プロローグ
完全に日が落ち、暗闇が訪れようとしている街中の一角でビルの壁に背をついて座り込む、隣には一人の少女が気を失い、そしてまた陣ヶ崎ハルトも右肩に負傷を負いながらも周囲をしきりに警戒していた。
ハルトは現在、犬とはいってもそこらへんにいるような犬ではなく異形な容姿をした犬型のモンスターに追われていた。帰宅途中に起こったこの出来事は今に始まったことではないが、まさか自分たちがとは思わなかった。
襲われた当初は彼女を守ろうと手に取っていた槍を振るい応戦するも、やはり人間……数の暴力には到底敵わず、怯んだ隙に右肩を負傷してしまった。
よくあるライトノベルやアニメとは違う、リアルな感覚……なぜこうなったのかの経緯を説明しよう――
五月十一日、火曜日。一週間はまだ始まったばかりだというのにクラスメイトのみならずすれ違う生徒達はやたらと気だるげだった。
そしてそれは陣ヶ崎ハルトにとっても同じで大きな欠伸をしながら目を擦り、手には長さは一メートルほどあろう棒状のものをさぞ重たそうに持っていた。
昇降口を通過し渡り廊下を渡りそして自分の教室の前までフラフラとくると、扉をガラガラッと開ける。
彼が扉から顔を見せるとそれまで賑わっていた教室が一瞬にして静まり返る、真面目そうな男子生徒は咄嗟に教科書で顔を隠し、クラスのカースト上位を独占する派手な生徒までもヒソヒソと内輪で話をするその光景には入学した時に比べれば慣れたものであった。
しかし、そんなことにはまったく興味も示さずに自分の席にその長い棒状の物を机の横にたて掛け、背負っていた鞄を置くなり、机に突っ伏すハルトに一人の男子生徒が仁王立ちで立ちはだかった。
「おいおい、なんだよ。ハルトは昨日も夜更かしか?」
「あー……なんだ、孝輔か……そうだよ」
毎朝ハルトが登校する度に絡んでくるこの男子生徒は立花孝輔といって彼の数少ない友人の一人。孝輔自身も不良と思われているが、ハルト自身も学園内きっての不良と思われている。
もっとも、ハルトや孝輔は不良のレッテルを貼られているものの特別なにか悪さをしているわけでもないし、授業も寝ていてもサボったこともなかった。
ただ、教師も他の生徒も見た目だけで判断しているに過ぎない、彼の若干長い髪は寝癖もなく多少はワックスで髪型をセットしている程度で染めてもいないし、制服に関してもシャツのボタンを二つほど開けているだけにすぎない、その程度で不良扱いされるのであればかなり不当だ……まぁ、一番の原因はこの目つきの悪さなのだろうけれど。
そんなハルトと孝輔は入学当初からの付き合いだが、まだまだ知り合って間がない間柄。普通は親友と言える間柄になるにはそれなりの時間も要するのだが、この二人にはそこまでの時間は必要もなかったようだ。
そして、そんな不良の二人に絡んでくるもう一人の生徒がもうすぐやってくる。
「また今日も随分と眠たそうね、ハルト」
呆れた口調でハルトと孝輔の間に割って入ってくる女子生徒、学校中の生徒が敬遠したがる厄介者程度にしか思われていないハルト達だが、不思議と彼女だけは特別であった。
出席番号二十一番、仁科嘉苗。学園内でも唯一の美貌の持ち主らしく、首元でカットされた鮮やかな赤いショートヘアは彼女にとても似合っており、顔に関しても勝気な瞳にスッと通った鼻梁、キュッと引き締まった桜色の唇がとても印象的だ。
普段から学園中の生徒に気さくに話しかけてはキュートな笑顔を振りまくのみならず天真爛漫な性格がさらにその心を鷲掴みにする。
そんな男女問わず人気の高く、さらに高嶺の花でもある嘉苗がなぜ不良で名を馳せるハルトや孝輔の二人と仲良くできるのかが学校すべての生徒からすればとても謎であった。
そんな彼女がいくら彼らに注意をしたところで今更ハルトや孝輔の二人の学生生活になんら改善がされないというのは嘉苗本人も理解していることと思う、なんせ彼らの座右の銘は「なるようになる。心配はするな」であることからして二人ともこの学生生活の改善をするつもりもないし強制されるいわれもない、その態度に不満を持つ生徒も中にはいるのだろうし彼女の献身的なまでのお節介が全て無に帰すということも皆はわかっていながら口にも出せないでいる。
「あぁ、仁科か……またお節介でもやきにきたのか?」
眉をひそめ不愛想に口を開くハルトに嘉苗は若干、口の端を引きつらせたようにも感じられたが気のせいだろうか。
そんな彼女を見るや孝輔はまぁまぁと言いながら二人の間を取り持とうするも、当の彼は机に突っ伏したまま微動だにしない。この行動に嘉苗を含め、その周囲にいる生徒たちも疑問を抱くしかなく、その中にはアイツの姿もあった。
影山公直、このクラスのカースト上位に位置する生徒で嘉苗のことをいつか彼女にしてやろうと虎視眈々と狙っている奴だ、彼はそれこそハルトに対して異常なほどの対抗心を燃やしているものの何一つとて彼に勝ったことはないという。
過去に一度、彼に喧嘩をふっかけて暴行事件にまでなったものの、現実にはハルト自身の一方的な勝利で終わっている。
それからだろうか、彼の執着心に火をつけてしまったのは……
そんな彼の痛いほどの視線がわかっていながらも敢えて相手にしないのもまたハルトのやり方なのだろう、そもそもハルト自身は揉め事を嫌うタイプだが筋の通らないことはこの上なく嫌う普段の彼からは到底想像もできない実直さがあった。
「あのねぇ……、そんなことやってたらいつか留年するわよ」
「かなちゃん、そこまでで……」
「いいえ! もう我慢できないわ、この際だから言わせてもらいますけどねぇ――」
止める孝輔を物ともせずに言いたいことを言い始める彼女にウザさを感じつつも無視を決め込んでいたものの、あまりにも騒ぎ立てる彼女に流石のハルトも我慢できずに勢いよく立ち上がると「どこにいくの?」とさらに嘉苗が問い詰める、彼は「あぁ、トイレ……」とだけ伝えると教室から出ようとするもタイミングが悪かったらしく、同じように扉を開け教室内に入ろうとする担任の桐生華絵教諭とものの見事に鉢合わせになってしまう。
パチクリとお互いに瞬きをする二人……とても気まずい空気になる、そんなハルトの後ろでは孝輔と嘉苗は「あちゃー」とばかりに額に手を当てていた。
そしてこの額に血管を浮き出たせている桐生華絵教諭はハルトのクラス担任で今年に入ったばかりの新人教師である。普段は勤勉で真面目な先生だがどこか天然が入っているという可愛らしさも持ち合わている。しかしながらその反面、一旦怒らせると物凄く怖いことでも有名だ、ここに生き証人がいることがなによりもの証拠、そしてスリーサイズは――っとここまでにしておかないと後が怖いのでやめておくとしましょう。
さて、そんな桐生教諭は「不良君?」とニッコリと怖いほどの笑みを浮かべると流石のハルトとはいえ踵を返すなり席に戻るほかなく、ふと嘉苗の方に視線を向けると小さく舌を出しているのが視界に入ると「……はぁ」と小さくため息を吐いた。
これが不良と言われる扱いなのかと、つくづく実感させられたハルトであった。
さて、そんな桐生教諭の「じゃあ、ホームルーム始めます」の声と共に、出席確認と日直による今日の学級委員の報告等が行われると、彼は早々に自分の席の隣にある窓から覗く青空を眺めていた。
(……今日は晴天、雲一つ無し……か)
心の中でそんなことを思いながら今日一日をどうやって過ごすかを考えていた。
「では、今日のホームルームはこれで終わるけれど、一時限目は体育だから皆は素早く着替えてグラウンドに集まってくださいね」
ボケーっとしている間に退屈なだけのホームルームが終わったようだ、桐生教諭は退出し残されたのは生徒のみになった、しかしながら今日は一時限目から体育とはツイていない、そもそもなぜに朝っぱらから運動をしなくてはならないのだろうか。
「ハルト、一時限目から体育なんだから早く着替えなさいよね。私たちは女子更衣室で着替えるから見張ってあげれないけど、グラウンド……ちゃんと来なさいよ」
嘉苗が注意を促すように大声で彼に言うが、彼にとっては頼んだ覚えもない。そもそもなぜに彼女に見張られなくてはならないのか、それなら孝輔も同じだろうに……っと不満を感じるも声には出さずにシッシっと言わんばかりに手の甲をヒラヒラとさせた。
ハルトはやむなく席を立つと、青を基調とした白のラインの入ったジャージに着替え、地獄ともいえるグラウンドでランニングやら腕立て伏せやらなんの意味があるのかわからない授業を受けることにした。
元々、ハルトの家……陣ヶ崎家は室町から続く由緒ある家系でさらには陣ヶ崎流槍術と呼ばれる槍術を生業とする武家の出であった、槍術としては有名なのは宝蔵院流がそうなのと一緒であるものの、宝蔵院流とはまた少し派生が異なるらしい。
だからどうのという話ではないのだろうけれど、やはりハルト自身も少なからず陣ヶ崎流の次期当主としての技量とセンスがあり、才能溢れる青年でもあった。
ではなぜ、このような学園にて不良とまで言われ、無気力なのか。
「おーい、次はハルトの番だぞー」
遠くから孝輔の声が聞こえると彼もまた気だるげに手を挙げてそれに応える、ハルトは先ほどでも説明した通り、家柄の関係上で運動神経だけは抜群に他の生徒を圧倒していた。
「はぁ……面倒だな。なぜ一時限目で体力を消耗しなきゃならないんだろう……まぁ、内申にも響くっていうし、とりあえずやるけどさ」
軽く屈伸をして準備運動をする、そしてスタートラインに立つと、周囲がやたらと静かになる、隣には例の影山の姿もあった。
「お前には負けないからな」
変な闘争心を抱く影山をよそに彼自身は「ふん」と興味なさそうに鼻で笑う、その行為が影山の感情をさらに逆なでした。
スタートラインの脇に立っている生徒が「よーい」と言いながら片手をあげる。
(いつもバカにしやがって、ムカつくぜ)
心の中ではハルト憎しで恨みをさらに増長させていた影山が頭の中で小細工を考える、立ち位置は彼の真横、少し足を引っかけるくらいすれば奴は転んで赤っ恥をかくと考えたのだ。
振り上げられた手はすぐに振り下ろされると同時に影山の右足はハルトの左足を引っ掛けようとする、しかし影山の企みは早々に破れることになった。
彼……ハルトはその子供のようなイタズラを先読みして腕に力を込めて逆立ちすると他の生徒たちからは出遅れたもののそのまま前方倒立回転をする。
周囲は「おお」と自然に驚きの声が上がるが、ハルトには聞こえない……というよりも彼が無関心なだけでもあるけれど、ハルトはそのまま着地すると同時に走りはじめ、一人、また一人と走者を追い越すと一気にトップに躍り出るとゴールを突っ切った。
そして影山はまさかのビリときたもので、赤っ恥をかかせるどころか自らがそれをかくことになった。無論、彼は歯を食いしばって怒り狂っていたことに違いないだろう。
そんなこんなで一時限目は終わり、二時限目の現国から四時限目の数学まで順調に進められた。
そして気づけば昼食休憩の予鈴がなる。
購買組は我先にと教室を出て購買部へと向かい熾烈な戦場へと赴き、弁当組は仲の良い友達同士で机を向かい合わせにしながら食事をとっている。
当然ながらハルトも弁当組だ。
彼も鞄から弁当を取り出すと、孝輔も彼の机の前に座って食事をとろうとしていた……ところがまたもや彼女がそれを邪魔するようにハルトと孝輔の間に割って入り、自然と弁当を包んでいたハンカチを広げようとするも彼に手を押さえつけられた。
「……なにをするんだ、仁科」
嘉苗は「なにをってなにを?」と言いながら力づくでもハンカチを広げようとする、しかも本当に女子なのかどうか疑わしいほどの力を出していた。
それでも尚、ハルトの抵抗は続く。
「あ、あー……んん、ハルト君誘ってくれてありがとうね。孝輔君も悪いわね、誘ってもらっちゃって」
どうしても一緒に食べたいのか、そういう体でいくつもりらしい。彼の必死な抵抗は効もなく、あっけなく敗北する。
彼女は決して悪気があってやっているつもりもないのだろうが、嘉苗は孤立している生徒は見逃せないという正義感からくるものなのか彼には彼女の考えが理解し難かった。
「わぁー、ハルト……アンタのお弁当って誰作ったの? お母さん? とても素敵なお弁当じゃない、配色がとても綺麗」
(いったいなんなんだ、この人は……)
ハルトは首をうな垂れながら頭を抱えた、ここまでグイグイと人のテリトリーの中に土足で踏み込もうとする嘉苗のようなタイプが一番苦手なのだ。
「おーい、仁科ぁ! こっちで一緒に飯食おうぜー、そんな奴ほっといてさぁ。だいたいそんな不良と一緒に飯食うことないって! 飯不味くなるだけだからさぁ」
思いもよらない助け舟が出たかと思えば影山だった、奴自身にはあまり関わりたくなかったがこういう使い道もあるのかと少し勉強になる。
「は? 嫌よ、私はハルトとご飯を食べたいって言ってるんだから横から話しかけないでもらえるかな?」
キッパリと断る嘉苗、空気を読めよと言いたいところだがそれもまた彼女の個性なのだろう。
深いため息を吐きながらも「勘弁してくれ」と小さく吐露した。
当の影山はというと……非常に悔しい表情をしており、ハルトに憎悪の念を向けている。それはもう、その視線で人をも殺しかねないほどの鋭い目つきである、彼よりも影山の方が不良という称号が似合うのではないだろうかと思えるほどだ。
周囲の連れになだめられながらも席に着く影山は、一度のみならず本日は二度も恥をかかされたのだろうからさぞ心中穏やかではなかったことであろう。
――それから三時間が経過。
無事に学業を終えた生徒たちは部活に行く者やそのまま帰宅する者とそれぞれが支度をはじめるために教室内は慌ただしくなる、その中には当然ハルトや孝輔の姿もあるわけで。
孝輔はこれからバイトらしく、そそくさと一人で帰っていくと残されたハルトは一人、昇降口にて靴を履き替えると校門に向かって歩き始めると、なぜか一歩遅れてもう一つの足音とともに人の気配がする。
ふと振り向くとそこには嘉苗の姿があった、彼女はいつもの笑顔で手を振りながら彼の隣に並ぶと歩調を合わせる、その光景は端から見れば勘違いものである。
彼らは無言のまま校門を抜けると同時に遠くからサイレンが鳴り響いた――