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小説を書くのは、戦場に立つのと同じ

 そうこうしている内に、次の作品も完成した。

 “2ヶ月間毎日、原稿用紙4枚以上書き続ける”というノルマをこなし、新しい能力も身につけて。


 僕は、自分の実力がメキメキと上がっているのを肌で感じていた。

 元々、小説を書くスピード自体は速い方だったのだが、そのスピードにもさらにみがきがかかってきた。それに加えて、執筆量も増えてきた。以前は、書ける日と書けない日の差が非常に激しかったのだが、それが安定して書けるようになってきたのだ。


 何よりも最高だったのは“毎日、小説を書き続ける能力”を身につけられたことだ。

 これは、以前から僕が望んでやまなかった能力。この能力を手に入れたことにより、執筆量が安定しただけでなく、文章の切れ味も増した。いや、切れ味自体は元々持っていたのだが、それすらも不安定なものだった。

 ズバッ!と鋭い文章を書いたかと思うと、なんだかよくわからない文章が続いたりする。昔は、そういうコトが多かったのだが、今はそれがなくなり、必要な瞬間に必要なだけの力を入れてスパリ!と敵を切り裂くような文章を書くことができるようになったのだ。

 以前の僕は、武器の扱い方を知らぬ狂人のようなものだった。通りに出ては、ただ闇雲やみくもにナイフを振り回し、片っ端から通行人に向ってりつける狂った人間。そういう小説ばかりを書いていた。

 それが、最近は全然違う。正確に敵を見定みさだめ、必要な時にのみ武器を抜く。それも、最小限の力で、「ここだ!」という部分を斬り裂く。皮膚ひふ薄皮うすかわ1枚だけを狙って、ピンポイントでそこだけを斬る。敵の体には美しい1本の赤い筋が傷となって残る。そのような攻撃ができるようになっていた。


「小説というのは戦いである」と、以前に鏡の中の悪魔は言っていた。

 僕も、それには全面的に同意する。無論、内容的にはそうでない小説もある。ふんわりと人の心を包み込むような青春小説や、あまったるいキャンディーのような恋愛小説だってある。


 それにしてもだ!

 常に自分自身とは戦い続けなければならない。小説を書くのは、戦場に立つのと同じだ。

 そりゃあ、どうしても新しいアイデアが思い浮かばずに、妥協だきょうしてしまう日もある。それだって、ギリギリまで踏ん張って、心をガリガリと削りすり減らしながら、どうにかこうにか戦った結果なのだ。最初から、あきらめたりなどしていない。


 僕は、常に戦い続けていた。

 誰と?

 自分自信と。あるいは、世界と。

 何のために?

 わからない。わからないけれども。戦い続ける。戦うコトが人生であるのと同じように、小説を書くのもまた戦うのと同じだった。戦闘であり、戦争であった。

 そうやって、僕はきたえられた。成長してきた。きっと、それはこれからも同じだろう。戦い続け、鍛えられ続け、成長し続ける。


 小説を書く理由は、人によって様々だ。

 だが、少なくとも僕にとっては、小説を書くという行為は“戦いそのもの”に違いがなかった。どういう理由でかは知らない。とにもかくにも、僕はそういう人間として生まれ、そういう人間として育ってきた。

 世の中には、わずかな割合でこういう人間が存在するものなのだ。生まれ持っての戦闘狂。戦いこそが人生!争いこそが全て!

 誰かと言い争い、大口論になり、半狂乱になって叫びまくる。

「ああ、しまった。悪いコトをしたな」と後になってから後悔しつつ、同時に心の中はそれ以上の充足感で満たされる。

「してやったり!また敵を倒した!上手い具合に言いくるめてやったぞ!」と喜びで一杯になる。

 昔の僕は、そういう人間だった。完全に能力の使い方をあやまっていた。れる人間、触れる人間、全てを傷つけ嫌な思いを植えつけながら生きていた。

 まさに、通り魔!物理的に出はなく精神的に人を斬りつける“サイコファントムキラー”

 その僕が、ついに自分の生きる道を見つけた。正しい能力の使い方を発見したのだ。それが、“小説”だった。


 小説は、なんでもありだ。

 小説の世界では、何をやっても怒られたりはしない。

 そりゃあ、愚にもつかない評論家や。二流三流の読者は別だ。彼らは、自らの無知をたなに上げ、一流の作家の作品をこけおろす。

「ああだ、こうだ」と難癖なんくせをつけて、くだらない文句を言いまくり、せっかくの作品の価値をこれっぽっちも理解しようとはしない。

 そうではなく、多くの物事に触れ、様々な物の見方ができる一流の読者にとって、“小説はなんでもあり”だ。どんなに大量の人間を虐殺ぎゃくさつする殺人鬼を登場させても怒られない。それどころか、むしろ絶賛される。

「いいぞ!よくやったぞ!これほど残虐な犯罪者は、生まれてこの方ただの1度も見たことがない!よくぞこのようなキャラクターを生み出してくれた!」などと言ってほめてくれる。


 勘違いしないで欲しいのは、僕がこのような小説ばかりを好んで書いているというわけではないという点だ。

 むしろ、全くの逆。この手のタイプの小説は、どちらかといえば苦手だし、自分でもあまり書いたりはしない。あくまで、これはたとえ話に過ぎない。

 ただ“小説はなんでもあり”だというコトを強調したいだけなのだ。凶悪犯罪者になるのも自由。それを倒すのも、また自由。世界を滅ぼすのだって作者の自由自在。あとは、それを読者が受け入れられるかどうかというだけ。いや、もしかしたら、それすら必要ないのかもしれない。


 小説というのは、書かれた瞬間にもう価値が存在する。その時点で、ほとんど全ての価値が決まってしまうと言ってもいいだろう。

 もちろん、細かい修正は必要だろう。誤字脱字をなくし、日本語として筋の通らない部分は書き直す。そういう作業は必要だ。より読者に読みやすいように留意りゅういし、推敲すいこうを重ねていく。

 だが、そういうのはわずかな違いに過ぎない。“作品そのものの根本的な価値”には全くと言っていいほど影響しない。極端な話、そういう作業は作者以外の誰かがおこなってもいいわけだ。編集者だとか、読者だとか、後に原稿を発見した者だとか、そういった人たちが。

 事実、そういうコトは頻繁ひんぱんに行われている。100年以上も前に書かれた小説を、作者とは無関係の人が現代語に翻訳して書き直したりする。そういう作品が、今の世の中にも大量に出回っている。


 たとえ、読者に理解されることがなかったとしても、それでも書かれた小説は作品としての価値を持つ。少なくとも、現代の読者に理解されることがなかったとしても、長い目で見た時にその作品が評価される時が来るならば。


 話がそれてしまったが、結局の所、僕が言いたいのはこういうコトだ。

「小説はなんでもあり!だから、おもしろいのだ!」

 そして、僕にはそれができる。全ての既成概念きせいがいねんを取っ払い、世界中の偏見へんけんという名の壁を破壊して回ることが!

 それは、きっと新しい小説の誕生となるだろう。


 “僕は、この小説という世界に向いているな”という妙な自信と実感が、僕自身の中にフツフツとわき上がってくるのがわかった。

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