闇に揺らぐ ー 狼の憂鬱 ー
ミレイが完全に穴に呑まれたのを確認して再度穴に手をかざすと、穴の淵が一瞬光りみるみるうちに穴はすぼんで消えた。
札を壁から剥がして懐にしまう。
札の力があったとはいえ異世界と人間界を繋ぐのはかなり負担がかかる。此方に来る時には札無しで繋いだから余計に辛かった。心なしか身体が重い。
…さっさと隊長に報告を済ませて寝るか。
深く息を吐いて踵を返すと
「レ~オ~~~っ!!」
嗚呼、くそ、面倒なのに見つかった…
後ろから聞こえた甘ったるい声と足音に、先程とは違ったため息が漏れる。
げんなりしながら振り向くと
そこには想像した通りの女がこちらに向かって駆け寄ってくるところだった。
構わず彼女に背を向けて歩き出そうとするが、足を一歩踏み出すよりも早く片腕にがっちりと絡みつかれてしまった。
「ちょっとぉ、今逃げようとしたでしょぉ?」
「…今晩わ、キャメリア青龍隊二星。今日は任務が無いんですか?」
「んもぅ、そんな堅苦しい呼び方しなくていいのに!苗字じゃなくて、名前で呼んでいいって言ってるでしょ?ド・ロ・シ・ー、〝ドール〟って愛称で呼んで欲しいなぁ?」
「どうでもいいが離れろ。ベタベタ触られるのは嫌いなんだ」
絡みついていた腕を勢いよく振り払うとドールが不満げな声を上げて頬を膨らませた。
「あ~、上官にそんな言葉遣いしていいのかなぁ?ま、レオなら全然オッケーだけどっ♪それより、さっきの誰?見たことないオレンジの髪した女の子。キスしてたでしょ?」
「してない」
「…そうなの?なぁ~んだ!エレベーターから降りてきたらレオがオレンジの子といちゃついてるのが見えちゃったから、ドールちょっと妬けちゃったのよ?
…レオはドール以外の女の子とそんなことするハズ無いのにね?」
正面から首に巻きついてこようとする細い腕をいなし、一歩後退して距離をとる。
「…悪いがもうお前と関係を持つ気はないと言った筈だ」
意識して冷ややかな視線を送ると不服そうに尖らせていたドールの唇に薄っすらと妖しい笑みが浮かんだ。
「…ふふっ、それは残念ね。サミシくなったらいつでも来ていいのよ?可愛いオオカミ坊や君」
そう言うとクスクスと笑いながら緩く巻いたピンク色の髪をくるりと翻し立ち去っていく。その背中に軽く舌打ちしてレオも足を踏み出した。
塔を出たレオは、先程自分がくぐった大仰な門が音も無く、ゆっくりと閉じていくのを肩越しに見つめていた。
塔の外観同様真っ白な門は、一度閉じてしまうと衛兵が居なければ何処が門なのか分からないほどに同化してしまう。実際は塔の周りの建築物などで大体の位置は把握できるのだが、初めて来た者は塔の周りを延々歩き続けなければならないだろう。
巨大な円柱の形をしたこの塔は高さも円周もかなりのものだ。隊員達の寮も兼ねている上、トレーニングスペースや食堂など様々な施設が詰め込まれている。玄武隊の北塔に至っては病室や施術室まであるのだから、それ相応の広さが必要になるのだ。
門が完全に閉じ切った後、門の両脇に控えていた衛兵がビシリと揃った敬礼をくれた。それに片手を額の前に持ち上げただけのような、敬礼と呼ぶにはお粗末なもので返してゆっくりと歩き出す。
…思ったよりもかなり遅くなってしまった。
半ば威しながら話を進めたが、一応は此方側の存在を認めたらしい。
今頃両親から説明を受けているだろうか。女にとっても家族にとっても辛い現実だろう。果たして受け入れるか。
「…ふん」
そこまで考えて自分の思考を鼻で笑う。
自分は一体何を心配しているのか。〝月の子〟といえど所詮は人間であり、その家族も人間。同情の余地などないのだ。
女の気持ちなど関係ない。俺はただ女を護ればいいだけだ。あいつが人間の世界を捨てなければいけないのは、変えられない事実なのだから。
すっかり陽は沈んでいたが、街灯や建ち並ぶ店の明かりで夜道も明るい。
それにしても、なぜ隊長は俺を推したのか。隊長は自分の過去を知っているはずだ。人間を嫌い、憎んでいることも。
レオはゆっくりと息を吐いた。
今更こんなことを考えても仕方が無い。これは任務。請けてしまった以上は手を抜くことなど許されない。
「…〝飛べ〟」
炎の翼を開いて軽く地面を蹴る。二、三度羽ばたいて高度を上げ、朱雀隊の拠点、南塔へと向かった。