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作者: 守徳

 深夜、山間の鄙びた温泉宿から川床にある露天風呂へ入ろうと古めかしい石油ランプひとつで坂道を降りていった。

 いまどきこんなランプがあること自体がめずらしい。めずらしいというよりほとんどありえないだろう。

滑らないように気をつけながら露天風呂にたどりつくとさっそく湯船に入った。そこで、ぼくは星いっぱいの夜空を見あげながらお湯に浸かっているとランプの光があたりをボーっと照らしているだけで、周りは闇が取り巻いている。源泉の流れ出す音だけがしていた。

 その時何かが、お湯の中をかけ抜けていった。あれ、野ネズミかと思っていると、あとからもう少し大きな小動物が追いかけていった。山に向かって登っていくようだ。イタチか? 

──さすが、秘境の温泉だけのことはある。なんでも飛び出してくる

と妙に感心していたらグラッときた。

 あっ、地震とおもったら、お湯が波打ちはじめた。湯船を飛び出して近くの大きな岩にしがみついた。一歩も動くことが出来ない。

──かなり強いぞ

 その時、「キャー」という悲鳴が岩向こうの湯船から聞こえた。

──あっ、女が入っている。

 と気づいた。

──一人じゃなかったんだ。

 声がするが早いか、女も湯船から飛び出してきた。

「危ない! まだ揺れているからじっとしたほうがいい」

 ぼくは咄嗟にさけんだ。

 その女は、その場にうずくまってしまった。女は異変を感じて飛び出してきた小動物のように見えた。

 二分間ほど揺れていただろうか。周りの木々がまださわいでいる。かなり大きなゆれだった。お湯はあふれ出して川にそそぎ落ちる。またどこかで亀裂でも生じたのかお湯の流れ出している音がする。

 早春でよかった。真冬ならたまったものじゃないとぼくは思った。

「こっちを見ないで」

 と女が叫んだ。

「見るなよ!」

 と続けて言った。

 月明かりはあるとはいえはっきりとは見えない状態に近かった。ぼくは女の語気の強さと可愛げのない言葉使いに圧倒され、引いてしまった。

「見ようたって暗くて見えやしないさ」

 ぼくは女に向かってさけんだ。それよりも持って入ったタオルが岩間に落ちこんだのか見つからない。あわてて手のひらで股間を押さえた。

 やばかった。

 揺れがおさまったものの、浴衣と丹前を掛けておいた脱衣場の小屋は倒壊しており、下着を取り出すことも出来なかった。それに持参した石油ランプを柱にかけておいたのが、どこかに落ちたのか見あたらない。

 この温泉宿は電気が通じていなくて、夜は石油ランプにたよるしかないというのが売り文句で、その素朴さに引かれて、時折ものずきな温泉客たちがやってくる。ぼくもそんなものずきな客の一人なのだが、この温泉宿にはきまって毎年のように訪れていた。

「ランプもなくしましたか?」

 ぼくは女にむかって声をかけた。

 すでに女は立ち上がって、大きな岩の裏にかくれるように潜んでいた。

「どこにも見あたらないわ」

 やっと女からまともな返事がもどってきた。

「ともかく崖を登って宿へもどりましょう。早く戻らないと凍えますよ」

「浴衣もタオルもないの」

 と困惑した女の声がした。

「ぼくも同じです。なにもありません」

 どうしていいのか検討もつかなかった。

「このままじゃ出られないわ。先に行って」

 そう続けていったあとで、いや怖いからいっしょにいくという。

「どっちなんですか」

 ぼくは苛立っていた。

 ぼくはともかくもここに居ては危ないという気がして宿に帰ることだけを考えていた。

 ぼくだって、全くの素っ裸だったからどうしたらいいんだと慌てていたのだ。男一人なら崖を上がっていくことなどどうってことはないが、女の子がそばに居るとなるとさすがに躊躇した。

「地震で川がせき止められて増水でもしてきたら危ないので、とりあえず上にあがりましょう。ここにいては危険だ」

 ぼくは説得するように話した。

 そうすると岩のむこうから、気弱になったのか、ひとりにしないでという。

また、「眼をつぶって」という。

「あたりは暗いし、おぼろげにしか見えないからだいじょうぶですよ」

ぼくはそう伝えた。

「それでも、眼を手の平で隠して、下だけを見るようにして」

 女はそう言った。

「わかったよ」

 彼女の提案に賛成し、ぼくは眼を手で覆って、下だけを見るようにして、女に近づいていった。体が徐々に冷えてくる。

 夕方、この宿に着いたとき、黒塗りのベンツが宿の前に止まっていた。おそらくこの車の客に違いないとぼくは思う。きょうの客はおそらく、泊まっていた車の台数をみるかぎり僕を含めて二組だろうから、まちがいないだろう。

 しかし、この露天風呂へ下りてきたときには誰もいなかったから、おそらくぼくが入った後でやってきたものと思えた。しかし、大胆だと思う。それとも誰も居ないと思って下りてきて、そこで男性が入っていると気づいたが、面倒になって入ってしまったのだろうか。いろいろと詮索してみたが、ともかくぼくは灯りが宿から降りてくるのに気づかなかったので、どのようにして来たんだろうという疑問は残った。

「じゃ、眼を押さえてそちらに行きますから、お互いを見ないようにあなたも目を片手で押さえて出てきてください。ゆっくりと登っていきましょう」

 ぼくはそう声をかけて岩向こうへ回った。右手で眼をおさえて、左手で探るように女の手を探した。しなやかな指先がふれた。

「じゃ、宿に戻りますよ」

もと来たと思える道の方向にむかって、手をとりあって一歩ずつ歩き始めた。ごつごつした岩場がすぎて、自然石でつくった階段をあがって、地道の坂になる。本当は手さぐりで行きたいが、片手は眼をふさいでいるし、もう一方は女の手をひいているので足でさぐりながらとなった。

 地道に入ったところで、ふらついていた女が足をズルッと滑らせた。

「危ない」

 ぼくは、眼を押さえていた右手であわてて体を抱きしめた。

「さわらないでよ。いやらしいわね」

 と言われた。

「さわりませんよ」

ぼくは、そう言って手を放したが、そこで女の裸を身近に見てしまった。細身のわりにはしっかりした胸をしていた。しかたなく左手一本で引きあげた。左腕が痛かった。その時、なまなましい重さにリアルな女を感じた。

 ギリシャの彫像のような裸体の男女が手を取りあっての道行きとなった。それも眼を手でかくしてよろよろと登っていく姿はなんともおかしかった。まるで、アダムとイブの楽園からの追放のように手を取り合って歩く姿は映画でもみるように演出かかっていた。

 そこここに雪ののこる坂を裸足でゆっくりのぼっていった。体がブルッと震えた。凍える足は小石を踏んでも感じないぐらいしびれてきた。女は寒さでふるえているみたいだ。

「急ぎましょう」

 ぼくは取ってつけたような言葉を発して先を急いだ。自分でも自然じゃない、かなり芝居がかっていると感じながら。

 やっと宿に近づいた。

「誰か居ませんか」

と大声で叫んだ。

 すると宿の奥さんの声がした。

「大丈夫、生きていた? 浴衣を投げるから、それを使って」

宿の奥さんが新しい浴衣を投げてくれた。宿は倒壊もせず、無事だったみたいだ。


 何とか布団を敷いて眠れたものの、余震に怯えての一夜をあかした。

 朝食のため食堂を兼ねた囲炉裏端へ行ってみると、昨日の女がスキンヘッドの男と無言で食事をしていた。

 男は腹の出た中年男性で女はカジュアルシャツにジーンズ、髪にヘアーバンドをしていた。化粧は濃かった。

 女はちらりとこちらを見たが、何も言わない。

 ぼくは、これはやばい女かもしれないと直感して、出来るだけ遠くに座った。やはり泊り客は二組だけだったのだろう。

 女は昨夜、露天風呂で見たよりずっと若くて可愛く思えた。でも、この親父が黒塗りのベンツの客かと思うと、やくざとその愛人という様にしかみえなかった。お忍び旅行か何かなのだろうか?

 食事が終わって、部屋へ戻ろうとしていたときに女が近づいてきた。

 そして女はすれ違いざまに、小さな声で言った。

「あなた、私を触ったでしょう。高くつくわよ」

 そう、脅してきた。

 ──なにが高くつくわよだ、こちらがお金をほしいくらいだ。

そう思ったが、怖そうな親父の顔がちらついた。

 ぼくは困惑気味に言葉を漏らした。

「そんなこと言われても……」

と口を濁すことがやっとだった。

 女はあざ笑うかのように去っていった。

 屈辱だけが残った。

 ぼくはふたりが部屋へ引き上げていったあと、同じようには戻ることは辞めて、宿の主人と世間話を始めた。

何度も訪れているのでなじみとなっていて、また、ここの主人との会話も毎年のたのしみのひとつになっていた。

「タケシちゃん、きのう地震のとき下の風呂で女のお客といっしょだったんだって」

 そう言って、さも嬉しそうにひやかしてきた。

「びっくりしましたよ。一人で入っているものとばかりおもっていたら、急に湯船から飛び出してきたんだもの」

 ぼくはそういいながら、二人連れの客についての情報も探ろうとした。

 主人が言った。

「あのふたりも時々やってくるかね。タケシ君ははじめて?」

 ぼくはすかさず質問した。

「どういった関係のひとなんですか?」

「さ、わからないなあ、思い出したようにやってくるから」

 そう言って主人も本当によく知らないのか、個人情報だから隠しているのかわからなかった。

 ぼくは思い切って、さきほどすれ違いざまに女にささやかれたことを主人に問うてみた。

「ハハハ、そうか、サキちゃんはいたずらがすきだから、そんなこと言うかもしれないな。でも、おそらく冗談だとおもうよ」

 主人は笑いながら言った。

──ほれ、「サキ」って名前を出した。主人はよく知っているんじゃないか、なぜ遠まわしに言うんだろう。隠す必要があるのか。ほかに何か別の理由でもあるのか

 ぼくは、そう勘ぐった。

 きっと、からかわれたんだと言う。

「それより、キミに好意をもったんじゃないかな。そうでなければそんなこと言わないよ。あの子は」

 主人はそう言った。

 ぼくは、街ではシナリオを書いたり、芝居の演出をしたりの仕事をしている。もちろん、それだけでは食っていけないので、他の仕事もしているがあくまで芝居が自分のメインだと思っている。

そこでは、人間観察は常に心がけているつもりだ。すこしばかり世間とずれた変わった子にもよく出会うが、助けてやったのに、脅して来るような子は知らない。初めて出会ったタイプだ。まして、自分は他人からかるく扱われる様な人間じゃないと自信を持っていた。

「別にいいんじゃない。どんなことでも出会いなんだから。裸で出会ったなんて、考えようによっては最高だよ。その出会いを大切にしなきゃ。タケシ君はあまり自分から積極的に行く方じゃないから。いい機会じゃない。なんでもいいから出会いをとらえないと本当の恋愛は出来ないんじゃないかなあ」

 宿の主人にそう諭された。

 本人としては、特に臆病でも人と接することを嫌っているわけではなく、コミュニケーション障害を持っているわけではないけれど、たしかに一人で居る方が好きなことはまちがいがない。それだからこそ、ひとりでツーリングをたのしんで、秘境の温泉場まで出かけてくるわけだ。一人旅で宿にやってくるというのは、やはり孤独がすきと思われているのだろうか。

 それを見抜いて諭すこの宿の主人も、奥さんと二人で山の中に暮らしているところをみると、この人も都会から逃げ出してきたに違いない。人と関わることの辛さをかみしめて移り住んだのではないかと思う。

 そこへまだ整理のつかない宿の仕事の手を休めて、奥さんも加わった。そして、珈琲を飲みながら、囲炉裏をはさんでの会話になった。

「きのう、全裸で二人が手をつないで上がってきたときはびっくりしたわ。何度も上からだいじょうぶと叫んだけれど分からなかった?」

 その奥さんは珈琲カップを囲炉裏端に置きながら話しかけてきた。

「ぜんぜん聞こえなかったです。どうしていいのかわからないので、とりあえず、上にあがりましょうと誘ってみたんですよ」

 ぼくはそう返答をした。

「そうなの、寒かったでしょう」と奥さんは受けて続けた。

「上では地震のあとが大変で物はあちこちに散乱して足の踏み場もないし、ランプは激しく揺れて消えてしまう。それでお客さまはというと二人が露天風呂だという。何度も叫んだのよ」

 二人が上がってきたときにはその格好はともかく、無事だったのでホッとしたとのことだった。

 それからも、ああしたこうしたとの談義が続いてから、意外なことに奥さんが自分たちの馴れそめを話し始めた。

「実は私たちも下の露天風呂で知り合ったのよ。私たちはあなたがたの反対で、さきに私がはいっているところへこの人が入ってきたの」

 そういって主人の方向を向いた。主人はあたまを掻いて言いわけした。

「もういいだろう。昔のことなんだから。君が先に入っていることを知らなかったんだから」

 奥さんの方を向いて言いわけしている姿には何かわけがあるというように思った。

 それは奥さんの説明で直ぐに解けた。

「私たちの場合は夜じゃなくて昼間だったんだけれどね。この温泉、男女入口は別だけど、中に入ればひとつでしょう、本当にこまったわ。当然、地震なんてなかったからただ知り合っただけよ。このひと、私をみつけるなりこそこそと逃げ出していくのよ。本当は覗きに来たんじゃない。それがどういうわけか結婚してしまうなんて不思議でしょう」

 そう言ってぼくにもうながすような素振だった。奥さんの説明によると、やっぱり御主人は街でくらすより山の中の方が好きみたいで、結婚してからもよくこの温泉に通ってきたようだ。そんなときに先代の主人が高齢を理由に廃業すると聞いて譲り受けたらしい。 

 どうも、地元の人ではないとおもっていたらやっぱり街からの移住組だったのだ。

 奥さんが得意げに言った。

「だから、この温泉は縁結びの温泉といってもいいのよ。過去にも何組もの出会いがあって一緒になっているひとも多くいるのよ」

 奥さんの自慢話はそれからも続いたがそういえば、客は男女の二人連れが多い。親しそうに主人夫婦と話込んでいる。また、一般の温泉地のような団体さんは見かけないし家族連れも見かけない。ほかに見かけるのは登山から下りてきた山男ぐらいだろう。

「こんな山の中じゃ、子供さんの教育は大変だし寂しいでしょう」

 そう、ぼくが話をふったら、すかさず奥さんが説明してくれた。

「いえ、そんなことはないのよ。いつもは主人一人だし、私は週に一回ぐらいしか登ってこないし、子供は学校があるので私はほとんど街にいるから寂しくはないわ。この人はここの方がすきみただから、これでいいじゃない。真冬は雪で閉めているし、営業期間は十ヶ月ぐらいだけだから」

 ぼくは雪がなくなったときにしか来ないから、そういうことになっていたのかと知った。ということは田舎への移住組みではなくて夏場だけの温泉ということだった。日頃は街で暮らして居て夏だけ開いている北アルプスにあるような山小屋と同じなんだと思った。

 この温泉は秘境にあるような温泉だけれども、細いけれど道で繋がっているので、車でやってくることが出来る。そう考えれば通いの温泉でもいいわけだ。

 全くの人嫌いで、こんな秘境に暮らしているのかと考えていたぼくはその考えが打ち砕かれて、秘境といえどもしっかり街と繋がっているのだということが分かった。ぼくの勝手な思い込みだったんだ。でも、こんな温泉の経営だけで暮らせるんだろうかと詮索もしてみた。

この秘境にある温泉も人間関係もすべてぼくの幻想の作り出したものに過ぎない。それがおもわぬ露天風呂で文字通り裸にされ、パニックになって揺らいだ。地震のように、思い込みをリセットされてしまったのだ。当然の天災はマンネリナ日常を覚醒へと導いてくれる。

 主人が話している。

「タケシ君には無理押しはしないけれど、きみも同じような人種らしいから、出会いは大切にしてね。サキちゃんは帰ってしまったけれどまた来年でも来てよ。出会うかもしれないから」

 そう主人は言っているけれど、ぼくには遠くで話しているように聞こえ、ほかの事を考えていた。

無理だよな。相手がやくざの愛人ではどう考えたって無理だ。先に帰ってくれてホッとしていたが、いちじはどうなるかと心配していたんだから。

ぼくは不幸に作られているのだと思った。


 昼過ぎになって、おもむろに宿をでた。宿はまだあちこちに物が散乱している状態だった。玄関の前の水槽からは鮎やヤマメが飛び出したままになっていた。

「じゃまた来ます。あとかたづけが大変でしょうが、先に失礼します」

 ぼくは笑顔で主人と奥さんにあいさつをした。

「これに懲りずにまたきてくださいね」

 奥さんがそう声をかけている。

 オートバイにまたがった時、黒のベンツはもう居なかった。おみやげに鮎の甘露煮までもらって、帰り道を下っていった。

 軽快に走らせていると、途中大きな道に出るすこし手前で黒ベンツが立ち往生していた。昨夜の地震で崖が崩れて、道が半分ふさがっているようだ。土砂が道をなめるように崩れ落ちていた。

 ぼくが後ろからやってきたのに気がついたのか、スキンヘッドの男が黒ベンツから降りてきた。ぼくはドキッとしたが、男がサングラスをはずして話しかけてきた。

「やあ、いいところへ来てくれた。助かったよ。キミのバイクならここを通れるだろう。ふもとの警察署まで行って、救助を頼んでもらえないかなあ。ケータイも繋がらないし困っていたんだ」

 スキンヘッドは予想に反して、丁寧なもの言いだった、

──これはひょっとしてやくざじゃないかもしれない

 そう、感じた。

 ものおじして、返答しかねているぼくに付け加えた。

「あっ、それに昨夜は露天風呂で娘が世話になったらしいね、礼をいうよ」

 男は、話した。

「えっ、本当のパパなの……」

 ぼくはつい口をすべらせてしまった。

「ナンだと思っていたの」

 助手席に座っていた女が笑いながら出てきた。

「まあ、こんな頭と体形だし、黒塗りベンツじゃねえ。やくざとその愛人と思うかもしれないけれど違うのよ。実の親子なんだから、フフフ」

 そう言っていたずらっぽく親父の方をみた。

 エロ親父は、(じゃなかった)、お父さんは苦笑いをうかべている。

 実の親子と分かった時点で、ぼくの緊張は緩み始め、この厳つい顔のおじさんへの恐怖心は急速に萎んでいった。

 また、このひとが、そういえばやさしそうで、よく見るといい人のように思えてきた。ほんと人間って勝手なものだと思う。すると、この娘じゃなかったサキちゃんも可愛く見えてきた。

「きのうは露天風呂に灯りが見えるので、すこし待ったらと言ったんだが、どうしても行くというもんだから」

 そう、お父さんは言った。

「どうして、灯りもなしに降りてこられたのかなあと思っていたんです」

 ぼくは正直な疑問を口にしていた。

「それは、キミがあの坂を上ろうとしていたときと同じだよ」

「どういうことですか」

「いや、地面だけを照らして降りていったということさ」

 ランプに覆いをつけて足元だけを照らすようにして降りていったということらしかった。何度もこの坂は上り下りしているので大体の方向はわかっているので、あとは地面の凹凸だけが心配だから、それさえわかれば可能なのだということだった。

 お父さんは言った。

「キミが先に風呂に入っているから辞めておけといったんだが聞かなくて」

 同じことくりかえしていた。

「だいじょうぶ、そっと入っていけば気づかれないというもんだから。それに明日は帰るのでどうしても、もう一度入っておきたいというんだよ」

 お父さんの説明は途切れ途切れにすすんでいた。たしかに、露天風呂は比較的大きな浴槽を持っていたし、中央は大きな岩が張り出してきて二つにくぎられるようなひょうたん様の形状をしている。それに回りはほとんど暗くて見えないし、ぼくも川とその対岸に顔を向けて湯に入っていたから、降りてくるのに気がつかなかったかもしれない。

「でも、キミに裸を見られたらどうしようとすごく気にしていたよ」

 お父さんがそういうとサキちゃんが割り込んできて言った。

「そりゃ、若い娘が全裸なんだからはずかしいでしょう。でもスリルがあったわ」

 こっちの方が恥ずかしいわいと思ったが口には出さなかった。

 でも、たしかに大胆だと思うけど、深夜の一人露天風呂は魅力的だ。けっこう乙なもので、抜けるような闇の空間を前後に感じて自分のいる周辺だけがボーと明るい。そして、天空だけに星が輝いている。そういう空間に裸で一人立つと、宇宙と直接ふれ合っているような感覚におそわれる。

ぼくが好きなのはこの感覚なのだ。それを感じるために毎年やってきているといってもいい。それをサキもおそらく知っているから、大胆にも深夜やってきたのだろうという想像はついた。そして、ここの主人も同じくそれを知っているのだ。

そしてこよなく愛している。

太古の自然に戻った人のように肌身に十分宇宙の気を吸収する。そして、一瞬宇宙とひとつになるような錯覚に陥る。そんな一瞬に出会えるのだ。深夜の露天風呂は。そこでは生も死も超えた存在になれる。

「あれだけ強い地震だったんですから、仕方がないでしょうね。ここではがけ崩れだけですんだんですけど、街や海岸では被害はもっと大きいかもしれません。これだけの地震だから当然、津波も予想されますから」

 ぼくが能天気に地震の話題へと振ろうとした。

「そうだな、きっとそうだよ。救援もすぐにこないかもしれない。じっと待つしか無いかもしれないな」

 父親も共感を示していた。

「ぼくも、直ぐに3・11のことを思い出したのですが、大きな地震でなければいいのですが」

「そうだな。大きな被害が出ていなければいいのだが」

 父親も心配していた。

 それにしても宿にもどればいいのに、なぜ無理して帰ろうとするのかが不思議だった。

「もうひとつ頼みがあるんだ」

 その時、父親がそういった。

「娘が早く帰らなければならない用事があるので、いっしょに連れて行ってもらえないかなあ」

 そういって娘の方を向いて、うなずきながら同意をもとめた。

 同じくサキも言った。

「どうしても帰らないといけないの。この地震でしょう」

 サキは哀願するようにおどけて手を合わせる姿をした。

 父親の話によるとサキはTV局でアナウンサーをしており、父親はすでに退職しているがその局のOBとのことだった。天災などで緊急事態のときは直ぐに社に戻らないといけないのだという。特に報道に属していたサキは早く戻らないといけないのだという。

「ええ、いいですよ。それじゃあ、急いで降りていきましょう」

 ぼくはそう気軽に返事をしていた。

「それじゃたのむよ。下ではどうなっているか知れないが、気をつけていってくれ」

 お父さんはそう言った。

 予備のヘルメットを差し出すと、OKが出たと受け取ったサキは言った。

「仕方がないから乗ってやろうか」

そう、冗談まじりの憎まれ口をたたきながら後部座席に乗り込んできた。その時はまだ軽口をたたいていた。そして、腰に手を回してきた。

昨日はあれほど触るなと言って騒いだのにこの変わりようにおどろいた。今朝などは、触ったから金をとるとまで言ったんだぞ。

「なにを照れていんのよ。裸のつきあいでしょう」

 後ろから笑いながら話かける。

「じゃ、たのんだよ、ふもとへ着いたら、近くの駅でいいからおろしてやってくれ。僕は宿に帰って待っているから」

 父親はそういって、車に乗り込んでバックさせはじめた。

 行動に移すと素早かった。

 ぼくはわがままな娘を背に感じて、がけ崩れ箇所を回りこんで先へとでた。

 振り返るともう黒いベンツは、切り替えして方向を変えると宿を目指して走り出していた。

 ぼくらは、ベンツの去っていくのを確認して、発進した。

 途中でも大きな石が落ちていたり、地面に亀裂が生じたりしていた。崖のあちこちから水が噴出していた。それをかいくぐって麓へと急いだ。

その時は、地震でふもとへ降りてからの壮絶な光景を眼にすることになろうとは想像もしなかった。

まだ、プライベートな幸福感に包まれていて、何も考えずにふもとをめざしてオートバイを走らせていた。







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