人間不信イラストレーター
――それはまさに、天啓が下った様な衝撃だった。
その日も彼は退屈な授業を寝て過ごし、放課後の時間を適当に潰していた。
彼には、どうしても家には帰りたくないわけがあった。その年ごろの少年少女ならばありふれたことかもしれないが、彼はやはり、なるべく家にはいたくなかった。彼は、自分の家であるはずのその場所に、居心地の悪さを感じていた。
今時、親が義理でした! だなんて、珍しくもなんともないかもしれないけどさ……。
。最初から知っていたわけじゃなかった。今まで信じて疑わなかったことが、数週間前彼らの口から壊された。勿論、彼らがちゃんと自分を愛してくれていたことだって、分かってる。けどこれは、理屈で片づけられることじゃないんだ。だって、普通そうだろ? ああはいそうですか、なんて受け入れられるわけないだろ?
しかし、誰にも言えず、今日も彼は顔を伏せて口を閉ざしていた。
さて、彼の専らの時間のつぶし方は、さまざまな部活動を見て回ることだった。
彼が通うその高校は、何の変哲もない高校だ。別に変った校風があるわけでもないから、「変わった」高校とは言い難いのだが、強いて言えば、特徴はとにかく様々な部活動があり盛んだということだ。
その日の彼が目につけたのは、つい先ほどまであることすら知らなかった「美術部」である。解放されている教室に入り込み、奇妙な美術作品やデッサンなどを見つめる。
まあ、芸術なんざさっぱりなんだけど。ひとしきり眺めてまわって、彼はふと、教室の隅に置かれているファイルを見つけた。
それこそが、彼の人生を変える作品である。
一年・黒田のりか、と女子高生らしい小さくて少しみにくい字で書かれていた。作品集なのだろう。ぶ厚い表紙を開けば、芸術の良し悪しの分からない彼でさえ唸るような作品が次々と現れた。
一枚目は、黒髪の少女の後ろ姿。男装をしているのか、うちの男子用制服を着ている。抱えられた本の多さは後ろからでもよくわかる。何と形容していいのだろう。綺麗なんて陳腐な言葉ではきっと、作品の品位が削がれてしまうだろう。
二枚目は、荒れ果てた大きな路地裏で身を寄せ合う子ども二人の姿。体は痩せこけ怯えたような目でこちらを見ている。アニメやなんかである様なシーンなのに、何処かリアリティで胸をつかれた。きっと想像なのだろうとは思いつつも、そんなはずがないという矛盾に苛まれた。
三枚目は、どこかの学校の風景。黒板には歓迎会でもしたのか「ようこそ」とかすれた字で書かれているが、そこには一人も人影はない。窓は黒く塗りつぶされていて、小さな机やいすは滅茶苦茶にされている。奇妙で、薄気味悪い――まるで怪談に出てくる夜の学校を現実にした様だった。
四枚目は、身を寄せ合う四人の子供と本を読む一人の子ども。意図的なのかたまたまか全員顔は見えない。読書に勤しむ子どもに引き寄せられているかのような子供たちは、それぞれまわりに何かしらのマークが描かれていた。何個かは、分かる。これは雷だ。もうひとつは、ばってん。もうひとつは……竜巻? そしてさいごの一つは、……。ごちゃごちゃして、良くわからなかった。
五枚目は、どこかの公園の風景。桜が舞っていて、子供たちがその中で遊んでいる。一人は木の上で寝転がっていて、一人は幹に寄りかかって一枚の桜の花びらをつまんでいる。拓けた野原では三人の子供たちが追いかけっこをしていた。今までとはガラリと変わった、明るい色で塗られていた。
六枚目は、どこかのスタジオで一人ヘッドホンをした少年の後ろ姿。長めの黒髪を後ろで適当に括った、中学生か高校生くらいの少年だった。どこかの制服を着て、首をかしげている。手にはペンが握られていて、膝にはギターを乗せていた。ありふれた情景だ。彼女の絵にしては少し、異色な絵だった。
七枚目。八枚目。九枚目。十枚目――淡く色付けられた世界に、彼はすぐに惹きこまれていった。
次から次へと変わっていく雰囲気に呑まれ、彼は空が茜色から紺色へと変わっているのにも気付かなかった。
結局見回りの教師に現実に引き戻され、呆れたような顔で注意をされた。
「先生! これ、これ……! これって!」
ああもう、なんていえばいいんだろう!
言いたいことはたくさんあるが、何一つ上手く出てこない。それでも彼は、何かを伝えようと必死になっていた。
興奮で彼の頬は紅潮し、何処か虚ろだった目はきらきらと輝いていた。教師は意外そうな顔で彼の手元を覗き込み、納得したように頷いた。
「黒田のか。まったく……勝手に見たらだめだろう」
「すんません! でも、なんていうか……」
教師は慌てる彼に困ったように笑って、そのファイルを閉じた。
「この学校にはな、天才がいるのさ」
黒田のりかも、その一人。
とてもそうは見えないが、まぎれもない天才なんだよ。
彼は抱えたファイルを穴があくほど見つめ、頷いた。
天才、天才か。これが、天才の作品――
「俺、美術部入ります。入れてください!」
教師は驚いたような顔をして、それから訝しげに何かを言おうとした。しかし彼には既に聞こえておらず、抱えていたファイルを丁重に元の場所へと戻し、未来への期待に胸を膨らませていた。
ああ、彼女に会ったらなんて言おうか。
彼女の他の絵も、見せてはもらえないだろうか。
俺も絵を描き始めよう。
彼女に、教えてもらえたらこれ以上の幸せはないだろう。
必死に彼に話しかける教師を振り切り、彼は帰路についた。
今日は、今までで一番の日だ……!
そしてこれからは、今日以上の幸せが俺をまっているのだ!
彼は家に着くと今までの気まずさなど忘れたかのように両親にその日のことを話した。そして、自分も彼女の様な画家になるのだと息巻いて、笑った。両親は自分たちがその作品に出会ったかのように感動して、彼の夢に胸を躍らせた。
ああ、と彼は泣き笑いを浮かべた。
血などつながっていなくても、この人たちは自分の両親なのだ。
彼は両親にこれからの願望を話し、美術部に入るという宣言をした。そして翌日、その宣言通り彼は美術部に入部することになった。
ちなみに、黒田のりかが美術部員ではないことを彼が知るのは、その二週間後の話である。
そして、彼が思わぬ才能を開花させることもまた、先の話。
二月二十六日、句読点忘れで改稿しました。ご指摘ありがとうございます。