第144話 渚さんと双卵の担い手
『ふむ、それはどういう意味だい?』
チップを咥えたミケランジェロにミケがそう尋ねる。
『ドクのチップの譲渡とこちらの情報の提供することを条件に、僕の魂をこのアイテール結晶のボディに移動してもらいたいんだ』
その言葉にミケが目細めてドクを見ると、ドクが頷きを返した。
『そうかい。どうやらふたりともアップデートしたついでに、僕たちにおさがりをくれる……ということみたいだね』
『気前良く、そうだと言いたいところだけどね。実は仕様が変わったことで恥ずかしながら僕単体では対応できなくなってしまったんだ。時間をかければ可能なのだろうけど、まだ自分の身体の把握もできていない』
その言葉にするミケが『なるほどねえ』と呟いてから渚を見た。
『ということなんだけど、渚。ドクのチップと接続したいのだけれど、許可をもらえるかい?』
「正直お前らが何言ってんだかさっぱり分かんねえし、好きにしてくれ」
すでに色々と諦めた様子の渚が降参と両手を挙げてそう返す。
ここにきてからというもの渚は己の許容量を超えた事態に辟易としていた。それから渚の言葉に頷いたミケがマシンアームのファングからコードを伸ばしてミケランジェロの咥えているチップへと接触させる。
『チップ接続完了。記録の同期完了。マトリクス移動完了。うん、状況が見えてきた』
「ミケ、大丈夫か?」
どうやらすぐに用件を片付けたらしいミケには渚が心配そうな顔を向けたが、ミケが『問題ないよ』と返した。
『ドクのチップの所有権を君に書き換え、ミケランジェロという個体のマトリクスをあの緑水晶の猫に移した。それにしても結晶体が演算装置としても記憶媒体としても機能しているというのは興味深い。アウラの例を取っても拡張性も発展性も高いようだし、進化した生命といっても間違いではないね』
『機械種とは分岐した進化の系統樹のひとつ……なのかもね。なってみて初めて分かることもあるし』
ドクがそう言って笑う。それから難しい顔をした渚が手を挙げて口を開いた。
「で、結局どういうことなんだよ?」
『ああ、ごめんなさいナギサ。いえ……ああ、渚と言うのね。あの文字の『読み方を知らなかったから気付かなかった』わ』
「?」
訝しげな顔をする渚にドクが微笑みながら口を開いた。
『まあ、同期によりそちらの状況も理解したし、伝えられるべき情報はミケには伝えてあるわよ』
「そうなのか?」
渚の問いにミケが頷く。
『そうだね。色々と把握はできたよ。ただ、正直に言って与えられた情報は膨大だ。説明は少し待ってくれると助かる。僕としてもこれ以上、君の頭痛の種を増やすのは本意ではないしね』
その言葉に渚が「まぁなぁ」と返す。ここまでの話も渚にはついてこれていない。これ以上、何を言われても頭に入らない自信が渚にはあった。
「んー分かった。リミットはすでに聞いたしな。あとでちゃんと聞かせろよミケ」
そう返す渚にミケが頷くと、それからミケはドクとミケランジェロを見た。
『ともあれ、ここに来た目的は果たした。それで、これから君たちはどうするんだい?』
『そうね。チップからは解放されたことだし、今はここで侵食体に偽装したまま情報を集めようと思うわ。もはや私にとって黒雨は危機ではなくなったけど、気になることもあるしアウラとも繋がって確認を取りたいこともある』
それからドクが『だから黙っていてね』と言うと、渚の方は少し考えてから頷いた。
「いいぜ。野盗との協力はもうしないってんならな」
『分かったわ。一応野盗についての手土産もミケに渡してある。その時点でもう裏切り者でしょうし、私は一応死んだのだしね』
ドクの言葉にミケが頷く。
『それと渚。あなたはこれからコシガヤシーキャピタルに行くのだったわね』
「ああ、そうだけど?」
そもそも渚たちはカスカベの町ではなくコシガヤシーキャピタルへと行く予定でクキシティを出ていたのだ。
『であれば、ガヴァナーに会いなさい』
「うん? ガヴァナーって、確かあっちの一番偉い人だよな。あたしみたいなのにも会ってくれんのか?」
『ええ。あちらはもう『知っている』はずよ。問題はないわ』
その言葉に渚が首を傾げるが、ドクからはそれ以上の言葉は出てこなかった。そしていくつかの言葉を交わした後、渚は部屋を出て地上へと駆けていった。答えは得た。残りはカスカベの町を奪還するのみである。
**********
『あれ、偶然かしら?』
渚が去った部屋の中でドクがそう口にする。
ドクはこれから物言わぬアイテール結晶侵食体に偽装して、その場で情報を集めるつもりであった。渚が喋らないかという不安はあったが、仮にバレたとしても今のドクはアンダーシティと交渉してどうにかできるという算段もある。
それからミケランジェロが『まさか』と言葉を返した。
『そんなわけがないよ。ただ、教団は各時代での起点となる人物を選んだと言っていた。君の犠牲によりアイテールの実用に目処はついたということを考えれば、君が選ばれたのには納得がいく。けれども渚、彼女の姉は様々な時代での起点とはなり得るものの、由比浜渚という女性に関しては至極真っ当に終わった人生だったはずだ。記録通りであるならば……だけれどね』
ミケランジェロの言葉にドクが首肯する。
実のところ、ドクは渚という人間のことを以前から知っていた。ただ資料に書かれていた古語の呼び方を知らなかったために、渚とドクの知識の中にある渚という人物が紐付いていなかった。
それに渚の情報についてはドクも書かれた報告書に目を通した程度でしかないし、興味のあるものでもなかったのだ。ごく普通の人生を歩み、ごく普通に寿命を迎えた、何の淀みもない正道なる人生を生きた過去の人物に対してドクが関心を寄せる理由はない。
『それにだ。彼女が本当に当人の再生体である可能性は低いだろう』
続くミケランジェロの言葉にドクが『そうね』と返す。
そもそもが特別視されたのは彼女の姉であり、当時散々調べた結果として渚の重要性は彼女の妹であるという以上のものはなかったのだ。その上にかつての技術力では魂までをも再生可能なほどの密度の情報を得ることは不可能に近いはずなのだ。
であればあの少女は、例えば恐竜の骨から全体像を復元したような……収集された当時の情報を元に復元された存在なのだろうというのがふたりの出した結論だった。彼女の生きていた時代にはすでにワールドワイドなネットワークが確立していて、彼女の姉との対話記録なども残っていた。
『あの子を果たしてアウラが認めるかは分からないけど、多分教団は裁定者とアウラと絡めたいという意図があるのだろうね』
『最悪アウラの怒りで教団ごと滅びるとは思うのだけれど。ただ、それもまた裁定として受け入れてしまうのかもしれないわね』
ドクがそう言って、部屋の入り口へと視線を向ける。扉は開いたままだが、渚の姿はずいぶん前にもう見えなくなっていた。
『さて、あの子は何を選ぶのかしら?』
『分からない。けれど、彼女の手には今チップがふたつある。それは教団が意図できなかったことのはずだ』
その言葉にドクが頷く。チップの正体は、かつて戦争を終わらせたという最終兵器『機械種』の種だ。対象者の意思を汲み取り、自己を無限に進化させる怪物を生み出すソレを渚はふたつ抱えることとなった。
『ええ、これでレールをズラすことは成功したはず。それが吉と出るか凶と出るか、今はここで見極めさせてもらいましょう』
【解説】
由比浜渚:
彼女の人生は常に順風満帆というわけではなく、かといって波乱に満ち溢れたものでもなく、それは本来人がそうであるべきという道を歩み続けた人生だった。
享年83歳。晩年は大好きな姉に付き添われて穏やかに過ごし、姉や子供、孫たちに囲まれて眠るようにその生涯を終えた……と記録には残っている。