのですが苦労はしているようですわね」
リンダはそう言う。
ミケが以前にこの世界は袋小路になっていると口にしていたが、その理由が今さらながらに渚にも理解できた。それから難しい顔をした渚に、リンダが苦笑しながら「まあそれはそれとして」と口にした。
「ともかくナギサ。今は動物園を見て回りましょう。そのためにここに来たんですのよ」
「ああ、そうだな」
リンダの言葉に渚も素直に頷いた。ここには楽しむためにきているのだ。そう考え、難しいことは頭から追いやった渚が周囲を見回した。
「そんじゃ、どっから見にいくんだ? ゴリラとかペンギンとかか?」
「ではナギサ、このすぐそばに白と黒の色をした熊がいるんですわよ。まずはそちらから」
「ああ、それってパンダだろ?」
「ま、博識ですわね」
それから渚はリンダに手を引かれて一緒に動物園を見て回り始めた。
それは仮想空間の中とはいえ、かつてと同じ青空の下であり、平和な世界であり、そして渚は久々に危険のない、穏やかな時間を過ごしたのであった。
【解説】
アストロクロウズ:
ナノマシンの進入も防ぐほどに機密性の高い宇宙服を指す名称であり、黒雨の影響下においても活動が可能であるとされている。