第260話 渚さんと人の手の届かぬ楽土
瘴気の霧を抜けた先、そこで渚が見たのは巨大樹の森とその合間から見える青空だった。埼玉圏という瓦礫と岩と砂漠と荒野しかない世界とは違う、渚の知っている自然がそこには確かに存在していたのだ。
『すっげぇ。感動もんだな。懐かしいけどなんか初めて見た気もする』
初めて見た……という言葉にミケがわずかに反応を示した。
渚はかつて存在していた由比浜渚という人間を産み出すために、肉体だけではなく、未だ目覚めぬこれまでの人生の記憶も、その魂すらも人の手によって組み合わせて造られた、真の意味での人造人間だ。だから渚にとってソレは自身が存在してから見る本当に初めての青空であった。
『これが埼玉圏の外ですのね。VRシアターで見た森よりも緑が多いですわ。足元には何も生えてはいませんが』
リンダの言う通りに瘴気の霧の手前は埼玉圏内と同じように草木の生えぬ剥き出しの地面があった。その言葉にダンが肩をすくめる。
『瘴気の近くは植物も生えてこない。場所によってはアサクサノリの群生地にもなっているがね』
埼玉圏内でも収穫できるアサクサノリは瘴気に耐性がある苔の一種だ。生存競争のないこの場であれば確かに繁殖する環境としては適切であろうと思われた。
『アサクサノリねえ。となりゃあさ。あっちの森の木ってのもアサクサノリの同類なんだろ。植物だし。持ち帰りゃあ埼玉圏内じゃあ食いっぱくれないんじゃないか?』
『オスカー、アサクサノリは藻類……じゃなくて苔の一種だぞ。木なんてそのままじゃあ食えねえよ』
『ははは、博識だなナギサ。そのままじゃあ駄目なら煮れば食えるのか?』
その問いかけに渚が眉をひそめながら考える。
『うーん。煮て食えるかは知らないけど……猿が皮を食うってのは聞いたことがあるな。まあ樹液のシロップはあるし、木そのものはともかく食べられる実がなっていれば採って食えるんじゃねえの』
『持ち帰るなよ。こっちのもんは基本黒雨に汚染されてると思え。それに外からの有機物は瘴気に入ると焼かれて灰になる。持ち帰ることがそもそもできないんだ』
『灰に……か。ミケ、それってアレか。さっき言ってた瘴気のスキャン?』
『そうだね。浄化物質がちゃんと働いている証拠だと思うよ』
ミケの言葉に渚がなるほどなぁ……という顔をして頷く。
『それ、瘴気が人間を黒雨から守るための防壁って話か。薄々分かっちゃいたが、受け入れがたい話だな』
オスカーの言葉にダンとルークが苦い顔で笑いあった。この世界で目覚めてそう経っていない渚や地下都市育ちのリンダでは、身内が瘴気の中で悶え苦しんで死んでいくという経験はない。だが埼玉圏内では瘴気による死は機械獣に襲われるよりも身近なものだ。特に長年体内に蓄積されることで死に至ることも珍しくはなく、埼玉圏内の寿命を短くしている主要因は間違いなく瘴気であった。
それが瘴気は人間の味方です。消毒液の中にずっと浸かってるようなものなので体に良くないのは仕方ありませんよ……などと突然言われても納得いくものではないのは当然の話だった。
もっとも、それももうすぐなくなるのだ。あと十年経てば瘴気は晴れ、埼玉圏もやがてはこの群馬圏のように緑に覆われる日がくるかもしれない。そして、今のままならば地上の人々はそんな移り変わりを見ることもなく、皆屍をさらす運命にあった。
『しっかし、埼玉圏と違って空気が澄んでるし、遠くまで見渡せるな。空の天国の円環もよく見える』
『瘴気がないからな。初めての人間には新鮮だろう。そういう俺もここに訪れるたびになんとも言えない清々しい気分になる。植物やジメジメした空気感が気持ち悪いって言うヤツもいるけどな』
ダンがそう返す。瘴気の霧がないというのはそれだけで何かが違って感じられる。瘴気のない都市であっても空気は澱んでいるのだ。彼らの世界にはないものがここにはあった。
『とは言っても、こちらの世界はどこにだって黒雨が存在しているわけだが』
『とても、そうには見えねえよ。メットを外しても問題ないんじゃないかって思えちまう』
『試さない方が良いぞ。残念ながら大気中に微量ではあるが黒雨は確実に含まれているし、人体と接触した段階で一気に増殖する。わずかな隙間に入り込んで数秒で天国か地獄に送ってくれる』
『……怖い話だな』
『人間にしか反応しないから僕には関係ないけどね』
ミケがそう言いながらスタスタと歩く。生体ドローンであるミケとメディカロイドのミランダは当然人間とは認識されないのでふたりは黒雨を気にすることなく動けた。
『それでダン、ここからどうする? 確かアカギマウンテンに向かうんだったよな』
ルークの問いかけにダンが頷くと、全員のバイザーにマップが表示される。
『ここは群馬の尻尾と呼ばれているところだ。まずタテバヤシエリアから西のオオタエリアへ向かい、それから北のキリュウエリアへと進む。そのまま北上すればアカギマウンテンに入れるわけだが……』
エイのような形をした群馬圏の尾に当たる部分がハニュウシティを北上して瘴気を抜けた先にあるタテバヤシエリアだ。そこからダンの言葉の通りのキリュウエリアまでのルートがマップに表示されていく。
『で、アカギマウンテンに目的のパトリオット教団の本拠地があるって話だったっけか』
『確定ではないが、その可能性は高いとされている。そこからは各人の探索能力を頼りにするしかないが、ただ問題もある』
『分かってるさ。グンマエンパイアだな』
ルークがそう口にするとキリュウエリアの右側の辺りが赤く点滅した。
『そういうことだ。つまりデキソコナイの本拠地もその近く……ワタラセ渓谷にある』
『で、そのグンマエンパイアってのはなんなんだよ?』
『デキソコナイの工場だと言われている。過去に何度か狩猟者が元凶のそこに遠征に出たが、結局はすべて返り討ちにあって未だに破壊できていない』
『ハニュウシティではデキソコナイを普通に返り討ちにしてたよな?』
渚が首を傾げながら尋ねた。デキソコナイは身体のスペックこそ高いが、所詮は生身だ。狩猟者たちであれば容易とはいかないまでも、そこまで手強い相手だとは渚には思えなかった。
『グンマエンパイアを守っているのはデキソコナイではなく、遺失技術の防衛システムだ。地下都市かそれ以上のものだと思われるような……な』
苦い経験でもあるのか、眉間にしわを寄せながらダンがそう返した。
『軍事基地のひとつかな。クロ、君は何か分からないかい?』
『残念ながら過去の私は周到でしたので、そうした情報の一切を消去していますよミケ』
元はパトリオット教団のサポートAIであったクロがそう口にする。そんなクロの答えにミケも『だろうね』と返して頷いた。元々記憶に期待していたわけではないし、何かしらの気付きがないかと思って尋ねただけだ。なお、パトリオット教団への帰属プログラムはすでに消去済みなので裏切りの可能性もすでにない。
『ひとまずエンパイアには近づかないように行動する。デキソコナイは栃木圏のアシカガエリアを経由してタテバヤシエリアへと入ってくるから、今回のルートではデキソコナイとの遭遇はあまりないだろう。ただ機械獣は点在しているし、遮蔽物の多い森の中などで戦闘になれば埼玉圏内よりも間違いなく苦戦する。だから基本方針は戦闘はなるべく避ける……だ。まあ、そこはナギサの探知能力に期待しているんだけどな』
『了解。瘴気がねえからすっげえクリアだし、問題はねえよ』
『なら結構。では進もうか。何しろここはデキソコナイのハニュウシティへの進行ルート上だ。機械獣もさっきの放電の反応で集まってくるかもしれないからな』
それから一行はその場を後にし、群馬圏内を移動し始めた。
空は青く、森は深く、人の手から離れた大自然の中を渚は仲間たちと共に駆けていく。その表情には一切の迷いはなく、その視線は未来に向けられていた。
けれども渚はまだ知らない。ここから向かう先にあるパトリオット教団こそは彼女の過去そのものなのだと。何故に渚が生まれ、竜卵の苗床とされたのか。その真実を渚が知るのはもう間も無くのことであった。
【解説】
埼玉圏への有機物の持ち込み:
作中で埼玉圏に持ち込まれる有機物は瘴気の中で灰になるとの説明があったが、これは誤りである。黒雨に侵されていないのであれば瘴気は反応を示さない。その証拠としてパトリオット教団が持ち込む野菜は灰になってはいないし、何より戻った人間は皆生きている。