第291話 渚さんと希望の受け皿
「吉報?」
渚が首を傾げている前で、ジョージが涙を流しながら一歩前に出た。
「戻ってきていただいたのですね賢人」
マーシャルも言葉は発さぬが、待ち望んでいたという顔をしてそのやり取りを見守っている。そんな彼らの様子だけでもパトリオット教団がいかに賢人を精神的支柱にしていたのだということが理解できる光景だった。もっとも……と渚は思う。
(あの爺さんのジョージさんたちを見る目は……なぁ)
賢人の瞳は渚からすればひどく空虚なものに感じられていた。路傍の石を見ているような、何もかも疲れ切っているかのような……少なくともそこに渚は親愛を感じない。けれどもジョージたちはそのことに気付いてはいないようだった。
『久しい……とは言い難いなジョージ。私の体感時間では君と会ったのは三日ほど前のことなのでね。そして状況は私の思惑通りにはいっていないようだ。ダーパは失敗したのだね?』
「はい。恐らくは。しかし、我々はあまりに何も知らず、未だ状況を正しくは理解できておりません」
『そうだね。君たちの困惑は理解できる。けれどもダーパの彼らは大罪を犯す覚悟はあったが、それを血を分けた兄弟には望んでいなかった。君たちが無知であることを望んだ。彼らを許せとは言わないが、その意図は理解してあげて欲しい』
「はい、はい。けれども……我々はあなたがいなくなっては成り立ちません」
『いずれ子は親より巣立つものだ。時期が来ているのだよジョージ』
「それは……賢人。どういうことでしょうか?」
困惑するジョージに賢人は『竜卵計画を発動した理由は聞いているかな?』と問うた。
「概要だけは。過去の時代の人間の再生体に現在の世界を体感させ、機械種の発動とともに黒雨への対処を行えるように人工進化を促させるのだということくらいは」
『その通りだ。竜卵は『黒雨に感染した』場合と『死に瀕した』場合に発動するように仕掛けられている』
その言葉に渚がとっさにミケを見たが、ミケもわずかに動揺した顔を見せた後、首を横に振った。それはミケも把握していなかった事実のようである。
『黒雨は機械種の一種だ。私も機械種ではあるが、別の役割を担っているために黒雨へのカウンターとしては成り立たない。だからこそ新しい機械種を必要としたわけだね。しかし、それを性急に行う必要がなぜあったのか……という点については聞いてはいないだろう?』
「はい。状況はあまりにも性急過ぎました」
『けれども、そうしなければならない事情があったのだよ』
「どういうことです?」
『そう遠くないうちにパトリオット教団は殲滅させられる』
首を傾げるジョージに賢人が口にした言葉がソレだった。
「ま、まさか野盗が攻めてくるとでも?」
「ヤツらならば我らだけで対処できます」
ジョージの問いに被せるようにマーシャルが強くそう口にしたが、それを賢人は首を横に振って否と返した。
『敵は攻めてくる。けれども野盗ではない。君たちを駆逐するのはコシガヤシーキャピタルだ』
「あの平和主義者どもが?」
コシガヤシーキャピタル。埼玉圏の西部にある組織であり、藻粥などの食料配給や騎士団による秩序構築など、幾分やり過ぎている面はあるにせよ、彼らの行動は常に平和を求めるものであったことは疑いようがない。それは埼玉圏の外から見れば、あまりにも献身的過ぎるように映っていた。だからこそジョージもマーシャルも賢人の言葉の意味が理解できない。
『そうだ。彼らは確実にここを狙っている。すでに間諜が送り込まれていることは君らも知っていよう。融和など望むべくもない。彼らの目的はここであり、君たちはただの邪魔者なのだからね』
「し……しかし、我々にはペンタゴンが、賢人がいる」
『私は無理だ』
「なぜですか?」
絶句した表情のジョージが尋ねるが、賢人は平然とした顔で言葉を返す。
『私がこの地下にいるのはなぜか……それを君たちは理解しているのかね?』
「それはグリーンドラゴンとの接触を防ぐためでしょう」
『それもある……が、正しく言えば『君たち』が『私』を天国の円環や地下都市に奪われぬためのものという意味合いの方が大きいのだ』
「!?」
『なぜならば私は市民IDを持つ者を優先する。当然だな。私は市民を守るためのシステムだ。この状況は彼らと接触するまでの仮初めの状態でしかない』
「賢人、あなたは我々を見捨てるというのですか?」
『私はシステムだ。本来、私に自由意志はない。今も昔もな。君たちの祖先はそれを理解して、このように私を地下に閉じ込めた。いや、かつての愛国者連合の名誉のために言っておくが、これは強制ではなく私の意思も介在している。双方が望み、合意した結果であるのは確かだからね』
賢人がそう口にする。人とは違う律の中にある賢人の言葉にジョージとマーシャルは言葉が返せない。それは彼らもまた、賢人という存在がどういうものなのかを正しく理解しているという証左でもあった。
『わずかな余地。か細い自由。それを望んだ私は君たちの祖先と契約した。それは私にとって得難いものであったのは確かだが、それでも私は私であるが故に己のルールの外に出ることはできない。故にコシガヤシーキャピタルは地下都市と共同でそれを成すだろう。君たちはおそらく排除される』
「そんな……けれども、なぜです? 機会などいくらでもあったはず。なぜ今彼らが動く?」
そのジョージの問いに賢人は口を開かず、静かに渚とミケに視線を向けた。
それからジョージとマーシャルがハッとした顔で渚たちを見る。渚たちがコシガヤシーキャピタル側にいることは明らかで、彼らはようやくそのことに思い至ったのだ。そんなことにここまで気づけなかったほど彼らは動揺していた。
『そちらの、渚とミケだったね。コシガヤシーキャピタルがそうする理由に君たちは心当たりがあるのではないかな?』
『なぜそう思うのかな?』
どう返すべきかと逡巡する渚の横で、ミケが涼しい顔でそう返す。
『外の記録についてはリアルタイムではないが、逐次私も閲覧できるのでね。だから君たちの行動が私の把握している『とある問題』に対応したものであることは予測ができているんだ。つまり君たちは知っているはずだ。タイムリミットのことをね』
「ああ、そういうことか。アンタはアレを知っていたってことかよ?」
『気付いたのは近年ではあるが。だからこそ性急にならざるを得なかった。手遅れになる前に』
「なんの話です? ナギサ、タイムリミットとはなんだ?」
焦燥に駆られたジョージの問いかけに渚がどうするべきかとミケと賢人に視線を送るが、ふたりの表情は渚自身の判断を促しているようであった。
「あたしに言わせるのかよ?」
『判断するのは君だ』
ミケがそう返す。そして賢人もまたミケに賛同するように頷いた。
『これから君が為すことを考えれば、それこそが正しいんだよ渚』
『救う命と救わぬ命。君はそれを決める道を選んだのだろう。今がその時だ』
ふたりの言葉に渚がわずかに逡巡する。
渚は賢人がパトリオット教団が殲滅させられると言った言葉の意味を正しく理解していた。渚はコシガヤシーキャピタルのガヴァナーであるウィンドを信頼している。彼女を姉のように思っているし、彼女がここまでに成し遂げたこと、これから成し遂げようとしていることも理解できている。
だからこそ分かるのだ。ガヴァナー・ウィンドという人間はおちゃらけたチンチクリンで、ひどく優しい者ではあるが、血の涙を飲んででも必ず決断ができる人間だと。
「ジョージさん、簡単な話だよ。埼玉圏を覆う浄化物質が消滅するまであと十年。タイムリミットってのはそういうことだ」
「浄化物質が? しかし、ここは埼玉圏の外だぞ!? 影響はない」
「だからここなんだよ」
渚の言葉はもっともなものだった。黒雨の影響のない空間。それはこの時代においてもっとも理想的な移住地だ。これまでワシントンSDCが襲撃されなかったのはここが埼玉圏外で辿り着くこと自体が困難であり、そもそも場所が秘匿されていたためだ。しかし、渚たちがここを突き止める以前にコシガヤシーキャピタルがスパイを送り込んでいることは周知の事実だった。しかもスパイは今だに発見できておらず、対処もできていない。パトリオット教団はすでに首根っこを掴まれている状態に等しいのである。
『そういうことだジョージ。コシガヤシーキャピタルは十年後に抱えている同胞を救いきれない。そのための受け皿としてここを欲している』
「ガヴァナー・ウィンドが仲間をこの地を住まわせるために我らを殺すと?」
『ああ、彼女はするだろう』
ジョージの問いを賢人が肯定する。
『アレは迷いはすれど足を止めることはない。身内を護るためならば『あらゆるすべてを行う』強さを持っている。そういう存在から生まれた者だ。そして直接会ったわけではないが彼女が生まれてからここまでにしてきた献身を私は知っている。アレはどれだけ悩もうと、どれだけの血を流そうと、最終的に決断ができる女性だ。むろん、流す必要がなければ回避はするだろうがね』
その言葉には誰も反論を返せない。埼玉圏という極悪な環境の中で人々が暮らせる世界を生み出したのがコシガヤシーキャピタルだ。その道程でどれほどの困難と犠牲を強いてきたかは想像に難くなく、ガヴァナー・ウィンドはソレを主導してきた人物だ。決して甘い人間ではない。
『だから、そうなる前に竜卵計画は実行された。手遅れになる前に何かしらの結果が出る可能性を期待してな』
ジョージとマーシャルからは言葉が出なかった。
居場所がバレている以上は状況はすでに詰みだ。戦力差を考えれば勝てるものではないし、ワシントンSDCは地下都市のように地上とを隔離できるほどの防衛力はない。知っているのと知らないのではコシガヤシーキャピタル側の流れる血の量ぐらいしか差は出ないだろう。場合によってはここから逃げるという選択肢もあるが、どこに逃げろというのか。そうジョージの思考が深く落ちているところに賢人が口を開いた。
『しかし渚。君はタイムリミットのことを隠さなかった。それは何故かな?』
渚はコシガヤシーキャピタル所属ではないが、己をこのような境遇に落としたパトリオット教団側であるわけでもない。けれども渚はタイムリミットを口にした。それがコシガヤシーキャピタルに対して不義理となるにも関わらずだ。
「状況が変わったからだよ賢人さん。少なくとも今、コシガヤシーキャピタルがここを襲うことはないからな」
「それは……何故だ?」
ジョージの言葉に渚が自分の控えめな胸に手を当てて笑って答えた。
「コシガヤシーキャピタルの……いや、埼玉圏の受け皿はあたしが造るからさ。そのためにするべきことをするためにあたしはここに来たんだよジョージさん!」
【解説】
パトリオット教団抹殺計画:
決して許されることではないが、それでも必要を求められれば彼女は嗚咽し血の涙を流しながらあらゆるすべてを成すだろう。子を守るメスのライオンの如き有り様こそが彼女の本質であるのだから。だからこそ渚とミケの登場は彼女にとっても大きな救いとなった。