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29話 バスルーム




扉が静かに閉まる。


アンジェラの足音が廻廊の向こうへ遠ざかっていき、やがて完全に聞こえなくなった。


ベアトリスはしばらくその場に立ったまま、部屋の中を見回していた。


大きなベッド。

磨き上げられた家具。

柔らかな灯り。


やはりどう見ても、普通の宿屋の部屋ではない。


だが、すぐにベアトリスの意識は別のものへ引き寄せられた。────浴室の扉だ。


脳内には反芻する様に先ほどアンジェラが言っていた言葉が思い出される。


『浴室には使用方法をまとめた説明書もご用意しております』


「説明書……」


宿屋でそんなものを見たことはない。

ベアトリスは少し迷ったが、好奇心の方が勝った。


えい!と浴室の扉を開く。

石造りの浴室は、先ほど捻った蛇口から静かに湯気を漂わせていた。


何度見ても見惚れてしまう大きな浴槽に目を奪われかけたが、ベアトリスはなんとか視線を横へ向ける。


浴室の手前に位置する洗面台らしき机の下。簡易な棚の中には数本の瓶が並んでいた。

その横に、立てかけられた紙。


「……これかな」


ベアトリスは近づき、その紙を手に取る。

紙には、丁寧で読みやすい文字が並んでいた。



《浴室備え付け品のご案内》


当宿では、ダンジョン探索で疲れた冒険者のため、神話や幻想の存在をモチーフにした入浴剤をご用意しております。

お好みに合わせてご利用ください。



「入浴剤……?」


聞き馴染みのない言葉だった。

ベアトリスは少し首を傾げる。

だが説明は続いていた為、疑問を呑み込み読み続けた。



■ 月竜の息吹


夜空を泳ぐと伝えられる月竜の吐息をイメージした入浴剤。


湯に溶かすと淡い銀青色へ変化し、水面に小さな光の粒が浮かびます。


効能

・精神疲労の緩和

・魔力循環の安定

・安眠効果



「月竜……」


神殿の古い伝承で名前だけ聞いたことがある。

だがその吐息の風呂、というのは想像がつかない。


絵本を読む様な感覚で、ベアトリスは次の説明へ目を移す。



■ 精霊樹の夢


世界の始まりに芽吹いたとされる精霊樹の若葉をイメージした入浴剤。


湯は翡翠色へと変化し、深い森の香りが広がります。


効能

・筋肉疲労の回復

・軽度の傷の回復促進

・体力回復



「森の香り……」


ベアトリスは無意識に自分の肩を軽く回す。

今日の探索で、体は少し重い。

そんな体にこの効果はあまりに魅力的だ、と無意識に毛先を指に絡め文字列を視線で追う。



■ 太陽鳥の黄金湯


神話に登場する不死鳥の一種、太陽鳥の羽から零れる光をイメージした入浴剤。


湯は柔らかな黄金色となり、花の香りが広がります。


効能

・血行促進

・冷えの改善

・肌の調子を整える



「太陽鳥のお風呂……」


思わず小さく笑った。太陽鳥は聖書にも登場する、この国の象徴でもあった。何度でも蘇り、人々に恩恵をもたらすその幻獣の風呂とあっては興味が湧かないはずがない。



《洗浄用備品》


・髪洗いシャンプー

髪整液コンディショナー

身体洗浄液ボディーソープ


すべて当宿特製の調合品です。

髪や肌を傷めず、探索後の疲労をやわらげるよう作られております。



「髪を洗う液体……」


ベアトリスは棚に並ぶ瓶を見た。髪を洗う整髪剤は粉末状のものしか見たことがなかった為、液体のものはヘアオイルのものしか知らなかった。


透明な液体の入った瓶。

淡い色の液体が入った瓶。


神殿の浴場でも、それはどちらも見聞きしたことすらない。


それなのに。ベアトリスは黙って液体を見つめる。


髪専用の洗浄液。

髪を整える液体。

身体用の洗浄液。


さらに神話をモチーフにした入浴剤まであるのだ。


「……よくわかんない宿屋だなぁ」


小さく呟き、棚の瓶を見比べた。


月竜。

精霊樹。

太陽鳥。


瓶詰めされた粒状の入浴剤。神職者としても、年頃の女性としても効果は気になる。


少し悩んだあと、ベアトリスは一本の瓶を手に取った。


「うーん。……あえて精霊樹かな」


今日の探索で疲れた体には、これが一番良さそうだった。ベアトリスははやる気持ちを抑えながら嬉しそうに蓋を開けた。


「ふふん、これにしよう」


宿屋に泊まること自体、あまり多くはない。


神殿では共同の浴場を使うことが多く、ダンジョンに来てからは、地域の大衆浴場を使っていた為こんな風に一人でゆっくり入れる場所はほとんどなかった。

というか、個人部屋に備え付けられている風呂なんて聞いたことすらない状態だ。


未知への戸惑いと若干の好奇心は、小さな鼻歌へ変換され溢れてしまう。その後ベアトリスは一度部屋へ戻った。


椅子の背に掛けていた自分の法衣に手をかける。

白い神殿の法衣は、長い探索のあとで少し重く感じた。


紐をほどき、ゆっくり肩から外す。

布がするりと落ち、椅子の上へと畳まれていった。

その下に着ていた簡素な下着も順に脱いでいく。


冒険用の動きやすい服だが、やはり一日着ていれば少し汗ばんでいた。


「早く入りたいな……」


思わず口からこぼれていた。

ベアトリスは自分の髪を軽く束ね直し、浴室へ戻った。




石の床はほんのり温かく、湯気がやさしく肌を包む。湯は静かに満たされ、湯面がゆらゆらと揺れていた。


ベアトリスはその光景を見て、少しだけ胸を弾ませた。こんな立派な個人のお風呂に入るのは初めてなのだから、その気持ちはもっともだろうが。


まずは体を洗うんだった、と説明書の内容を思い出しながら、棚の瓶を見比べる。


ボディーソープ。

シャンプー。

コンディショナー。


「ほ、本当に全部使っていいんだよね……?」


おぼつかない手つきのまま、まるで宝物でも扱うように、そっと瓶を手に取る。

それからもう一度浴槽を見た。


湯気の向こうに、温かそうなお湯が揺れている。先ほど入れた入浴剤がお湯に混ざるまでの間にさっさと全身の洗浄を済ましておきたかった。慣れない洗浄液に戸惑いつつ、説明の手順通りに全身を洗っていく。


最初こそ恐る恐るだったが、すぐにその手触りに夢中になっていった。


身体洗浄液は、指で軽くこするだけでふわりと泡立つ。きめ細かい泡が肌に吸い付くように広がり、探索でこびりついた汚れや疲れを、優しくほどいていくようだった。


「……すごい」


思わず声が漏れ、室内で反響した。

神殿で使っていた石鹸とはまるで違う。

こすらなくても、ただ撫でるだけでいい。


肩から腕へ、腕から指先へ。

泡を滑らせるたびに、肌が軽くなっていくのがわかる。


次に髪へと手を伸ばす。

桶で湯をすくい、頭にかける。

温かな湯が、頭皮から背中へと流れ落ちた。


「……はぁ」


久しぶりの入浴に思わず息が抜ける。

それだけで、今日の疲れが少しだけほどけた気がした。


ベアトリスはシャンプーを手に取り、少量を指先に出す。

それを髪に馴染ませた瞬間。


「わっ」


一気に泡が広がった。今まで使っていた洗浄液とは明らかに泡立ちが違う。細かく柔らかな泡が、髪全体を包み込んだ。

甘く、それでいてくどくない香りがふわりと広がる。

指を通すと、絡まっていたはずの髪が、見事なまでにするりとほどけていった。


「なにこれ……」


目に見えて艶の帯びていく髪に、驚きを隠せない。

確認する様に何度か指を通しつつ、泡を行き渡らせ後に、湯で丁寧に流し終えた。


最後に髪整液。

説明書通り、少量を毛先に馴染ませ、少し待ってから再び湯で流す。

仕上がりを確認すると、まるで絹糸のように、髪が指の間を滑り落ちた。


「さらさら……」


何度も触るも、同じ感触が続く。

信じられない気持ちのまま、しばらくその場で固まってしまった。


やがて肌寒くなったことに気づいたベアトリスは、視線を浴槽へと向ける。湯気の向こうで、翡翠色に変わり始めた湯が静かに揺れていた。


「……あ」


さっき入れた入浴剤。

どうやら呆けているうちにもう溶けきっているらしい。

透明だった湯は、柔らかな緑色に染まり、わずかに光を帯びている。


森のような香りが、ほのかに漂っていた。

ベアトリスはゆっくりと立ち上がる。

無意識のうちに自然と足取りが軽くなっていた。


浴槽の縁に手をかけ、そっと足先を湯に入れた。


「あっ……」


思わず小さな声が漏れる。

じんわりと、体の奥に染み込んでくるような感覚。

疲れていた足が、ほどけていく。


「ふわぁぁぁぁ……」


あまりの快感に声を上げながら、ゆっくりと体を沈めていった。

膝、腰、肩。ゆっくりと温もりが体内の芯まで伝播していく。

深く、息がこぼれる。

思わず目を閉じた。


森の香り。

静かな湯音。

誰もいない空間。


そのすべてが、やさしく自分を包み込んでいる。


「……これは、すごいなぁ」


ぽつりと呟く。

ダンジョンの中にあるとは思えない。


むしろ――

外の世界よりも、よほど穏やかな空間だった。

湯に身を預けながら、ベアトリスはゆっくりと力を抜く。


明日も探索だ。

朝も早い。


それでも今は、そんなことを考える気にはならなかった。

ただ、この時間を味わっていたい。

そんなふうに思ってしまうほど、この湯は心地よかった。



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