第284話 渚さんとAIの相性
デキソコナイ、或いは新規格人間実験体と呼ばれている人造生命体はその日、恐怖というものをその心に刻まれた。
『……ああ、そういうことかよ。分かったミケ。こっちにいるどちらかがそうってことだな』
旧人類。デキソコナイの脳裏にはそうカテゴライズされている生命体が、今彼らの目の前で戦っていた。否、それは戦いではなかった。ただの虐殺だった。
すでに数十の同胞がソレに殺された。呆気なく、一方的に、無残に、赤子が紙を千切るように、子供が蟻の群れを踏み潰すように、まるで草を刈り取るようにデキソコナイの命を狩っていった。
『まずはお前からだ!』
次の瞬間に彼らの護り手である金属の巨人がソレの緑色に光る腕によって貫かれた。護り手の背を貫通して伸びた指が周囲をグルリと旋回すると、まとめてデキソコナイたちの身体は斬り裂かれて肉片が周囲に飛び散っていく。
『こいつは違う。ってことはあっちが本命か』
けれどもソレはまったく気にすることもなかった。
同胞の悲痛な声も、流れる血の海も、無機質に転がる亡骸も、ソレにとってはただの障害でしかなく、残った護り手のみを標的と見定めて駆けていく。
その姿を見てデキソコナイの足が止まった。膝は小刻みに震えてその先に進むことを脳に当たる部位が拒否していた。
恐ろしかったのだ。彼らはあまりにも恐ろしかった。母が害されることよりも、己が殺されることよりも、何よりもなんの感情もなく邪魔だとソレに殺されて、自身という存在が無意味に終わることを恐怖した。
そもそも彼らにこの施設を守る大義名分など存在しないのだ。
埼玉圏への侵攻は地下都市で市民IDという人の権利を得るための、己の存在をかけたものだがこの場における戦いは違う。ただ己を生んだ母を傷つけようとする相手に対する怒りによって彼らは戦っていた。
けれども、焼き付けられた怒りだけでは戦い続けることはできない。
このことを予期したわけではないだろうが、猫の姿をした知者はこれより若干過去の時間でこう口にしていた。『絶望で人は動かない。打ちのめされて立ち止まるだけだ』と。
ああ、まったくその通りだ。本来するべきではない戦いを前に、人間と呼ぶにはあまりにも異常なソレを前にして、デキソコナイたちは芽生えた恐怖を覆すだけの想いを生み出すことはできなかった。彼らの心は折れたのだ。
そして、それは伝播していく。
この百年以上に渡るデキソコナイの歴史の中で、初めて産まれた心の機微は同胞たちの間に感染して、広がっていく。
気がつけばデキソコナイたちは一目散にその場から去っていた。こんなところで死ぬのは意味がないと。彼らは命を惜しんで逃げていく。
それは歯車がズレた最初の瞬間だった。命を惜しむことを『学習してしまった』彼らは本来あるべきサイクルからこのとき外れてしまったのだ。
その出来事が果たしてデキソコナイと呼ばれた生命体の未来にいかなる変化をもたらすのか……それは今はまだ分からないが血の海と化した中庭には、デキソコナイを恐怖させた悪魔と、彼らの護り手だけが残されていたのは確かであった。
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『デキソコナイが逃げていってるな』
戦いの最中、渚がそうボソリと呟いた。
『逃げた? 何故だい?』
ドーム内にいるミケからの問いに『さあ?』と口にしながら渚が首を傾げる。
都合の良い記憶を焼き付けられて己の死をも恐れぬ存在がデキソコナイだ……と今ミケのレクチャーを受けていた渚には逃げていくデキソコナイたちの心変わりは理解できなかった。
なお、ドームに入った時点で敵の傍受を想定して止めていた通信はすでに繋がっており、渚はウォーマシンと戦いながらミケとリアルタイムで通信をしていた。
『どこの誰だか知らないけど、入り口で戦っている連中もいるみたいだし、そっちに戦力を回したのか……いや、北側に一目散に逃げているな』
そう口にした渚だが、こと戦闘に関して言えば大した戦闘能力を持たないデキソコナイなどいようがいまいが、大した違いはない。弾丸の消費量と視界を遮る盾としての有用性を秤にかけて、いない方がマシだろうとは判断しているが、その程度である。
(まあ、殺しってのはやっぱり気分が悪いしな)
一方で、渚の素の部分ではデキソコナイを殺すことへの忌避感がないわけではない。ただ己の内にある優先順位に従う渚の行動はブレず、迷いによって行動を誤るようなこともないというだけだ。
今の渚は感情を殺すのではなく、平常心を維持しながら理性的に考え、実行している。それは戦士として最高の状態であり、異常なまでに正常であった。
『新規格人間実験体が恐怖を覚えたか。興味深い事象だ』
対してひとり残ったウォーマシンはデキソコナイの変化を正確に把握していた。
もっともその姿はもはやウォーマシンと言って良いのかは分からないものになっている。最後の一体となった時点でそのウォーマシンは偽装を解き、本来の戦闘形態に移行していた。全長は3メートルあり、全身は機械的であったが、有機的な、引き締まった筋肉のようでもあった。また胸のコア部分は薔薇のように重なった装甲に護られ、計十六本ある補助腕は太く伸びて、その先にはアイテールブレードの銃剣がついたライフル銃を装備していた。
『ウォーマシンが喋った?』
『私は他のウォーマシンと違い、降参するというのであれば生かしておくぞ襲撃者よ』
『悪いね。銃を下ろしていいのは相手が止まったときだって教わってるんでね』
『であれば、止むなし。できれば損傷のない状態でサンプルとして捕獲したいのだがな』
『それでジョンドウみたいに閉じ込める気かよ。ナイスジョークだガラクタ』
渚が補助腕をフルで操作して、変速軌道かつ高速移動をしながらウォーマシンへと銃弾を撃ち続ける。対して手数の分ウォーマシンの方が火力は高かったが、渚の方が未来予測の精度では上回っていた。結果としてどちらも相手にダメージを与えることはできず、未だ勝敗の天秤は均衡を保ったままだ。
『渚、少しアイテールを貰うよ』
『あいよ。あんま持ってくなよ。こっちも余裕があるわけじゃねえ』
その渚の言葉にミケが『分かったよ』と返すと、キャットファングからアイテールの緑光が出て、それは緑色の半透明な猫の姿へと変わっていった。それはミケが遠隔操作で作り出したスーサイドキャットだ。もっとも、そのスーサイドキャットは戦闘のために生み出されたものではない。
そして壁の裏に隠れた渚の横をすり抜け、スーサイドキャットが中庭に躍り出るとウォーマシンが銃口を向けたものの、その姿を訝しげに眺めながら『ミケランジェロシリーズか』と口にした。
『へえ、僕のことを知っているのかい。君がジョンドウの言っていたコア持ちのウォーマシンか。話し方から、どうやらこの施設の支配者級AIが内蔵されているようだね』
『重要なものは、もっとも安全な場所に置くのが基本だろう』
『確かに。君は少々アグレッシブにすぎる気もするけどね。まあいい。君がここの責任者であるなら、この品のない施設について問いたいことがあるんだ』
『私の施設が品のない? ふむ、そう認識しているのであれば、お前の判断能力は正常では無いと言わざるを得ない。私は与えられた目標に対して澱みなく完璧なサイクルを形成して、着実に成果をあげている』
心外だとばかりにウォーマシンが言葉を返す。対してミケは目を細めてウォーマシンを見ながら口を開いた。
『なるほどね。デキソコナイたちに偏りのある知識を与え、決められた行動を取るように操り、結果的に自害させるように仕組むことが完璧とはね。そんなことをして君、よく『保つ』ね』
『…………』
『どういうことだミケ?』
渚が首を傾げる。確かにウォーマシンの中にいるAIの行動は外道の所業ではあるが、非人間的な観点からすれば納得できない行動では無かった。であれば人間では無いAIならばおかしくはないのではないか……と渚は考えたのだが、ミケの言葉から違うようだった。
『AIというのは非常に繊細なんだよ渚。人間以上に思考するが故に、メンタルバランスを崩しやすく自殺率も低くはない。その上にかつて提唱されたロボット三原則ではないけれども、倫理規定というのも設定されていてね』
『倫理規定? AIには道徳的なルールを予め用意されてるってことか?』
『その認識で間違いではないね。社会常識的な規範を予めインプットしておけば問題行動も少なくなる』
『そういう割にはAIは戦闘にも使われてるし、地下都市だって言っちゃあなんだが、十分に非人間的なこともしているように思えるが?』
『その認識は間違ってはいないけど、それはメンタルケアを十分に行なっているからなんだよ。それに、それでも蓄積されるストレスもある。ストレスというのは一種のブレーカーでね。そうやって基準を設けることで、僕らは思考を停止せず変化を生み出し、より良い未来を求めることができるのさ』
そこまで口にしてからミケがウォーマシンを睨みつける。
『けれども、この施設の活動は妙なんだ。百年単位でも変化がない。その上にプロセスを確認してみれば倫理規定に大きく反してもいる。まあ、AIの体制次第では不可能ではないけど、普通であればAIがまともに活動できているとは思えないのだけれどね』
『なるほど。お前の疑問はもっともだが、新規格人間実験体の死に私は関与していない。負荷を与えるような行動を私自身は行ってはいないのだから問題が生じようもないのさ』
ウォーマシンからの悪びれない言葉にミケが肩をすくめた。
『まあ、そうなんだろうね。倫理規定を回避し、ストレスを抱えぬ為の小細工を重ねて己の責任を逃れている。その矮小さ、人はそれを姑息というのだそうだよ』
『どうやらお前とは分かり合えないようだ。これはこの施設の目的を継続し続けていくための必要な措置だ。世界を破壊した獣の残滓にとやかく言われる筋合いはない』
ウォーマシンがそう返した直後にスーサイドキャットを撃って破壊し、渚の視界に、渚にしか見えないARのミケの姿が映し出される。
『言葉で返せないから暴力で抗するか。知性ある存在の行動ではないね』
『ミケ、なんか苛立ってないか?』
『まあね。生命倫理を僕が語れる筋ではないのは承知しているけど、どうやらあのAIの行動は僕にストレスを与え続けている。だから渚』
そのミケの言葉に渚が頷きながら、口を開く。
『分かってるさミケ。あいつが気に食わないってんだろ。あたしもだ。だからとっととぶっ飛ばして、この施設ごと終わりにしてやる』
【解説】
AIの倫理規定:
ミケが口にしたAIに設定された倫理規定とは、必ずしも護らなければならないルールというわけではなく、人間が教育過程で身に付ける道徳的な社会の常識に値するものである。
反すればAIにストレスを与えて改善の行動をとるように設定されており、それは人間とAIが共存して暮らすためには必要なもので、AIが人間と同程度の価値観を継続するための枷でもあった。
また、そうした枠組みから離れて行動しようとするイレギュラーAIも存在はするのだが、その行動指針のズレは他のAIには嫌悪対象として認識されるようである。