第1章 第1話 ヘルハウンド来襲と再会
サイレンが鳴りやみ、ほんの一瞬だけだが街中は静けさを取り戻す。しかしながらまたすぐに街のいたる所に設置されているスピーカーから突然の緊急速報が流れた。
『ザザザッ……緊急速報をお伝えいたします、緊急速報をお伝えいたします。ザザザッ……現在、ザザッ……方面にて、未確認生物ガガガッ……れておりま……、市民の皆様はザザザッ……家屋内に入るなどの措置をとり、ザッ……ザザッ……全を確保してください。繰り返します、現ざザザザッ……見川台に犬のような未確認生物がザザザッ……暴れており……す。市民の皆様は足元に注意をしてザザッ……てください。』
ハルトと嘉苗はその雑音まじりの音声を聞いたあと、にわかに自らの耳を疑った。未確認生物?犬のようなもの?厨二設定にしてはあまりにもくだらない話だと思わせるような内容でなんともバカバカしかった。しかし、これは紛れもない市の注意警告なのだから無視するわけにもいかない。
二人はとりあえず帰宅をしようと校門から歩き出す、ハルトの自宅は学校から少し遠いものの市街地の中心部に流れる川を渡った旧市街地にあり、嘉苗の自宅はその反対側にある新市街地にある。
その新旧市街地の中心部に南総駅がはしっており、そこを中心として街は栄えている。特に新市街地ができてからは人口も増加傾向にあるらしい。
先ほどの緊急速報が事実であるならば見川台は新市街地にあるため、嘉苗にとっては不安も少なからずあるであろう……と思ってみれば当の本人はいささか平気そうである、その証拠に彼女は「あぁ、私は一人でも帰れるから平気だよ」と言いながら特に見たくもないめっちゃ元気アピールをしてくる。
そんなバカなやりとりをしながら、ふと後ろを振り向くとすでに学び舎の姿は見えなくなり、十字路を右折し横断歩道を渡り、新旧市街地の真ん中を横断する国道に出るとすでに日は落ちはじめており、点々と街灯が点灯しはじめる。
脅威がすぐ傍まで迫っていることにも気づかずに二人は他愛もない話をする――とはいっても話しているのは嘉苗一人だけで彼は適当に相槌ちをうっているだけなのだが……そんな時に嘉苗は一人の老人の肩にぶつかった。彼女としてはお喋りに夢中になって周囲が見えなかったことからして自らの不注意だと悟り、咄嗟に「すみません」と謝罪をした。
老人は茶色の上下のスーツに身を包み、そしてその色に合わせたのか、深々とかぶっていた帽子を片手で脱ぎ持つと、丁寧に一礼する。
「大丈夫ですかな、お嬢さん、お怪我はないですか? いやはや、私もすでに老齢ですから少しばかり呆けておりました。それよりもまだお若いというのになんという礼儀正しさ……世の中のすべての若者もこうであってほしいものですなぁ」
そう言って老人は顔を上げて目を細めて笑うもこの時には彼は既に何か違和感をおぼえていた。なにかと言われれば説明はできないが、なにかが起こるのでは、そう予感させられずにはいられなかった。
そんな彼の隣で嘉苗は「良かったね、良い人そうなお爺ちゃんで」とか「うわっ、なかなか渋いスーツですね!」とか老人の姿、格好に興味津々とばかりに絡んでいる、まったくお気楽なことでと言いたいところだがこれ以上話がややこしくなるのはごめんだと思いとどまる。
しかし、こんなほんわかとした空気はいつまでも続かなかった、老人のはるか後方から黒いモヤみたいなものを纏った犬、しかも複数頭がゆっくりと歩いてくるのが見えた。もちろん老人に絡んでいる彼女は気付いていない、彼はそっとその手に自然と力が入った。先ほどからしていた嫌な予感はまさにこの事だったのだと。
そんな状況下でどうやって彼女に悟らせるかが問題であった、どちらにしても彼女は守らなければならない。あの警報時に流されていた情報もガセではなく本物、それも今まさに彼らの目の前に例のヤツらがいる。しかし、老人とあの化け物の関連性だけはわからなかったが唯一分かっていることが一つ、それは――
あの老人が化け物の情報を知る鍵を握る人物だということ、となれば彼の行動はただ一つ……老人を捕らえてヤツらの情報を引き出す、それだけだ。ハルトはスルスルっと棒状の物に巻かれていた布を解くと二メートルは超えるであろう長槍がその姿をみせた。
嘉苗は「どうしたの?」と、ふと彼の行動に視線を送ると同時に腹部に痛みがはしると急に眩暈が起こり、視界が歪むと膝から崩れ落ちるようにその場に倒れこんだ。すると彼は瞬時に手に持つ槍で老人に斬りかかる、普通ならこれだけで殺人容疑ものだが、そんなことを言っている場合ではない。これはもはや緊急事態、しかも殺すか殺されるかの瀬戸際なのだ。
そして、彼は彼の本能でそう動いた。
「ふむ、やはりわかってしまわれましたか……素早く貴方を捕縛して差し上げようと思ったのですが……うまくいかないものですな」
老人は彼の槍捌きを回避したかと思えば少し距離を空ける位置に瞬時に移動する、その周囲には犬たちの群れ、十五頭ほどが「グルルルルル」と唸り声をあげながらハルトのことを威嚇する。
ハルトは視線を老人に向けると、先程までの好々爺然とした表情はすっかり消えていた。
しかも彼が驚いたのは彼の槍捌きを避けた時の回避行動だ。普通であれば相当な運動神経と技術を持ち合わさなければ出来ない芸当だ、彼はまがいなりにも陣ヶ崎流槍術の次代当主とまでいわれる実力を持っている、それを避けるとなると並大抵の相手ではない。
彼は嘉苗を抱き起すと、道路の端にあるブロック塀にもたれ掛けさせると、まっすぐ相手の眼をみる、老人は冷たい眼差しで「おやおや……」とハルトと見下ろす、実際かなり厳しい状況……いや、最悪な展開であった。なにせ彼女を守りながら正体不明の老人と化け物を相手にしなくてはいけないからだ。
まともに相手をして勝てるかどうかよりも、今は彼女を連れてどこかに逃げるほうが無難ではないか、それとも無理を押し通してでも抵抗を試みるか……彼の頭の中はフル回転をしながら思案する。
しかしながら、どのような方法をとったところで奴らと戦う以外の選択肢しか残されていなかった、どちらにしても怪我の一つは覚悟しなければならない。そう思った彼だったが心のどこかで妙なワクワク感があったのも事実、自身の今までの無気力となる原因はきっとそこにあったのだろう。
「とりあえず聞きたいことがある、さきほどの動き、ただの老人にしては身のこなしが良すぎる。お前らはいったい何者でなにが目的だ? 俺らのような一介の高校生を狙うなんてそれ相応の目的があるはず、それにその犬のようなやつはなんなんだ、とてもじゃないがその辺にいるような犬とは違うみたいだし」
畳みかけるように老人に尋ねるハルト、それに対して老人は「うーん」と顎に手をあててなにか考えているようだった。
「目的……ですかな? そうですなぁ……強いて言えば陣ヶ崎ハルト様の捕縛、そして主様の元への帰還といったところでしょうかな」
老人は恍惚とした表情を浮かべながら静かに口を開くとそう答えた。おそらくその主様のことを思い出しているのだろう。
ハルトの頭の中ではたくさんの「?」が浮かぶ、それもそのはず、いきなり現れた老人とその飼い犬がもたらした情報量があまりにも多すぎる、しかも未だ老人から教えてもらっていない情報がまだまだあるものの、それ以上はどうも教えてくれなさそうだ。
その証拠に老人は「教えられるのはここまでですなぁ」と、さきほどまでの恍惚とした表情からまた一変して冷たい表情に戻っている。
「ん、んん……あ、あれ? 私寝て……あ、痛っ! え……これなにが起こったの? ハルト、いったいなにがあったの? それにお爺ちゃん、いったいどうしちゃったの? ねぇ、ねぇってば!」
いつのまにか嘉苗が意識を取り戻している。しかし、腹部の痛みと共に今の置かれている状況に脳が追いついていない様子で取り乱しはじめる。それも仕方がないことなのだろう、なにせいきなり老人に腹部に殴られて意識を失ったのだから。いつもの嘉苗なら「私がそんなの許さない!」と正義感ぶるのであろうが、やはり年頃の女の子ともいうべきか、こうした局面になると心の中は恐怖でいっぱいになるようで肩を震わせつつもなんとか立とうとするが、どうにも腰に力が入らない。彼女の顔は恐怖に歪み、目には涙を浮かべている。
そんな彼女の反応をみた犬の化け物たちはおあずけをくらったお腹を空かした犬のように口から涎を垂らししながらも低い唸り声をあげている。そもそも空腹感があるかどうかもわからないが……
「あぁ、よしよし。お腹を空かせているようですねぇ……じゃあ、死なない程度にやってくださいねぇ。あ、そこの女は殺して食っても大丈夫ですから」
老人が犬の化け物たちに手で指示を送ると、化け物たちが一斉に跳びかかった。
「いやあああああああああ!!!!」
それと同時に嘉苗が恐怖に満ちた悲鳴をあげる。
「ふ、ふふふ。あぁ、いいですねぇ。若い女性の悲鳴というのは……でも、貴女には悪いですが邪魔なので消えてもらいますよ。私がいま必要なのはそこのハルト君ですからねぇ……それにしても生け捕りとは難しい注文を主様はおっしゃられましたが、はたしてあの犬たちはどこまで私の指示に従ってくれるのか……いささか疑問ですが」
「――っ!!」
ハルトは槍を振り回しながら、襲い来る犬の化け物をなぎ倒す。
「ガルルルル」
「ギャンッ」
「キャインキャインッ」
「ガァッ」
化け物が次々と牙を剝いてはハルトが斬り捨て、そのたびに断末魔が街中にこだまする、何気ない日常の中では映画やドラマなどのスクリーンの中でしか見ることのない、あまりにも非現実的なことが今ここで起こっているのだ。彼女が「お願い、夢なら覚めて……」と風が吹くと消えてしまいそうな小さな声で祈る。
そんな彼女を見てハルトは「すぐに終わるから待ってろ」と声を掛け、自身は返り血を浴びながらも、奮闘するも容赦のない波状攻撃に彼の負う傷は徐々に増えていく、制服は破れ、見えた肌にはうっすらと血が滲む……それでもなお、彼は武器を取り化け物と対峙する姿、彼女の眼にどのように映っているのだろうか。
街中では未だパニックが収まらない中、ハルトは槍を構えなおすとスッと目を閉じ精神を研ぎ澄ませる。それを見た老人は咄嗟に「避けなさい!」と大声で叫ぶも時は既に遅かった。彼は目を開けると同時に獲物を狙い定める獰猛類のような鋭い視線を化け物に向けると化け物たちは蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。
「陣ヶ崎流槍術、一の型。〝千波斬り〟」
小さく、静かに技名を言うと同時に横に構えた槍を横に一閃、刃先は弧を描きながら化け物たちを一刀両断にし、それを見ていた老人はその光景に絶句する。数も力も圧倒的優位な立ち位置に余裕を持っていた老人は一気に劣勢にたたされる、化け物たちは本能的に後ずさりをする。
「くっ――、まだまだこれからですよ! お前たちさっさと行きなさい!」
「陣ヶ崎流槍術、四の型。槍牙斬雨」
今度は矛先を化け物に向け、素早く突き出しそれをひたすら繰り返すと槍の先端が無数に増え、次々と化け物たちの頭部などの身体の一部に突き刺さる。
「そんな……バカな……」
「こちとら、伊達に槍術をやってるわけじゃない。さて、話してもらっていいですかね? 主様とは誰のことなのか」
構えを崩さすにまっすぐ見据えるハルト、ギュッと拳を握りしめて肩をワナワナと震わせる老人。嘉苗はハルトの後ろで「すごい……」と小さな声で驚いている様子、それもそうだろう、なにせ二十体以上いた化け物をハルト一人でほぼ壊滅に追いやったのだから。
「くっ……、ふふ、ふはははは。いやはや、流石でございますな、ハルト様。今、私は深く感動しております。貴方こそ主の婚姻相手に相応しい。しかしながらあちらの世界のハルト様はそこまでの実力がなく、あっけなく死にましたが……さすがにあの慈悲深い主様があまりにもお可哀そうで涙致しましたが」
「……アンタがなにを言っているのかわからないけど、話を逸らすなら直接その身体に聞くことになりますが、どうします?」
睨み付けるハルトに「おぉ、怖い、怖い」と肩をすくませる老人、周囲には死屍累々と化け物たちが横たわり、生き残ったのは数えるほどしかいない。すでに彼らの危機はなんとか過ぎ去った状況下で老人は一瞬だけ焦る様子も見受けられたが、今はすっかり落ち着いている。未だなにかを隠している様にも見えるが、ネタを小出しにするあまり、ハルトは苛立ちを隠せないでいる。それにもうこれ以上、悠長にしているわけにもいかない。太陽はすでにその光の強さに陰りが見え、影の部分が広がり始めていた。
ハルトは槍を持つ右手に力が入る、それに対して老人は「まだまだこれからが本番です」と右手を彼の方にかざす、するとまたしても例の化け物たちが姿を現したのだ。
その時、ハルトはあることに気が付く、化け物はなぜか影から現れるということに。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「では、私はそろそろお時間が来ましたのでこれにて失礼いたします。あとのことはこのヘルハウンドにお任せしましょう。ああ、ちなみに申し遅れましたが私の名はフレイスと申します。以後、お見知りおきを……ではまたお迎えにあがりますので、どうかご健勝で――」
ハルトの「待て!」と言う言葉も聞かず、老人、フレイスは闇夜の中へと姿を消した。
そんな出来事があった街中は今もなお混乱していた、犬……ヘルハウンドと呼ばれる化け物が南総市、見川台を中心に暴れまわっていた、しかし最初の警報から早くも二時間ほど経過した今となっては既に全体の八十パーセント程が自治体の猟友会を中心とした組織によってほぼ駆逐された。
ヘルハウンド単体に関してはそこまでの強靭さもなく、異常に長い口に生えた鋭い二本の牙と犬以上のスピードをだす強靭な足を除いては普通の犬と変わりはない。
しかし、このような事態も恐らく例の老人、フレイスの想定範囲内だと思うと腹立たしく思えてくる。お迎えとか婚姻とかわけのわからないことをいろいろ言っていたが、目的はなんであれ阻止しなければならないのは明白だ。
あれからハルトは嘉苗の手を取り、街中まで移動していた。さすがは中心部なだけあり、ビルが立ち並ぶも周囲は人一人いない状況……さきほどの警報で市民は皆、厳重な警護の元で避難しているらしい、ビルに備え付けられた巨大スクリーンで市内放送がなされていることである程度の情報が入手できた、しかしやはりこのヘルハウンドがどこからどうやってここに来たのかは、やはり不明だった。最初に出会ったときも必ず影から現れたこと……となれば必然的に影が発生のカギとなることが推測される。
さて、ここまで逃げ切ったもののやはり彼は明らかに体力を消耗していた。その証拠に肩で息をしている。嘉苗は「大丈夫?」とソッと背中を擦って労わり、出血している肩に自らのブラウスの袖部分を破ると包帯代わりに巻き付けて止血する。
少なからずこのビルの間でひと休憩して、息を整えようとしていた時だった。彼の背後……それも嘉苗のすぐ後ろでヘルハウンドが現れたのだ。
「きゃああああああ!」
彼女は咄嗟に後ろにのけ反るも背後はビルの壁、気が動転すると同時に頭を打ち付けて失神した。ハルトは手に持った槍を跳びかかるヘルハウンドの腹部に突き刺すと「ギャンッ」と鳴き絶命した。ここももうそんなに長くはいられないと判断するも体が思うように動かない。しかし、ここで立ち止まってはいられないのも確かだ。なんとか彼女を連れて遠くへ行かなければ……
完全に日が落ち、深い闇が訪れる中で彼は隣で意識を失った嘉苗に気を遣いながらも、周囲の警戒に余念がない。同じ学校の生徒は大丈夫なのだろうか、家族やペットは大丈夫なのか、そういった安否も心配したいところだが今の彼にはそこまでの余裕はない。
そんな折、道路側でなにか人の気配がした。もしかするとヘルハウンドの駆除が終わったのかと思いこんだハルトは咄嗟に外に出た、これが彼の判断ミスだった。実際に道路に出たハルト。しかし、そこにはなにもなく、ただ空き缶が転がっているだけにすぎなかった。
「少し疲れているみたいだな」と独り言を言いながら戻ると、嘉苗の姿がないことに気づき彼の額から一筋の汗が顎へと流れ落ちる、まさかヘルハウンドが?とも考えるが道路にでて数分、可能性としては低い。なぜならいくらヤツらが攻撃的且つ俊敏とはいえ、相手の背丈がある分、運ぶとなると動きが鈍くなるのは当然の理である。確率的には少ない……では誰が?
ハルトは自分のいた位置から嘉苗をさらったルートについて考察をはじめる。位置的には道路に出た可能性は0に近い、そうすると路地裏の奥へ移動したと考えた方が無難であろう。となればあとはなんの為に……
彼の心の中で一抹の不安を抱いた。
そして場所は変わり、南総市、中心部より十数メートルほど離れたビル最上階、屋上。
ここは市内を一望でき、平常通りであればちょっとした夜景スポットとしても若いカップルなどに人気がでそうな場所でもあるが、現在は遠くに見える灯りが見えるだけでビル周辺は今も電気が消えている。例の騒ぎがあったからだろう。
しかし、そんなビルの屋上では明々とライトが照らす中で複数の声が聞こえた。
連れ去られた嘉苗とハルトたちのクラスメイトで過剰なほどの嫉妬の念を燃やす影山とその取り巻き連中の声だ。しかし彼女は気を失ったまま、その姿を見て不敵な笑みを浮かべる仲間たち。
影山は仲間になにやら指示をすると屋上入口、ビル裏口、非常階段、エレベータなど数ヶ所に見張りを配置、それも混乱時に乗じての行動だった。すべては彼女、仁科嘉苗を手に入れるために。
「誰にも邪魔を入らせるな、いいな?」
彼は携帯電話で見張らせている仲間たちに連絡をしているようだ。この入念さは普段の影山であれば考えにくい行動だった。毎日あれだけハルトに勝負を挑んではクラスの前で恥をかかされ、幾度となく彼との才能の差を見せつけられ、そしてそんな彼に熱い眼差しをむける彼女を欲するも拒否をされる、彼のプライドはズタズタにされて尚、この精神状態を維持できる源はいったい――
影山はふと傍で気を失っている嘉苗の頬に手を伸ばし、「綺麗だ……」と小さく吐露する。ライトに照らされたその空間は、舞台のように煌びやかであった。まるで彼が主人公で彼女がヒロインであるかのような錯覚に陥る。しかし、そんな彼は主人公のような希望や勇気などといったテーマには程遠い、狂気に満ちたものだった――
「こ、これで嘉苗は俺のもの……誰にも邪魔させない……、陣ヶ崎にもこれで勝てる……そうだ、そもそもアイツさえいなければ彼女にこんなことしなくても良かったんだ」
影山は歪な愛情、歪んだ笑顔を彼女にむける、嘉苗の天真爛漫な性格はもとよりあの笑顔にやられる生徒は数知れず、天使のような彼女は学校内では高嶺の花ともいえる存在、決して汚すようなことはあってはならないというのが暗黙のルールだった。それを今まさに彼が破ろうというのだからその覚悟は相当なものであることが伺えた。
そして彼はそっと彼女の髪を撫でたその時だった。
「ふぅん……眠っている女の子に乱暴を働くなんて、酷いのね」
どこからか女の声が聞こえた。彼は肩をビクつかせて周囲を見渡す……が誰もいない。影山は腕に抱えた彼女をそっと寝かせると立ち上がる。
「誰だ! どこにいる!」
「ここよ、ここ」
彼は声をした方向に顔を振り向かせる、すると屋上内に張り巡らされたフェンスの柱の上に一人の女の子が吹き付ける風に髪を靡かせながら立っていた――
南総市中心部では突然現れたヘルハウンドの駆除がほぼ完了して平穏を取り戻しつつあった、それまで鳴りを潜めていた街も徐々に活気を取り戻しはじめたのかビルや家屋の電気がぽつぽつと点灯しはじめる。そして今なお事件の原因はわからないものの世間では「突然変異を起こした犬の奇怪行動」や「寄生された犬の暴走」など数多な噂が広がっていた。
そんな中でハルトは未だに警戒態勢が未解除で尚且つ多数の警察や猟友会、さらには災害支援にきていた自衛隊などの厳重な警備をかい潜り、少女を探していた。
行き交う人々にもなにか情報がないか聞いてみたが、まったくの手掛かりがない状態でお手上げ状態であった。それもそうだろう、先ほどまでは人がいない空白の街だったのだから逆に知っている人がいたら驚きだ。
かといってこれ以上、しらみつぶしに探してもキリがないことはわかっていながらもやめるわけにもいかない。さてこれからどうしたものかと思っている時だった。
「お探し物はこれかしら、陣ヶ崎ハルト君」
背後から自分の名前を呼ぶ幼い声がした、ハルトは咄嗟に振り向くとそこには嘉苗を抱きかかえた一人の少女の姿があった。背丈はハルトの肩よりも少し低いくらい……推定153センチほどだろうか、腰下まで伸びた長い美麗な金髪にガーネットのように透きとおった紅い瞳。肌は白く、露出度が多めの黒いドレスが肌の色をさらに際立たせている。どこをどう見ても美少女であった。
ハルトは思わずその姿に見惚れてしまうものの、ふと我に返りそれだと伝えると紅い瞳の少女はそっと彼女を地面に降ろす。
「君は? なぜ俺の名前を知っている?」
「……覚えてないかしら?」
質問を質問で返され困惑するハルト、彼女の口ぶりからしてどこかで会ったことはあるらしいものの、まったく思い出せない。わかるのはつい最近の出会いではないこと、そうなると随分と前――しかも幼少期にまで遡ることになる。
彼がなんとか思い出そうと頭を抱えている隙に少女はゆっくりと近づき、ハルトの顔を覗き込むと「大丈夫?」と声をかける。
「う、うわっ! ビックリした……あ、ああ……でも何も思い出せない、すまない。でも嘉苗はいったいどこで?」
「数人の男たちに囲まれていたから、たまたま助けただけよ……それよりも肩の傷が深そうだけど大丈夫? 少しだけ待っててくださいね」
ハルトの肩に巻かれた布には血液が染み込んで赤く染まっているのを見て心配そうな表情をする少女は彼の肩にそっと息を吹きかける。すると不思議なことに出血自体は止まっていたものの、ズキズキとした傷の痛みが徐々に消えていくのがわかった。
「なんだこれは……傷が消えていく、どういうことなんだ? 君はいったい何者で――」
「……約束しましたから」
少女は儚げに笑みを浮かべた、彼女の言う約束とはいったいなんなのだろうか。彼がその約束を思い出すのにはまだまだ時間がかかりそうである――