第211話 渚さんとクイックブーストする鬼ババア
(なんだ。この婆さん?)
渚が目の前の老婆から距離を取りたいという衝動を抑えながら、眉をひそめる。先ほどまでリンダを心配していた人物はもうそこにはいなかった。ザルゴやモランにも感じなかった、異常なまでのプレッシャーを放つ獰猛な何かがそこにいた。そして、気圧された渚の前に立ったのはマーカスだった。
「ナギサ、この老婆は要するにクキアンダーシティの用心棒だ。現時点においても彼女は狩猟者としてこの地下都市と契約を継続し、その報酬として上級市民のIDを得ている」
「現時点? 引退したわけじゃないのかよ。けどリンダはそんなこと言ってなかったし、ライアン局長だって」
「ハッ、そりゃあ、あの子らには教えてないから知らないだろうねえ。ま、暴力でしか稼げないようなロクでもない人間の血を引いてるなんて知っちゃったら可哀想だろう?」
その言葉に渚が「てことはマジ?」と言う顔をしてマーカスを見て、マーカスは何も言わずに頷いた。なお狩猟者でも知らぬ情報をマーカスが知り得たのはトリーとウィンドが知己であり、過去にも何度か接触をし、また騎士団の外部協力者として手を組んだこともあるためだ。
「とはいえ、そんな意地を張った結果、肝心な時に息子を護れずに殺されちまった愚かなババアだけどね」
顔を伏せたトリーに渚が「……リンダの婆ちゃん」と口にしたが、すぐさまトリーは顔を上げて渚を見た。
「いや、湿っぽい話をしたね。じゃあやろうか」
「だからなんであたしがリンダの婆ちゃんと戦うんだよ?」
「ナギサ、そちらの老婆は戦うことが何よりも好きな人間なんだ。そのために全部を捨ててクキアンダーシティに降りた。母上曰く、過去の逸話も大概が腕試しだったらしいしな。多少は落ち着いたと思っていたんだが……」
「はっ、最近は退屈過ぎてボケが来ちまいそうだよ。外に出る前にシャッフルも終わっちまったし、最近じゃあヘラクレスぐらいしか来てくれないしねぇ」
『ヘラクレスとね。なるほど』
ヘラクレスの名に反応したミケが一歩前に出てトリーを見た。
『それでトリー。君は渚を殺す気はないんだよね?』
「はっは、さすがに孫の友達を殺っちまうようなことはしないよ。ちょいと撫でてやるだけさ」
『そうかい。だったら受けたらどうだい渚?』
「ミケ?」
ここでミケがトリーの誘いに乗るとは思わなかった渚がその提案に目を丸くする。
『ここまでの君の体の性能テストは正直に言って完全とは言い難くてね。彼女なら実戦に近いレベルで戦うことができるだろう。殺し合いにならないのであればこの経験は得難いものになると思うよ』
「へぇ。話の分かる猫ちゃんだね。ほれ、ナギサ。こいつを使いな」
そう言ってトリーが壁にかけてあったライフル銃二丁とマガジン六本を無造作に投げ渡した。
「おっと。なんだよ、これ」
それを受け取った渚がライフル銃からマガジン、それからマガジンに込められている弾丸を見て目を細める。自分の使っているものとは弾頭の種類が違う。対人用でも対装甲用でもないソレは渚が初めて見るものであった。
「暴徒鎮圧用のスタンゴム弾さ。ちぃと痛いし痺れるがソレなら死なないしね」
「へぇ。いや、あたしはいいんだけどさ。けど、さすがに婆ちゃんに当たったら死んじゃったりしちゃわないか?」
「問題ない。鍛えてるからね。ま、当たるとも思えないけどね」
そう言ってムキッとした腕をトリーが見せる。それはまったく老婆とは思えない、鋼のような筋肉であった。その様子に渚が肩をすくめ、ため息をひとつついてからライフル二丁を構えた。トリーはやる気でミケも乗り気でマーカスは中立のようであり、実際渚も話に聞くトリー・バーナムには興味を持っていたのだ。
「しゃーねえな。じゃあ、やってやるよ婆ちゃん」
「ようやく乗ったかい。じゃあ来な。年寄りをあまり待たせるもんじゃあないよ」
「あいよ」
そう口にした渚は即座にセンスブーストを発動し、知覚を加速させる。以前とは違って脳への負担も極端に減り、その上に渚は箱庭の世界でこの場の空間をも掌握する。やるならば速攻。老婆が動く隙も与えない。即座にカタをつけようと……
(撃つ!)
そして渚が弾道予測線に沿ってライフル銃から放ったスタンゴム弾は老婆の背後の壁へと着弾した。
(あ、嘘?)
当てたと思った。けれども避けられた。その理由は至極単純で、つまりはトリーが車椅子を緩急をつけて操作し、チップの予測を上回った動きを見せて避けたのだ。その上にトリーはお返しとばかりに渚に対し銃弾を放ち、それを渚はキャットファングでとっさに受けると着弾したところがバチリと雷が弾けた。
(スタン効果か。まあ効かねえけどさ)
ダメージはない。そう判断した渚はすぐさまキャットファングのブーストを発動して加速していく。だが直後に渚は続けて迫る弾丸を慌てて避けた。
(こっちの動きを読まれて!?)
『渚。補助腕を使ってランダム回避だ』
ミケの指摘に渚はとっさにサブアームを展開する。そしてそれらを足にして跳ね、不規則な機動で連続で放たれた弾丸を避けていく。
(ミケがいねえとやっぱりあたしは駄目だなあ)
『そんなことはないさ。けど、やはり化け物だね』
回避行動と同時に弾道予測線に沿って渚は老婆へと銃弾を撃ち続けてもいるが、まったく当たらない。動きを完全に読まれている上に、車椅子の車輪の無数のスパイクが不規則に上下し動きを変化させると同時に背もたれの裏のブースターと左右のスラスターが老婆を加速させる。その動きに翻弄されつつも渚は距離を取りながらトリーへの攻撃を続けようとしたが、次の瞬間にスッと背筋が凍りつくような感覚があった。
「おいおい、ナギサ。そんな離れていいのかい?」
知覚を加速させている渚だがチップはトリーの言葉を正常な時で聞き取れるものに解析して渚に伝え、渚はその言葉の意味を箱庭の世界を使って把握した。
(チッ、そういうことかよ)
とっさの判断で渚がトリーに向かって加速する。対してトリーの車椅子の左右に設置されたガトリング砲が火を吹き、凄まじい数のスタンゴム弾が放たれる。
「はっはぁあああ!」
銃口をブラして散らすことで散弾のごとく弾丸が散った。それが二丁。渚の弾道予測線は敵の攻撃も予測する。そして渚が見たのは放射状に広がる雲の如き敵の攻撃範囲だ。だからこそ渚は最大加速でトリーに接近し、広がりきる前に回避を行った。
「いい子だ。近付いたね」
対してトリーが笑いながら渚に加速していく。相手が接近戦を仕掛けてくることを悟った渚は(だったら手数で押す)と判断しながら八本の補助腕を展開する。接近して蜘蛛のようにすべての補助腕を使って拘束してしまえば良いと渚は判断したのが、その考え自体が目の前の老婆には甘過ぎた。
「さあて、こいつはどう返すかね」
直後にタイヤのスパイクが一斉に射出される。
(ミサイル?)
『違う。これは有線誘導兵器。不味いよ渚。補助腕を使って『絡める』んだ』
(ぉぉおおおお!)
小型のブースターが内蔵されたワイヤー付きスパイクに渚は必死で補助腕を振るってすべて絡め取っていく。そして渚がワイヤーを巻きつけた補助腕を切り離してトリーに近付くと渚の目の前に車椅子が飛び込んできた。
「ヒャッハーー!」
(車椅子で特攻? いや)
渚がキャットファングで車椅子を弾き、同時に右腕のライフルを背後へと向けると、それは背後に回り込んだトリーの銃口と重なった。そして渚が視線をそちらに向けると車椅子から離れて一本腕で立ち、もう一本の腕でライフル銃を渚に向けている老婆の姿があった。
「ほぉ、相打ちかい?」
「馬鹿言うなよ」
トリーの言葉に渚が笑う。確かにこのまま撃てば、両者のスタンゴム弾同士がぶつかり、それ自体は相打ちとなっていただろう。けれども渚は気付いていた。老婆の地面についた手が握っているスパイク付きのワイヤーの先には、転がっている車椅子のガトリング砲が渚に向かって銃口を向けているのを。故に渚は……
「どうせ、アレもそのワイヤーを通して操作できてんだろ。あたしの負けだ」
素直に敗北宣言をし、銃口を下ろして肩をすくめたのであった。
【解説】
武装車椅子:
トリー・バーナム専用の車椅子でチャリオットと呼称されている。左右に収納型ガトリング砲二門、有線操作可能なスパイク付きのタイヤ、背もたれにブースター、左右にスラスターを搭載し、ライフル銃などの武器も収納されている。安全面を一切考慮されていないピーキーなチェーンがされているため普通の人間では乗りこなすことはおろか、ただ乗るだけでも振り回されて弾き飛ばされるのがオチである。
なお渚と対峙したのは地下都市内部用に制限された状態であるため、本来の性能はまったく発揮されていない。