第261話 渚さんとセーフハウスの秘密
『空気は澄んでいて視界も良好なのに、箱庭の世界が妙な感じになってるな』
群馬圏内を移動中、難しい顔をしている渚がそんなことを口にした。
瘴気の影響がなくなったことで、見ることも聞くことも、通信をすることも問題はなくなったはずなのに猫耳レーダーで拾得できている情報量が瘴気の中にいた頃とあまり変わっていないのである。それは瘴気の壁を越えてから次第に強まっていた。結果として拾得した情報を総合し、空間のシミュレーションまでを可能とする渚の箱庭の世界の機能は埼玉圏と変わらぬ程度の性能しか発揮していなかった。その様子にミケが『仕方ないよ』と返す。
『今、君は黒雨に対しての防壁フィルターを張りながら情報を拾得しているんだ。処理だって遅くなるし……例えばほら、あれを見てよ渚』
一輪バイクの上に颯爽と乗ってヒゲを揺らすミケの視線の先に渚が目を向けると、森の一角が奇妙な状況になっていた。普通に見ている分には全く問題なく見れる場所なのに、猫耳レーダーなどで情報として得た仮想視覚では黒いノイズのように映っていたのである。
『なんだ、あれ? 見えねえんだけど』
『あれについてはダン、君の方が詳しいんじゃないかな?』
『ん? ああ、あの場所か。チッ、また増えたのかよ。一旦止まるぞ。ナギサ、この距離を維持したまま自分の目だけで確認してみろ。絶対に
近付くなよ』
ダンがそう忠告をすると渚が仮想視覚を外して、それを見た。
『なんだよ、あれ?』
巨木とともに黒い小さな木のようなものがいくつも生えていた。
『木? いや、なんか人の形をしてないか?』
『正解だナギサ。あれが黒雨に汚染された者の末路だよ。一種のナノマシンコロニーでな。中の人間は死んでるが黒雨は普通に生きていて増殖して散布もしてる』
『黒雨のコロニー? アレがですの?』
『そうだ。あの腕から伸びた幹の先に実が付いてるだろう。近付くとあの黒雨の実が破裂して鋭い破片が周囲にばら撒かれる。アストロクロウズでも至近距離なら突き刺さる可能性は高い。気を付けろよ』
その忠告にリンダが恐れを抱いた顔でコクリと頷く。
『しかし、今までこのルートであの連中と遭遇したことはなかったんだがな。もしかすると関西圏辺りから逃げてきたのか?』
『あと少しで埼玉圏に入れたってのにな』
渚がそう返しながら目を細めた。
ここから埼玉圏の瘴気の壁までそれほど距離はない。機械獣と遭遇したか、別の要因か。ともあれ彼らにしてみれば無念であったろうな……と渚が憐憫の視線を黒い人樹に向けていた。
『それにしても黒雨が探知にこうも影響を及ぼすんじゃあ、あたしの箱庭の世界もあんま役に立たないな』
『そうでもないさ。瘴気の中と同じ程度に使えれば十分だ。ここじゃあ機械獣が接近する前に倒さないと行けないからな。埼玉圏内なら肌が露出しただけならしばらく問題はないが、ここじゃあ一ミリの穴でも開いたらお陀仏だ。探知能力が優れているってのはそれだけで生存能力を上げるのさ。それと……』
『ん?』
ダンが視線を進行方向に向けると、渚が眉をひそめた。
『なんか建物があるな』
『ああ、一応の休憩場所だ。ようやく休めるぞ』
ダンがそう口にし、ソレから渚たちが向かった先にあったのは地下都市の入り口や軍事基地にも似た、途切れ目のほとんどない建造物だった。
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『他にも人工の建造物はあるんだが、ここには何故か機械獣が入ってこないんだ。だから群馬圏を探索する際にはセーフルームに使ってるんだよ』
ダンがそう言いながら降りた一輪バイクを押して建物の中へと入っていき、それに渚たちも続いていった。
『やっぱりここも地下都市と似てるな』
『どちらかというと軍事基地寄りかな。ふむ、面白そうだね』
ミケが興味深そうに周囲を見渡しながらそう口にした。
内部構造はミケの言った通りに軍事基地に近く、中は何故か草木や苔なども存在していない。まるでいまもだれかが使用しているようであった。
『ダン隊長、ここには機械獣が入ってこないんですの?』
『ああ。実際に何度か確かめたが、敷地内に機械獣が入ることはなかった。デキソコナイは気にせずに侵入するから警戒は必要だがね』
ダンがそう言いながら階段を降りて地下らしい区画へと入ると全員が中に入ったのを確認してから地下への出入口を閉めた。
『なあミケ、確か機械獣って私が目覚めた軍事基地には入ってきたよな?』
『そうだね。ここが特別なのか、あちらが特別なのか。或いはここに機械獣が入らないように設定されているとすれば、この施設は機械獣に所縁のある場所なのかも知れないね』
ミケの言葉に渚が『へぇ』と口にしながら周囲を観察する。中のものは元々撤去されていたのか、過去に訪れた狩猟者が持ち帰ったのかは分からないが、ダンが案内した地下には瓦礫すらも存在していなかった。
『一応、出入口は奥にもふたつあるから、デキソコナイに囲まれたとしても逃げ出せる。それじゃあそろそろ昼だしな。メシにしようか』
そしてダンの指示に従い、渚たちは食事に入った。
食事の方法だが一輪バイクに積んであるエーヨーチャージと水の入った密閉カートリッジをアストロクロウズのバックパックに挿すことで口まで自動で運ばせる形になっている。埼玉圏内ならば密閉したテントなどをエアクリーナーで洗浄して普通に食べることも可能だが、黒雨相手ではそうもいかない。それから渚たちが食事を終えるといつの間にか施設内を散歩していたミケが戻ってきた。
『ミケ、面白いもんでもあったか?』
『まあね。ここはやはり中々興味深い施設だったよ』
『どういうことだ? この中は何もないもぬけの殻のはずだが』
ダンが訝しげな顔をしてそう尋ねる。
この建物はダンが群馬圏探索を初めて行ったときからの馴染みの場所だ。そしてダンが最初に来たときから何もない、ただの休憩所という扱いだった。けれどもミケは首を横に振る。
『この建物自体はまだ生きているよ。でなければ、内部も植物に覆われているはずさ。それにここ最近でも使用していた形跡がある』
『なんだと?』
驚きの顔をするダンを尻目にミケがくるりと踵を返して渚たちにお尻と尻尾を見せた。
『ちょっと見てみるかい? この施設には地下がある、というよりもここはどうやら地下への入り口だね。地下都市ほどのものではないとは思うけど、それなりの規模の……さ』
【解説】
黒い人樹:
黒雨に汚染された人間の末路のひとつ。ナノマシンコロニーとなって黒雨を散布し、周囲の汚染濃度を上昇させている。