プロットなどなくても、スラスラ書ける
この頃になってくると、プロットなんてものはほぼ全くなしでも、なんの問題もなく書けるようになっていた。頭の中に大きな流れは入っていたし、いくつかのメモ書きも用意してあったからだ。
タイトルと主人公の名前。それと、何人かの登場人物に、重要エピソードを箇条書きにしたものが数行。全部で、原稿用紙1枚にも満たないような適当なメモ。あえていうならば、それがプロットのようなものだ。
あとは全部、小説を書きながら考えていった。
そもそも、プロットなんて作っている時間がもったいない。なにしろ、長編小説1作を2週間~1ヶ月というハイペースで制作しているのだ。
他の人たちが、「さあて、次はどんな小説を書こうかな?」などと考えている間に、最初の1行を書き始め、「ようし!次は、このジャンルで行くか!」なんて決めている頃に、最後の1行を書き終えてしまっている。
じゃあ、「そろそろプロットでも作っていきますか!」なんてみんながやっている間に、僕の方はさらに次の作品に取りかかっている。「ウ~ン、なかなか進まないな。でも、これがないと、後から困ることになるからな。この先に行き詰まらないように、今の内からシッカリとしたプロットを作っておこう!」なんてやっている内に、2作目も完成!
ようやく重い腰を上げて、他の作家たちが本悪的に小説の執筆に取りかかる頃には、もう僕の方は3作目を仕上げてしまっているといった具合だった。
疾風のごとき速さで舞い、ガシガシと物凄いスピードで小説を書き上げていく。
このようなコトをやっているのに、いちいちプロットなんかに関わっている暇などない。
それもこれも、みんなみんな、鏡の中の悪魔のおかげだった。
「自由に書け!お前の好きに書け!好きな方法で、好きな内容を書きまくれ!」
悪魔は、いつもそう言ってくれた。
そうして、その指示に素直に従い、ひたすらに書き続けてきた僕の努力の結果でもあった。
元々、継続した努力というのが苦手だった僕だったが、ようやくそれらしきコトができるようになってきたわけだ。
これを“努力”と呼ばずして、なんと呼ぼう?
でも、感覚的には遊んでいるのと同じ。ゲームをやっているのと同じだった。
そりゃあ、途中で辛く苦しい時期もあった。小説を書くのが嫌になる日も、何もやる気がしない日だってあった。そこを無理をしてでも乗り越えてきたおかげで、今ではそのような日はほとんどなくなってしまっていた。
“書くのが楽しくて楽しくてたまらない日”か“まあ、それなりに順調に書き進められる日”かのどちらかだった。
心の底からやる気にならない日なんて、せいぜい月に1度あるかどうかだ。残りの日は全部、“ちょっと面倒だな”とか“たまには休もうかな~?”程度のやる気のなさでしかなかった。そんな日に休んでいるわけにはいかない。
その程度で小説が書けなくなるんだったら、サッサと荷物をまとめて、この森から逃げ出した方がいい。
それに、休んでしまうと、次の日が余計に苦しくなる。
「ああ!苦しい苦しい!なぜ小説を書くのは、こんなにも苦しいんだ!」
森の中に済む小説家志望者たちの多くは、皆、同じような言葉を口にした。
もう何年も前にはなるが、僕も同じような悩みで苦しんでいた経験がある。あの頃の経験が体に染みついてしまっているからこそ、小説を書かない日を作るなんてことができないのだった。
たった1日でもサボってしまうと、それ以降、どんどん小説が書けなくなってしまうというあの病。最初は風邪みたいなものだったのが、日が経つにつれてますます辛く苦しくなっていく。まるで肺炎にでもかかってしまったかのように。
「あの頃は、なぜ、あんなにも小説が書けなかったのだろうか?」と、僕は懐かしく思う。
今の僕からしたら、あり得ないくらいに書けなかった。ほんとに不思議だ。毎日何千文字も書いているこの僕の、10分の1の文字数を書くのにも四苦八苦していた。
結局の所、実力が足りなかったのだろう。ただ単純に、それだけの理由。みんな、それを認めたがらないだけなのだ。
「能力がないなら、能力を身につければいい。才能がないなら、才能を手に入れればいい」
鏡の中の悪魔は、よくそのような言葉を口にした。
そうして、僕もその言葉を信じて、ここまで戦い続けてきた。
だからこそ、これだけの能力も身につけられた。努力もできるようになってきた。そういうコトなのだ。




