天井端会議
架空設定:主人公もヒロインも架空の人物、御三卿にもう一家追加、松浦清に戯作者疑惑などがあります。
江戸、とある上屋敷。
ちらほらと雪が舞う真冬の夜、その屋敷の若き主人である桔梗家松平常陸介礼綱は、御座の間で独り唸っていた。
「うーむ……」
礼綱のそばには奇妙な照明がある。唐物の青銅製の連枝燈を、器用な家臣が改造していくつもの灯りを持つ置行灯としたのだ。明るいといえば明るい、その分、油や芯の減りは早いが。
ただ、礼綱の悩みはそこではない。
この場には、礼綱が一人だ。夕餉や風呂も済み、侍読役も下がらせた。寝るにはまだ早く、ふと誰にも言えない考えに耽るにはちょうどいい時間だ。
礼綱の悩みは、頭上で起きている。
耳を澄ませば、カタ、ギシ、というほんのかすかなきしみが天井から聞こえてくる。最初は気のせいかと思っていたが、一度耳がその音を捉えてしまうと気になってくる。
若年ではあるが慎重かつ気にしいの礼綱の性分柄、それを静かに、しかし確実に数え、調べようと集中するようになった。
その結果、天井のきしみは御座の間への人の出入りの少ない夜間、少なくとも一夜に一、二度はあり、多いときはまるでネズミどもがかけっこをしているかのごとく何度も耳にする。ただし、耳がすっかり慣れた礼綱以外には聞こえていない、その程度の些細な音でしかない。
さりとて、ここは将軍家に連なる御三卿の上屋敷、しかも御城はすぐそばだ。ネズミが走り回るようなボロ屋ではないし、先々代から仕える古株の女中頭にそれとなく尋ねても、このごろはネズミの類を一切見かけていないと言う。
では、今も聞こえる天井のきしみは、何なのか。
連枝燈の明々とした光は天井にも届く。建て付けの悪さなど考えつかないほど、大工の神業を感じさせるピシッとした格天井だ。嵌められた鏡板の木目は追い柾で統一され、よくよく目を凝らせば指物の細工もそこかしこに見て取れる。木目を波に見立て、雲や松、船を組み込んだもの、縁起のいい波立涌文様に……この屋敷に来てから、礼綱はその一つ一つを見ていてもまったく飽きない。
だからこそ、そのお気に入りの天井の上から降ってくる音の正体は何か、礼綱は気になってしまうのだ。
障子を一枚隔てた廊下、庭先、あるいは高い白塀の向こうまで、今晩はしんと静まり返っているせいで、天井のきしみはよく聞こえる。四半刻に一度程度であっても、気になってしまってはしょっちゅうあるように感じる。
ついに、礼綱は立ち上がり、床の間の刀掛けから太刀を取る。太平の世では伝家の宝刀も権威の象徴でしかなく、手入れのときしか抜かれぬままだったが——やはり抜かれず、礼綱は柄を逆手に、鞘先を上へと向けてぐっと腕を伸ばし、天井を二度ほど軽く叩いた。
こん、こん。
礼綱は小さな声で呼びかける。
「おうい、誰ぞ、あるか? 答えよ」
礼綱は半ば冗談まじりでやってみただけだが、半分は本気だ。もし本当に何者かが天井にいるのであれば、追い払わなければならない。鼠、妖怪、天に登れずにいる庚申の虫か、あるいは気のせいだとしても、何にせよ礼綱だけの問題でなく気のいい家臣たちに心配をかけてしまう。
すると、天井からは驚くべき返答があった。
「あい、おります」
一瞬体が強張った礼綱は、ギョッとして目を見開く。
しかし、それだけではなかった。
「阿呆、何で返事した」
「あっ」
叱る声がして、それきりしん、と静かになった。
天井裏にいるのは一人ではない、少なくとももう一人いる。曲者か、いや曲者以外に何があるのか。
すでに礼綱は恐れ慄き、家臣を呼ぼうかと一歩後ずさったところ、また新たな声が聞こえてきた。
「お待ちを、礼綱様。我らにお気づきであれば話が早い、どうかそのままお座りくださらぬか。我らは決して危害を加えませぬゆえ」
前二つとは違うしゃがれた声が——殿でも御屋形様でもなく、避諱の意味合いを込めての読み方で——礼綱へそう頼み込んできた。
礼綱は立ちすくんだまま、しゃがれた声へ尋ねる。
「そなたらは何者ぞ。まずは名乗れ」
「名乗るほどの者ではございませぬ」
「我が屋敷の天井に悠々と出入りしおって、曲者が」
「はっ、我らは確かに曲者ではございますが、まあそれはそれとして」
「馬鹿、お前はもう黙っていろ」
「……そこに何人おるのだ?」
礼綱は、天井の板張りの裏に潜む曲者たちの数がまるで想像がつかない。一人二人ではなく、ぞろりと頭上に揃っていたとなれば、のうのうその下で暮らしてきた自分は何たる間抜けかと恥ずかしくなる。
ところが、返答はとんでもないものだった。
「ここには七人おりますれば」
礼綱は目眩がした。いくら造りが頑丈であっても、天井裏に七人も曲者がいるなど、一体全体どういう状況なのだ。
「もういい、全員降りてこい! 顔を見せよ!」
「それだけはご勘弁を」
「忍びの類だろうが、そなたらは一体全体わしの何を探りにきたというのだ!」
「いえその、礼綱様にはあまり関心はなく、どちらかといえばこの屋敷を訪れるお偉い方の動向をね? 知りたくて……」
天井から、ぼこっ、と固い頭でも殴られたのか、くぐもった音がした。
礼綱は思わず、ため息を吐いた。
「はあ……そなたらの主人は、わしのことなど眼中にないか。それも当然だろうさ、たかが『将軍家の部屋住み』程度と侮られるのはいつものことだ」
礼綱は、血筋こそ確かに徳川宗家に連なるものの、あくまで 『将軍家の部屋住み』、つまり『後継者の予備』としての地位しか持っていない。何らかの実権ある役職もなく、若い本家筋の男子として万一に備えて留め置かれているにすぎない。
もっとも、それはあくまで雲上人たちから見た末端であり、武家社会の頂点に近い御家でろくに責任も負わず何不自由なく暮らせる、世の中の大半からすれば憧れの存在なのだが——そんなことは、まだ元服から数年しか経っていない世事に疎い礼綱には理解出来ようはずもない。
今の礼綱に分かるのは、自分が御城の主人や老中たちから侮られ、駒の一つ程度に見られているということだけだ。
とはいえ、それを逆手に取り、礼綱の父の助言もあって将来のために伝手を増やす目的で、御城に用事のあるさまざまな人々へと屋敷の一室を貸し出すこともあった。
おそらく、天井裏の曲者たちもそこに目を付けたのだ。
別に、やつらもここで物騒ごとを起こすつもりはないだろう。よりにもよって七人も集まっていることがその証左だ、争う気があるならもっと少なくていい。ただやつらは天井裏に待機し、屋敷に集まるやんごとない連中の話に耳を澄ませ、有益な情報を集めているだけだ。
そう考えれば、礼綱には特に害はない。
「ここは御城と他の大名の上屋敷とほど近く、ちょうどよい位置にある。裏手から入れば談合には都合もよいし、実際貸し出しておるしな。それゆえ、そなたらも集まっておるのだろう。違うか?」
「ご明察のとおりにございます。ただ、礼綱様は侮られてはおりませぬ」
「ふん、忍びの慰めなどいらぬわ」
「そんなことないですよ!」
「我らは礼綱様が『お利口様』と呼ばれているのを存じております!」
「この馬鹿と阿呆! もうしゃべるな!」
天井板を挟んだ向こうでは、ドタバタと騒がしい音がする。
何だかんだ思ったとおりではあったが、想像以上に曲者たちはおしゃべりで、騒がしい。
そのおかしさのあまり礼綱はふっと笑い、すっかり曲者たちを咎める気が失せていることに気付いた。
「もうよい。そなたらがわしや屋敷の者たちに危害を加えぬかぎり、何もせぬ。よいか、決して他の者に悟られるなよ。女中頭のおたつは口やかましいし、家臣の中にはわしより心配性の者たちも多いからな」
それきり、礼綱は太刀を戻して、部屋をあとにした。
青銅製の連枝燈は明々と火が点いたままだったが、礼綱はいつも放っておく。そのうち礼綱が寝所に入ったことを察して、誰かが消しにやってくる。前に礼綱が自分で消したところ、家臣の一人から「そういうことはちゃんと命じてくだされ」と諌められたことがあった。
御家の威光で手取り足取り世話をされる生活は、若き青年にとって不服を抱くことはあっても、感謝の念はなかなか湧きづらいものだ。
これは、礼綱のほんのささやかな、望まぬ身の上への反抗だった。
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翌日夜、礼綱はまた独り、御座の間にいた。
普段世話焼きの家臣たちから逃れてゆっくり過ごす、夜の静かな時間だ。
しかし、天井の板が一枚、音もなくわずかにずらされて、礼綱の目の前に妙なものが吊り下ろされてきた。まるで小さな蜘蛛が糸を吐きながら高所から降りてくるかのように、一本の白い木綿糸の先には——なんと、指先ほどに小さく四角に折り畳まれた紙がくくりつけられている。
訝しみながら、礼綱は天井へ向けて問う。
「これは何だ」
すると、こそこそと抑えた声が降ってきた。
「明日登城するであろう老中とそのお客人の名を記しております。こちらにやってくるかもしれませぬ」
「どういうことだ? 何の知らせもないぞ」
「騙されたと思って、明日は酒を多めに用意するようご家来へお申しつけくだされ」
それから、しばしじっと紙を見つめたあと、礼綱はそっと蝶結びの木綿糸を解き、おそるおそる紙を手に取る。
そして、すすーっ、木綿糸は天井へと引き上げられていった。
何とも、忍びの術中に嵌ったかのようで気が進まないものの、礼綱はしっかりと、紙の内側に器用にも小さい字で書かれた二つの官職名を読み取る。
森丹波守と細川某——森丹波守は縁遠いわけではない、しかし親しいわけでもない。本当に来るのか、いささか疑わしい。細川某に関しては、江戸には細川姓の有力者が何人もいるため名が分からなければ誰と決めつけることもできない。
「……まあ、酒が飲みたいと言うだけならタダか」
礼綱はそう言って、紙を懐にしまっておいた。
次の日の朝、礼綱は寝所へ起こしにきた小姓へそれとなく「最近酒を飲んでおらぬな」と呟いておいたところ、昼前には門前で少し騒がしく人の出入りがあって、夕方前にはいくつか酒樽が届けられているのを確認した。
本当に客など来るのかどうか、と不安に駆られた矢先、礼綱のもとへ家臣の一人がやってきた。一礼ののち、粛々とこう述べる。
「殿。森丹波守より急ぎ場所を貸してほしい、と使者が参っております」
——なんと、本当に来たではないか。
驚きと同時に、してやられた妙な悔しさもある。
ひとまず礼綱は、しれっと家臣の一人へこう応じた。
「ふむ。別に予定はなかろう、貸してやれ」
「はっ!」
「酒もあるから、適当に勧めておけ。わしは関わらぬゆえ」
そこで話を打ち切ろうとした、にもかかわらず、家臣の一人は何か言いたげにじっと礼綱を見上げてくる。
はあ、と礼綱はため息を吐いた。
「……わしは関わらぬぞ」
「しかし、森丹波守は律儀な方、顔を見知っておけば何かと役に立ちまする」
「くどい。どうせわしは——」
思わず出そうになった言葉を呑み込み、礼綱は頭を小さく横に振った。
「少々、気分が悪い。またにしろ」
「承知いたしました」
幸いにも押し問答とはならず、礼綱は御座の間へと戻る。
おそらく、家臣たちは礼綱が御城の政に興味すらないのでは、と案じているのだろう。礼綱がそれなりの地位、あるいは望外のところに就けばいいが、そうでなければ自分たちは——とまで極端な話ではなくとも、まだまだ先の長い礼綱の将来を気にかけているのだ。
今の礼綱に、その話題を上手く捌ける自信はない。
そんなことよりも、礼綱がどさりと座布団に腰を下ろした瞬間、声が降ってきた。
「あーあ、せっかく顔繋ぎができたのに」
天井裏から不服そうな声がして、礼綱は頭上を睨みつける。
「やかましい。静かにしておれと言っただろう」
「まあまあ、今は一人でして。礼綱様はどこの姫の噂がお聞きになりとう」
「やかましい!」
不意に響いた主君の怒声を聞きつけ、ただでさえ心配性の家臣たちはあっという間に駆けつけてきた。
「殿、いかがなさった!?」
「何でもない、何でもない! あー、少し眩暈がするようだ」
「何と! それは一大事! 疾く寝所で横になられませ! おい、医者を呼べ!」
「そこまで大事ではないから、寝れば治ろう! いいから、静かにしておれ」
滅多にない主君の騒ぎ、となれば屋敷中の者たちが駆けつけそうな勢いだ。
礼綱はどうどうと意気盛んな家臣たちと野次馬どもを散らせ、障子をピシャリと閉めたあと、数歩進んで畳の上に座り込んでしまった。
慣れないことはするものではない。
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小春日和の早朝、礼綱は習慣として続けている朝餉後の写経のため、御座の間で独り支度をしていた。
こればかりは家来にも触らせない、先祖伝来の唐物の丸い澄泥硯で、二重の桐箱から大事に取り出した紫玉光の墨を擦る。唐物の墨は固いが、同じ唐物の硯と擦り合わせればいい塩梅になる。ひたすらに滑らかな擦り心地は心を落ち着けるだけでなく、この難物どもを上手く制御できた満足感と達成感を得られるものだ。
しかし、擦り終えた墨を前にして、まずは字を書かねばはじまらない。
畏まって文机につく礼綱が筆を立て、漆黒の墨溜まりに没入する直前。
礼綱の真上の天井板が外れて、ぷうんと甘い香りが降りてきた。
「礼綱様、これ食いません?」
「何だ」
「花ぼうろです」
礼綱は決して振り向かず、顔をしかめた。
「そなたは忍の中でも阿呆なのか?」
「あっ、カルメ焼きがよろしい?」
「……そうではない」
この忍び、他人の屋敷に各種市井の焼き菓子を持ち込んで、のんびりと過ごしている。どうやら今日は他の忍びがまだ来ていないらしく、誰も焼き菓子を食う阿呆を止められない。
しかも、続けざまに親しげに話しかけてくる始末だ。
「そういや、松浦の大殿様がその辺にいるらしいんですが、呼びましょうか?」
「は? 松浦……平戸の静山殿か!?」
ついに礼綱は天井へ振り向いてしまった。平戸藩の松浦静山といえば、隠居するも戯作者であることがバレてしまった生粋の趣味翁であり、同時に政の目利きは随一とも言われる才人だ。
密かに尊崇の念を抱いている者の名前を出されて、礼綱は焦る。だが、天井裏に引っ込んでいる忍びの顔は見えない。
「よく徘徊してらっしゃいまして。あ、これ俳諧と掛けて」
「いい、呼ぶな! 畏れ多い!」
「ひ孫やら何某やらに会う名目で出歩いては書き物のネタ集めもしておられますよ」
まさか便宜を図った見返りに何かを要求するのではないか、冷や冷やしながら礼綱は心を落ち着けようとまた墨を擦る。幸いにして紫玉光は固い、乱れた心では硯とぶつけてしまうだけで、それがまた涼やかないい音を出した。
一旦、天井板が閉まり、こと、こと、と小さな軋みが鳴る。
また天井板が開くと、今度は別の忍びが呼びかけてきた。
「礼綱様。こちら、晦日までに来るであろう客人の名にございますれば」
ぽとり、と礼綱のそばの畳に、何やら丸めた紙が落ちる。
礼綱は拾い上げて紙を開く。そして、眉根を寄せた。
「……毎回思うが、美人画の裏に書くのは意味があるのか?」
「他意はございませぬ」
「本当か?」
「はい」
菊川何某のみめくらべやら黄雲のかげ女房やら、そういう卑俗で猥雑なものに最初こそ礼綱は度肝を抜かれたが、もうすっかり慣れ、さっさと丸めて半紙に包んで屑籠へ投げ入れる。家中の誰に見つかってもとんでもないことになりかねない。
結局、気が散ってしまって写経は途中で切り上げ、せっかく擦った墨は小姓へ何かに使うよう下げ渡した。
渋々、礼綱が墨と硯の手入れをしていると、家中の仕切りを任せている重臣が、御座の間へやってきた。
心苦しそうに、重臣は礼綱へ文箱を差し出す。礼綱が目配せして蓋を開けさせると、純白の奉書紙——おそらく、中には分厚い文が包まれている——が現れる。
聞かずとも分かる中身に、礼綱も重臣もうつむいたままだ。
「殿。この、昭姫の文はいかがしますか?」
「あー……届かなかったことにしておけ」
「その言い訳は前にも使いましたゆえ、それに御次を躱せても御守役が乗り込んでくるかと」
はあ、と両者揃ってため息が出た。
礼綱は頭を悩ませておくからと、重臣も小姓も御座の間から追い出し、文机の片付けを後回しにして畳の上にそのまま倒れ込んだ。
仰向けになって見上げる格天井は、相も変わらず立派なものだ。
ただ、そこから聞こえてくる話し声は若干、前に増して大きくなった気がした。
「あれっ、礼綱様って許嫁いたんだ」
「お前、そんなことも知らんのか」
「結構前からの許嫁なのになぁ。ほら、越前のほうの重臣に由利家ってあるだろ」
「そこの娘が叔母が嫁いだ鯖江の間部の養女になって、んで礼綱様のお嫁さんだよ」
へー、と感心する声のあと、天井板が少しずらされ、礼綱まで話に加えさせられる。
「礼綱様、昭姫の好みはご存じで?」
「知るか。知りとうもないわ」
「えー」
「こら、無礼ぞ」
気安い声を、年嵩のいった声がたしなめる。
礼綱は天井板が閉まったのを見届けてから、つぶやいた。
「『将軍家の部屋住み』へ嫁ぎたがる姫など、どうかしておるわ」
ふん、と言いようのない座りの悪さを鼻息で押し出し、礼綱はしばしお気に入りの追い柾を眺めていた。
ところが、その夕方。
「我々が調べてまいりましたところ、まず昭姫はおかんむりのご様子」
「やっぱり礼綱様から文が返ってこぬことをやきもきしておられるご様子」
「せっかく江戸へ出てきたのにこれでは礼綱様に近づけぬとしょんぼりのご様子」
「周囲もなんやかやと昭姫を手助けしている模様ですが、この屋敷の者どもに阻まれている模様」
屋敷の行く先々で、忍びどもが礼綱へ逐一、昭姫の様子を天井から伝えてくるのだ。
これには礼綱も、自分が悪かったのでは、と思えてきた。
無論、意地でもその言葉は口に出さぬものの、許嫁を放っておく男は甲斐性なしではと何となしに自覚していただけに、礼綱も責め立てられている気持ちになる。
ついにはたまらず、礼綱は人一倍敏捷い家臣の一人を呼びつけた。
「いかがいたしましたか、殿」
「……文を書く、支度せよ」
「はっ!」
珍しく直々に命じられたことがよほど嬉しかったのか、早足で楽しげに駆けていく家臣の背中を見えなくなるまで見届けてから、やはり礼綱はため息を吐いた。
昭姫へ文を出す、と自分で決めておきながら、気が進まないのだ。
「はあー……」
「礼綱様、ついでにお茶も頼めませんか」
ぼそっと聞こえてきた天井裏の声に、礼綱はぶつけどころのない怒りを含めて渡り廊下の向こうにいた小姓へ叫ぶ。
「茶もいる、茶瓶ごと持ってこい!」
「は? ははっ、ただいま!」
今日の礼綱様は虫の居処が悪いようだ。家臣たちはきっとそう噂していることだろう。
まもなく、支度はできた。
御座の間、文机の上にたっぷりと滴る奈良墨と黒つやのある雨畑硯、そして使い慣れた兎毛の筆、美濃紙、それからほぼ空となった鉄の茶瓶に伊万里の湯呑み。
本来なら御座の間は日常使いの部屋ではない。しかし、いつの間にか片隅に書棚ができ、文机が置かれっぱなしになり、枕にするための新しい座布団も増えた。
一度、礼綱が御座の間に入れば、家臣たちは非常時以外襖を動かすことはない。ここ最近できた決まりごとで、当然ながら礼綱が天井裏の忍びどもを隠すために作った。
いや、隠す必要はないのかもしれない、しかし礼綱は追い出す気にもなれなかった。
それはさておき、礼綱はさっさと文を書き終え、奉書紙に包んで天井裏の忍びどもへ差し向け、言いつける。
「茶の代わりだ、そなたらの誰かがこの文を届けよ」
すると、異論が出てきた。
「昭姫へ出すなら、ご家来に頼めばよろしいんじゃ?」
「本当に阿呆じゃな、お前。礼綱様とて恋心を秘めるお気持ちはあろう」
「あっ、なるほど!」
「違う、誰が寄越したかも分からぬ文に一喜一憂するくらいなら、わしの妻など務まらぬ。さっさと鯖江へ帰れと申しつけるつもりだ」
「またまた照れちゃってー」
ぽか、と頭を殴られた音がした。天井裏では殴った者と殴られた者が静かに小競り合いをしているらしく、御座の間には微かに埃が落ちてきた。
礼綱は何か言おうと考えて、昭姫の顔が思い浮かんだ。
短いとはいえ謝礼文を書いている最中は思い浮かばなかったのに、今となって昭姫の丸っこい人形のような顔を思い出すとは、未練がましい、女々しいと礼綱は己を心の中で叱咤する。
「考えてもみよ、『将軍家の部屋住み』などに自ら進んで近寄る女に信を寄せろと?」
礼綱が初めてその言葉を聞いたのは、齢十にもならぬころのことだった。
礼綱の父は前の将軍だった。しかし、その位に就くまでどれほどの権力争いが起き、どれほどの謀略を重ねてきたことか、父の口からぽつぽつと聞く後悔だけで十二分に察せられた。
そして、いつの間にか礼綱は元服の日取りを決められ、城奥から桔梗門口の屋敷に移ることを決められ、そこから影に日向に『将軍家の部屋住み』と呼ばれはじめたのだ。
おそらく、礼綱の父はそれ以上後悔をしたくなかったがゆえに、御三卿の仕組みに乗じた。ついぞ本人の口からは聞けずじまいだったが、宗家のため、礼綱のため、そういうことなのだろう。
ゆえに、己が高い位にあるなどと、今に至っても礼綱は到底思えなかった。
「昭姫もまだ若い、二十歳にもならぬ。であれば、よその大名にでも嫁げばよいのだ。そのくらいお上も気を利かせるだろうよ」
尻窄みの礼綱の声に、悲痛が滲む。
静まる御座の間に、軽口が落ちてきた。
「礼綱様はお利口様なのにあんぽんたんですな」
「あっ!? ……今、何と言うた? 侮辱か? 侮辱したな?」
「その程度の理など、昭姫はとっくにご承知でしょう。それでも礼綱様がよいと文をお送りなさって、その健気さは三国一」
「なぁ、三国ってどの国のことだろ?」
「尾張と三河と遠江くらいか?」
「そこ、うるさい!」
あらぬほうへ飛び去ろうとした話を、天井裏で忍びどもがわあわあ小声で言って戻そうとしている。
一方で、礼綱はふと、あることを思い出した。
「同じことを、幼少のころ昭姫に言われたわ」
すでに遠き日々となった御城での暮らしを、礼綱はあまり憶えていない。努めて忘れようとした、と言ったほうが正しい。
ただ、母の顔も兄の顔も忘れても、あの丸っこくおぼこい女子の顔は忘れようがなかった。
「生意気にも、妾は嫁ぐならば富士丸様がよいのです、だと……それと同じことが、このあいだの文にも懲りずに書いてあった」
思えば、昭姫も家を転々としている身の上だった。
越前藩由利家から鯖江藩間部家へ、とはいうものの、その前は礼綱と同じ松平の姓を持つ大名の落胤だった。親戚伝いに遠くの国へ養女に出され、さらに回り回って江戸に帰ってきた、数奇な姫だった。
それゆえに遠ざけようとしたことも思い出した礼綱は、昭姫と真逆のことを考えていたのやもしれぬ、と腑に落ちてしまったのだ。
文を持つ礼綱の右手が、ようやく下がる。
それに応じたのか、余計な一言も天井裏から下がってきた。
「ならば、いっそのことお会いして、腹を割って話せばよろしゅうございましょうに」
その呆れたような、怒ったような声色は、まるで忍びらしくなかった。
他の忍びどもは一斉にため息を吐いている。
「お前、男女の仲というものをどうしてこうわきまえぬかな!」
「甘味に頭をやられた馬鹿ゆえ仕方なかろう」
「あいや待たれよ、その甘味の馬鹿に我々、散々に苦渋を舐めさせられましたぞ」
「それは言うな」
「寄る年波には勝てんかったのよ、うん」
何やら、天井板一枚隔てた向こうにも、色々と事情があるようだ。
そうこう考えていると、礼綱は堂々巡りで考え込んでいる己が馬鹿らしくなった。
「くくっ、ははは。何ともまあ、その馬鹿以外、ここにいるのは皆年寄りか!」
礼綱は部屋の隅にある屑籠にせっかく書いた文を放り込んだ。
襖を開け、家臣を呼ぶ。
「誰かあるか」
すぐに近くの部屋の障子が動き出し、二人ほど俊敏な動きで礼綱の前へやってきた。
礼綱は思い浮かんだことを口にする。
「昭姫のおる鯖江の上屋敷へ使者を送れ。丁重に出迎え、茶の席に招待せよ」
家臣の二人は威勢よく「はっ!」と答えたあと、顔を見合わせ、それから大急ぎで廊下を走っていった。
元気なものだ、と礼綱はその背を見送る。
踵を返して御座の間に戻れば、天井裏から紙の端切れが一枚落ちていた。
『御支仕候』、とだけ書かれた紙を、礼綱は拾い上げて懐に入れておいた。
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翌日、礼綱は屋敷へ昭姫を招き、昼前の茶会を設けることとなった。
礼綱の文に対して昭姫からの返事はその日のうちにあり、返事にも使者にも明日にでもと熱望されたため、善は急げとばかりの急事となったのだ。
屋敷の片隅、人より大きな青石の裏にある庵の茶室で、紺の羽織と銀鼠の袴姿の礼綱はじっと客を待つ。
目の前の鉄釜はじわりと熱を伝え、炉の菊炭はよく温めてくれている。
さらに畳の下には、招いてもいない客からくぐもった声がかけられた。
「茶席の庵の下には某一人しか忍びこめませぬが、応援しておりますぞ」
「そもそも忍びこむなと……いや、もういい。邪魔はせぬように」
「無論でございます」
ちなみに、しばらく使っていなかった茶室の床下は、普段は忍びの隠れ場所の一つとして使われていたようだ。
まさしくねずみのような所業、やはり人を遣ってしょっちゅう掃除をせねば、と礼綱が固く誓ったそのとき、下駄が外の飛び石を叩く音が聞こえてきた。
礼綱は一つ咳払いをして、背筋を正す。
出迎えにやった家臣からの声かけのあと、躙り口を艶やかな高島田がくぐる。鼈甲と赤漆の平打ちかんざしがその頭には大きく感じられ、やがて上がった面は忘れもしない、白粉をはたいた丸っこい顔立ちをしていた。
朱の色留袖を掴んでにじり寄ってくる昭姫と、礼綱は視線が合った。
互いに一礼をして、言葉を交わす。
「お招きいただきありがとうございます」
「うむ。久しぶり、よな」
「ええ、二年も会うておりませぬ」
「そんなにか」
昭姫は楚々と客席側へ座る。正面ではあるが、互いに斜向かいで礼綱はやっと緊張が解けてきた。
「まあ、その……気の利いた掛け物も花もないが」
「そのようなことはございませぬ。現に、お手元の器など数寄の粋のようなもの」
昭姫の視線の先には、茶碗があった。景徳鎮窯の青白磁で、外見は細かな貫入しかないが中を見れば見事な大ぶりの牡丹が彫られている。
礼綱は何も言わず、お気に入りの茶碗に、茶席の亭主として体に染みついた作法どおり、薄茶を立てる。
昭姫もまた、無駄口を叩かなかった。この場は茶の席、まずは茶を一杯いただいてから、という魂胆かもしれない。
差し出された茶碗を、見事お手本のような動きで一杯傾け、ようやく昭姫は口を開いた。
「見事なお手前でございます」
「世辞とはいえ嬉しいぞ」
「妾は礼綱様に世辞など申しませぬ」
してやられた礼綱は、目を剥く。
昭姫の爛々とした目は、一途に礼綱へ向けられていた。
「それで……わざわざお呼びくださったそのわけを、そろそろお教えくださいまし」
「ああ、そうさな、まあ」
昭姫は、気圧された礼綱の一瞬の隙を見逃さなかった。
「では、先に妾より申し上げることがあるとするならば、すでに妾は江戸に骨を埋めるつもりでまいっておりますゆえ、たとえ礼綱様の苗字が変わろうが変わるまいが終生付き従いまする。そのこと、ご承知置きいただきたく」
帛紗とともに茶を置いてから、昭姫はまっすぐに——茶室の障子へ頭と体は向いているが、明らかに礼綱へとそう言った。
先手を打たれた挙句、昭姫にそこまで言わせてしまっては、礼綱も後手に回らざるをえない。
加えて、昭姫がここまで強引に来るとは思いもよらなかったため、礼綱もすでにしどろもどろになりかけている。
「待て、それは間部も由利も関係なくということか?」
「それ以外にどう解しましょう。妾は礼綱様をお慕い申しておりますもの」
礼綱は手慰みにしていた茶入を落としそうになる。心の臓が握られたような、きゅっと息の根を止められたかのような衝撃を受けていた。
昭姫は丸っこいおぼこい顔をして、凶暴に攻め立ててくる。
「誰に命じられたわけでもございませぬ。妾が、礼綱様を、お慕いして」
「分かった、分かったからそれ以上はよい!」
「何がよろしゅうございましょう。礼綱様はまったくご存じでないから」
「知っておる! だからこそ、落ちぶれるしかないわしを見せとうないのだ」
気づいたときには、その言葉が礼綱の口をついて出てしまっていた。
うつむき、何ら誤魔化せぬというのに礼綱は押し黙る。
売り言葉に買い言葉、勢い任せに来られて、勢い任せに言ってしまった後悔は——鎧袖一触、呆れ果てた昭姫に一蹴された。
「何とまあ、来年のことを言えば鬼が笑うと申します。礼綱様が落ちぶれるなど、一体誰が決めたのですか。たとえ東照大権現様でも御一存では決められますまいに」
えぇ……、と礼綱も床下からも困惑の声が漏れる。
幸い聞こえなかったのか、昭姫は止まらない。
「それから、先回りして申し上げておきまする。妾は側室でもかまいませぬ、もし礼綱様が公方様になられた暁には、妾のような者では家格が釣り合いませぬゆえ」
「そ、れは……いや、待て、そこまでのことは考えておらぬ。考えたくもない」
「考えてくださいまし。それが御三卿当主の務めではございませぬか」
「う、うむ」
頷いておいて、しまった、安請け合いをした、と後悔しても遅い。
礼綱は、まんまと昭姫の押しの強さに負けて、言質を取られてしまっていた。
どうしてこうなった。昭姫を遠ざけるのではなかったのか、それともこうなりたかったのか。
昔はこうでなかったはず、と散々っぱら思い出を探してみるが、だんだんと思い出してきた昭姫の性格は、考えるまでもなく昔からこうだった。だから避けていたのだ、という理由まで今更思い出し、礼綱は頭を抱える。
「あら、牡丹。ふふっ、薄茶を飲み干さねば現れてくれぬ大輪の花、まるで礼綱様のようではございませぬか」
すっかり、礼綱の自問自答は、薄茶の残りで喉を潤した昭姫の口説き文句に掻っ攫われていた。
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結局、礼綱は引きずられるように昭姫との婚礼が決まった。
しかも、婚礼の日取りを御城の老中へ相談したところ、あっという間に礼綱の屋敷へお祝いの品や祝いの宴を求める声が集まって、日々何だかんだ屋敷でささやかながらも酒席が開かれている。
雪がすっかり降らなくなった夜、御座の間で礼綱は座布団を二つ折りにして横になっていた。連枝燈は煌々と、天井板は一枚だけずらされている。
「はあ……」
ぐったりとした礼綱は、少し酒気を帯びていた。
天井裏から、さも当然のように声をかけられる。
「礼綱様、宴の席はよろしいので?」
「酒は好かぬ」
「美味い酒を知らぬだけでしょう。そのうち灘の酒を持ってまいりましょう」
「灘もいいが京丹波にもよい酒蔵があるぞ」
灘だ、京丹波だ、と小声ながら天井裏で言い合いが始まる。
太平の世だからか、忍びどももどうでもいいことでよく争い、どうでもいいことでよくしみじみしている。
礼綱はぶつくさとつぶやいた。
「酒は好かぬと言うておろう……話を聞きに来ておるのではなかったのか、そなたら」
「それはそれ、これはこれでございます」
「かすていら食います?」
「天井裏の埃まみれの菓子はいらぬ」
「えー」
そう言いつつも、懐紙で包んだ柔らかい菓子が木綿紐で吊るされ、するすると降りてきた。
騒々しい連中だ、と礼綱は口角をわずかに上げ、かすていらのざらめを噛み砕いた。
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