第054話 渚さんと猫の話
「ギリギリ間に合ったか。電磁シートは用意していたにせよ、運と状況次第で簡単に死ねるからな。たく、予報じゃまだ降らないって話だったろうに」
急ぎ戻ったビークルの中で、ルークがそう愚痴をこぼしながら窓の外を見ている。外では今も雷が鳴り続け、まるで雨のように地上に降り続けている。一方で雨も降ってはいるのだが、雨量自体は大したものではないようだった。
「な、なんだよ。あれ?」
そして、その状況を一番厳しく感じているのは渚であった。渚はリンダに抱きつきながら、ブルブルと震えていたのだ。
「妙な驚き方だが、まさか見たことがないのか?」
「そのようですわね。よしよし」
まるで赤ん坊をあやすようにリンダが渚の頭を撫でているが、渚は何もいわずに震えているだけである。そう、つまり渚は雷が苦手であった。
「あれは黒雨だ。まあ、見ての通りの厄介なものさ」
そう話している途中でもまた大きな雷が落ち、渚はビクッと震えた。その様子に苦笑しながらルークが話を続ける。
「黒雨は、自然現象のひとつだ。遠い昔はただの雨も降っていたらしいが今じゃあ黒雨以外が降ることはなくてな。それで黒雨が埼玉圏に降り注ぐと、ああして瘴気と反応して雷を生むんだ」
「瘴気と? なんで?」
『渚、浄化物質は人間に有害な黒雨を分解するために存在しているんだよ。接触し分解が起こることで発生したエネルギーが電気となって地上に降り注いでいるのさ』
(ちょ、ちょっと待て。浄化物質って人間に害があるもんじゃねえのかよ?)
渚が自分にだけ聞こえた声に心の声でそう返す。渚にとって浄化物質、瘴気は自分たちに害を及ぼすものでしかなかった。だがミケの言い方では瘴気はまるで人間を護るために存在しているように聞こえたのだ。
『そりゃあさ、消毒薬だって飲んだら人体に害はあるだろう? 浄化物質で覆われた場所っていうのはね。要するに人を護るためのシェルターなんだよ』
ミケが渚にだけそう説明したが、途中で発生した雷の音によって渚の頭は真っ白になって、ミケの話も頭に入らなかった。
その様子にやれやれとミケが肩をすくめている一方で、ルークが窓の外を見ながら口を開く。
「しかし突発的だったとはいえ、今の時期に降るのも悪くはないか。しばらくは降っていなかったし、これだけの雷なら蓄電も十分だろうよ」
「蓄電?」
ルークの言葉に、渚が震えながら首を傾げた。
『はいマスター。現在、蓄電は完了しています』
ミランダが運転席からそう答えた。
どうやらすでに対応していたらしい。けれども、そのミランダの会話自体が渚にとっては不可解そのものであった。
「な、なあ。ビークルってアイテールで動いてるんじゃないのか?」
「それも間違いではありませんけど……ほらナギサ、家の周囲に蓄電装置があったでしょう」
「??……なんの、ヒッ、ことだよ?」
再び鳴った雷にビクッとしながら渚が問い返す。
『家の周りの針金が伸びてたバケツのことだと思うよ』
ミケが、今度はリンダたちにも聞こえるように端末のスピーカーからそう口にした。
「それですわ。都市の電力は基本アレに蓄電したものを使っていますのよ」
「アイテールじゃない? あのバケツで電気の蓄電なんかできんのか?」
「ああ。蓄電機はミランダが言うように、このビークルにも積まれてるぞ。まあ、そこら辺は基本的な話なんだが」
ルークの言葉に「そ、そうなんだ」と頷きながら、渚はまた落ちた雷に悲鳴をあげてリンダの胸にうずくまった。渚はふたつの塊を使って両耳を塞ぐことで雷の音の軽減を試みたのである。
その様子に紳士であるルークが視線をそらしながら、さらに口を開いた。
「アンダーシティはアイテールの消費を推奨していない。蓄電したエネルギーから優先して使うんだ……と、聞こえてないか。リンダ、そいつの子守は任せた。俺はしばらく寝るわ」
「分かりましたわ。ナギサ、引っ張らないで。も、もう」
そのやり取りにルークは肩をすくめると、渚たちから背を向けて横になった。そして渚はリンダに抱きついたまま目をつぶってやり過ごし、それから雨が止んだのは五時間後のことであった。その頃にはもう外も真っ暗になっていて、探索は翌日に再開することになったのである。
**********
そして翌日、岩とガラクタが並ぶ砂漠をバイクに乗って軽快に駆けていく渚の姿があった。
本日も瘴気がかかっているために曇天であったが、今の渚の気分は一難去ったことで快晴そのもの、鼻歌まで歌い始める始末だ。
『昨日の状態が嘘のようだな』
渚の後をバイクで追いながらそう口にするルークに対し、渚は親指を立てて『もう終わったことだからな』と返す。
実にサッパリとした性格の少女である。なお、その言葉に昨日散々おっぱいを弄ばれて赤くなってしまったリンダが後部座席でこっそりため息をついていた。
それから渚は空を見て、いつもの瘴気の霧であるのを確認してからルークに尋ねる。
『で、さぁ。結局アレってなんだったんだよ? 黒雨とか言ってたよな。雨の一種か?』
『一種というか……昨日も言ったがここではそれしか降らないぞ。埼玉圏だと瘴気と接触してあんな感じになるんだが、外だと普通に降ってくるらしいな。まあ、あの雨に直接触ると人間は腐って死ぬんだけど』
あっさりとしたルークの説明に渚が『は?』と声をあげる。
その様子を見たルークは、渚がそのことも知らないのだと理解して、それから少し考えてから口を開く。
『んー、渚。ちょっと昔々のお話をするぞ』
『いきなり、なんだよ?』
眉をひそめた渚にルークが『いいから聞いとけ』と返すと、話を続けた。
『これはな。何百年か何千年か昔のことだ。この世界は今ではこんなだが、昔はもっと人間が多くいたんだ。その頃は国とか企業とか民族とかいう括りのもっと多くのコミュニティがあって、そういう枠組みの元で人間同士が殺し合いをしていた』
『なんか、回りくどいな。それって戦争のことだろ?』
渚の問いにルークが頷きを返す。
『そうだ。随分と長い間、人間は人間同士で戦争をしていたんだが、そのうち人間は反乱した機械や宇宙から来た化け物なんかとも戦争を繰り返していたらしいな。ま、俺たちと機械獣との戦いみたいなことがもっとでかい規模で延々と続けられていたのが昔の世界だ』
それから『そう考えると今の方が平和なのかもな』とうそぶきながらルークは話を続けていく。
『そんなことが何千年と繰り返されて、たくさんの血が流れて、空は汚染されていって、楽園は大地に堕ちて、ついでに風の神様も呆れてどこかに消え去ってしまうほどに世界は荒廃していった。それで俺らは今、こんな砂漠を這いずって生きる羽目になってる』
『それと黒雨がどう関係してるんだよ?』
渚が首を傾げる。昔に様々なことがあったにせよ、それと黒雨との関係がここまでの話では繋がっていない。
『それをこれから話すところさ。ともかくな。色々あって人間の文明は終わっちまったんだが、そのトドメが黒雨で、そいつは一匹の獣が降らせているって話だ』
渚が『獣?』と首を傾げ、ミケが目を細める。
『ああ、鋼鉄でできた機械の獣さ。機械獣なんてチンケなものじゃない。山ほどの大きさがあって空を飛び、炎を吐き、破壊の光を降り注がせて、七日かけて世界を破壊し尽くしたっていう怪物だ』
『そんなのどっから出てきて、なんで世界を破壊したんだよ?』
『詳しいことは分かっておりませんのよ。旧文明の遺産を奪った何者かとも、月から来た怪物だとも。ただ、ひどく人間を恨んでいたと伝えられていますわ』
リンダがそう説明すると、ルークも『ああ、そうだ』と口にした。
『そいつは最後には文明の象徴である機械の神様と戦って相打ちになり、海の底に沈んでいったって言われている。ただ、動けなくなった獣はそれでもまだ人間を恨むことを止めなかったんだな。海水を蒸発させて人を殺す黒い雨を造り、今もずっと人間を殺し続けてる。幸いというべきか、瘴気に覆われた埼玉圏には直接的な影響がないから俺たちはまだ生きているが……外はもう人の住める世界じゃあないそうだ』
ルークがそこまで話し終えると、ここまで黙って聞いていたミケが『なるほどねぇ』と端末から声を出した。
『概要は大体あってるみたいだね。僕の知っている情報とはいくつか齟齬があるけど』
『ミケ、なんか知ってるのかよ。つーか記憶なくしてんじゃなかったっけ?』
渚の問いにミケが『そうだよ』と返す。
『ただ、デフォルトでインストールされていた辞書機能の内容を繋ぎ合わせてね。ある程度の情報の習得には成功したんだ。一般レベルのものだけど』
『なあミケ、齟齬があると言ったな。そりゃあ、どういうことなんだ?』
ルークの問いに、ミケが『大した話じゃないよ』と答える。
『海の底に沈んだ獣は死後に機械の身体を回収されているから、黒雨の原因が獣だという話はあり得ないってだけのことだよ』
『おいおい。それ、本当か?』
驚くルークにミケが『まあね』と返す。
『僕というAIを含め、当時の技術体系は獣からサルベージしたデータを元に生み出されていたものも多くあったようだし間違いないと思うよ。終末の責任を押し付けたい誰かがそうしたカバーストーリーを流布したんだろうけど……まあ、どうであるにせよ黒雨は今も降り続いているし、この世界が袋小路になっているのは変わらないんだけどね』
終末の獣:
終末戦争の最後に出てくる、鋼鉄でできた獣。
七日で地上を蹂躙し、最後には人を守護していた機械の神を殺し、今も黒雨を地上に降り注がせ続けていると伝えられている。
故に黒雨と共に人類の天敵として現在も恐れられている終末の獣だが、彼が実際に闊歩したのは遠き過去のみ。すでに死した獣と黒雨に関係はなく、獣が目覚めることはあり得ず、今となっては何が正しく、何が間違っているのかを暴く意味すらもない。一匹の獣の物語はもうずっと昔に終わっている。
※終末の獣は別作品『終末の世界で踊る猫』の主人公であり、渚さんの本筋には絡みません。




