第179話 ミケさんと怒りの猫パンチ
湖面より飛び出してきた怪物は、その場の彼らの誰にとっても異質な存在だった。そして、怪物の形の正体にいち早く気付いたのはマーカスだ。
『猫……なのか、アレは?』
唸りながらそう呟くマーカスの表情は困惑の色に染まっていた。
ウィンドの飼っている猫の世話をしているマーカスはこの埼玉圏では猫という生き物をもっとも理解している人間のひとりだ。もっとも目の前にいる怪物は形こそ猫の姿をしているものの小柄な少女よりも若干大きいくらいのサイズで、また形こそ似せてはいるが実体は機械の塊であり、所々にアイテール結晶も生やしていた。
その様子には這いずっていたリンダも腕の動きを止めて呆気にとられた顔をしており、ザルゴにしても攻撃するべきか否かの判断がつかめず距離を取りながら観察している。
『マーカス、聞こえてる?』
そして、マーカスの耳に彼が敬愛する母からの声が響く。
『は、母上。ええ、聞こえています。それよりも見ていますか? アレは一体』
『マーカス、いい? 何があってもアレには近付かないで』
『どういうことです?』
焦りの混じった母の警告にマーカスが疑問の言葉を返す。
その声からマーカスはウィンドが機械の猫の正体を理解しているようだと察したが、マーカス自身には皆目見当もつかなかった。
『パトリオット教団が仕込んでいた竜卵計画は伝えたよね?』
『ええ。ナギサがその計画で再生体として生み出されたという話はうかがいましたが』
それはつい数時間前のことだ。ウィンドが渚との関係を打ち明けた際にマーカスは現在の渚の出自も聞いていた。カスカベの町の地下で起きた状況をウィンドは正確に計測していたため、その際に得ていた情報から渚が竜卵と呼ばれるチップを埋め込まれている存在であることは分かっていた。だからこそ、ウィンドは出会った際に渚の状況をある程度は推測できていたのである。
『竜卵、苗床、サブシステムのナビゲーションAI…それらがどういったものかを私たちは理解しているつもりだったけど、まったく理解できていなかったみたいだよ。完全にダミーの情報を流されて泳がされていたんだ」
ウィンドが理解していたパトリオット教団の計画とは、別の時代の優秀な人間を複数再生体として生み出し、それらを埼玉圏内に放って多角的な視点で黒雨と瘴気の問題の解決を図らせようというものであった。竜卵と呼ばれるチップは生み出された解決手段の情報を集積するための装置の一種なのだと。
ウィンドはパトリオット教団がこれまでに人類を地上に復権させるために動いていることは知っていたし、別で行われている計画のいくつかも把握していたために、今回もそうしたモノの一環なのだろうと理解していた……いや、そう理解させられていたというべきだろう。
けれどもモニターに映る存在を知ったことでパトリオット教団の目的が自分たちの認識から大きく外れているとウィンドは気付かされた。
『あれは機械種。まだ小型だけど、おそらくグリーンドラゴンの幼生体だ』
『な、なんですと?』
マーカスの目が見開かれる。機械種という存在自体はマーカスもそれほど多く知っているわけではないが、グリーンドラゴンは別だ。この世界のおける最大の脅威にして、彼らに恵みをもたらす存在。今も埼玉県の中心近くに留まっている怪物と目の前の猫もどきが同じものだという言葉にマーカスは動揺を隠しきれない。
『いいかいマーカス。あの中には渚がいると思う。けれどもたった今、アレは埼玉海の水の一部を水面が下がるくらいに一瞬で分解し、アイテールに変換したんだよ。おそらく見えてる以上にアイテール結晶は中に詰まっているはずだ』
『母上。分解して変換したですって?』
『そうだよ。分かるでしょマーカス? 機械獣のアルケーミストよりも強力な分解能力だよ。近付いただけで身体が崩壊しかねない。だから警戒して……』
『待ってください。何か動きが』
ウィンドの言葉をマーカスが遮る。気が付けば機械の猫はリンダの前へと立っていた。そしてリンダがその機械猫を見て『ミケさん?』と口にし、対して機械猫が『やあ、リンダ』と返す。
『まだ生きていて何よりだよ。君が亡くなってしまっては渚が悲しむからね。本当に良かった』
『渚が? あの……その姿はどういうことで……きゃッ』
リンダが話している途中でザルゴがドラグーンからアイテールライトのレーザーを射出したのだ。しかし、それはミケの前で歪んで曲がり、そのまま大きく弧を描いて湖面に激突して巨大な水柱があがった。
『危ないなぁ。いきなり攻撃するなんて』
そして余裕を持って言葉を返したミケに対し、ザルゴは眉間にしわを寄せて苦い顔をした。
『すごい。けれど、あの……ミケ。ナギサはどうしたんですの?』
『渚なら僕の中で治療中さ。大丈夫、あとで会えるよ』
その言葉にリンダの表情がパッと明るくなったのを確認すると、ミケはザルゴへと刺すような視線を向けた。
『ミケさん?』
『うん。まあ、つまらない用事を済ませてくるからちょっと待っててよ』
そう言って右の前足を一歩踏み出したミケをザルゴが睨みつける。
『言葉が通じるのか。それにそのフォルム、機械獣でもないな。お前は何だ?』
『僕はミケ。渚の保護者だよ』
『保護者?』
意外そうな顔をしたザルゴにミケが頷くと、それから牙をむき出しにして睨みつけた。透き通るような殺意を感じ、ザルゴが己の内にある警戒レベルを数段引き上げていく。
『それでね僕は今大変ストレスを感じている。これは怒りだね。理由は言うまでもないかな』
『鈍くはないつもりだ。しかし、だったらどうする?』
保護者と名乗るからには、ザルゴに対する怒りの意味はひとつであるし、だからと言ってザルゴもはいそうですかと謝るつもりもない。彼とて背負う命があり、
そのためにここまでやって来たのだ。しかし、続けて告げられたミケの言葉はザルゴにとっても想定外のものだった。
『そうだね。少し時間もあるし、僕の苛立ちのはけ口になってもらうよ』
『はけ口? それはどういう……』
ザルゴが尋ねている途中でフッとミケの姿が消え、
『な!?』
次の瞬間にはザルゴがその場を高速で離れ、さらにはザルゴのいた場所にはミケが立っていて、ミケの真下にあるコンクリートの地面は粉々に砕けていた。
『何という速度だ』
その様子を見ていたマーカスが唸る。瞬きほどの一瞬でミケはザルゴのいた場所へと前足を振り下ろして攻撃していたのである。その破壊力から避けねば即死だったことは明らか。もっともミケも避けられたことを特に気にした風もなく、ザルゴへと視線を向けながら口を開いた。
『はけ口にするというのは、鼠のようにいたぶってあげるということだよザルゴ。僕の娘を虐めてくれたんだ。覚悟はできているよね?』
【解説】
竜卵計画:
自分たちだけで黒雨に対抗するのに限界を感じたパトリオット教団が、別の時代の優秀な人材を複数再生させて黒雨対策を生み出させようとしている……というのがウィンドたちが掴んでいた竜卵計画というプロジェクトの全容であった。
ウィンドは今回のことでその情報が誤りであると判断したようだが……