闇に揺らぐ ー 月に忍び寄る暗雲 ー
じっと体を丸めたまま真っ黒な波に身を任せる。
閉じた瞼の向こうから光が差し、一際大きな力で背中を押されーー
「わぁっ!……痛い!!」
ドシーーンと派手な音をたてて、穴から飛び出た美玲が床に叩きつけられた。
衝撃でテーブルの上に置かれていたカップが揺れて中身が零れる。カタカタと震えているそれを慌てて片手を伸ばして支えた。
「み、美玲…!?」
「…………おかえり」
心底驚いた様子で駆け寄ってきた母と、一瞬目を見開いたものの冷静な父に小声で「ただいま」と返して立ち上がる。
「なかなか帰ってこないから心配したのよ?…さ、ご飯できてるから食べちゃって。今温め直すから」
そう言って母がキッチンへと戻って行った。
スパイスの効いた香りが漂ってくる。今日はカレーかな。
母がそれを温めてくれている間、制服から私服に着替えてしまうことにした。
◇ ◇ ◇ ◇
自室からダイニングへと降りてくると予想通りテーブルにはカレーライスが置かれていた。
美玲が食べ終わる頃を見計らって父が声を掛ける。
「美玲、レオさんから話は聞いたかい?」
美玲は頷くと、家を出てから帰ってくるまでのことを話した。両親も興味深そうに聞いている。
「…一応話は聞いていたけど、本当にそんなことができるのねぇ。見てみたかったわぁ」
母の呑気な言葉に、大変だったんだから。と美玲は頬を膨らませた。
「あ、そうだ。何かお父さん達からまだ話があるって…その……レオ、さんが………」
あの時の状況を思い出して思わずどもる。
顔に触れた細くて長い指。目の前にまで接近した彼の顔はやっぱり綺麗で整っていて…
「どうした美玲顔赤くして」
はっとして過去へと飛んでいた意識を戻す。不思議そうに自分を見つめる父。そして
「あらあら~あらあらあら~」
片手で口元を覆って目元を綻ばせ、意味ありげな視線を送る母。
あなたの言わんとすることはわかります。
「やめて!そんなんじゃないから!!」
腕をぶんぶん振り回して否定する美玲を「そうなの~?」とか言いながら未だ面白そうに母が見つめていたが、父の咳払いによってその場は終了した。
「美玲が言ったようにこの話には続きがある。…大事な話だ」
真剣な眼差しを送られる。
母も真面目な表情に戻っていた。
レオの最後の言葉を思い出す。聞くのが…怖い。
父がゆっくりと口を開く。
話を聞くに、一週間ほど前にレオが所属する隊の隊長さんが来て同じようなことを説明していったらしい。そして、
「美玲、お前はここにはいられない。異世界で暮らすんだ」
「…‥っ!!いや!あたし、異世界になんて行かない!」
「ごめんね美玲。隊長さんとも色々話したんだけど…」
一瞬静寂に包まれた部屋に美玲の叫びが響く。
頭の端で感じていたこと。もしかしたらと幾度かよぎっていた予感。それがあったからこそ、その言葉に全身が逆立つような恐怖を感じた。
蚊の鳴くような声で母が割って入ったがもう止まらない。
美玲が勢いよく立ち上がる。
「どうして!?あたしが〝月の子〟だから!?あたし、望んでそうなったわけじゃない!誰にも迷惑かけてない!」
「美玲、落ち着きなさい。レオさんから聞いただろう?〝月の子〟は狙われやすいんだ。今はいいけど、これから美玲に危害が加わるかもしれない」
「…だったら、向こうが来てくれればいいじゃん!あたしの身を守るなら、それで充分でしょ!?」
目から溢れた涙が頬を伝っていくのがわかる。
「お父さんもお母さんも、あたしが嫌いなんだ…だから、そんなこと言うんだ…あたしが人間じゃないから!あたしが、いらない子だから!!」
「美玲!!」
父の怒号がとぶと、バチーンと派手な音を立てて頬をひっぱたかれた。
「美玲のことがいらないだと!?そんなこと一度だって思ったことはない!!美玲が月の子だと分かって…この世界に居られないと言われて…父さん達がどれだけ辛かったと思うんだ!?でもな、仕方が無いんだ…」
父が力無く椅子に座ってうなだれる。
母がその背中をさすりながら続ける。
「あのね美玲。母さん達はあなたを愛しているわ。愛しているからこそ、この決断をしたの」
「…お母さん…」
「…もしこちらに守護者の方がきてくださったとして、美玲が魔物におそわれるとするわ。美玲を守るために、守護者の方が戦う。そうしたらどうなると思う?」
異世界でのことを思い出す。炎を操っていたレオ。レオの隊ー朱雀隊以外の隊はまた違ったものを操ることができると言う。そして、自分を狙っているという魔物。それらも同じような力を持っているとしたら。そしてその戦いが、街中で展開されたら。
母の言いたいことがわかった気がした。静かに自分を見つめる美玲をみて、母がゆっくりと頷く。
「美玲だけじゃない。周りの人も危険に晒してしまうかもしれないでしょう?それに、それで守護者の方が、美玲が、大怪我をしてしまったら簡単には治せないわ。あちらには短時間で怪我を癒すことができる方もいらっしゃるみたいだし…」
母にそっと抱きしめられた。暖かい。
「…大丈夫。美玲ならどこでもやっていけるわ。私達の自慢の娘だもの」
その上から父に抱きしめられる。
「悲しむことはない。生きていれば、いつかきっと会えるさ」
美玲の目からまた涙が溢れる。自分を包んでいる腕も、微かに震えているのを感じた。