28話 エントランス
扉の奥へ一歩踏み入れた瞬間、ベアトリスは思わず足を止めた。
外の夜気とはまるで違う空気が、静かに身体を包み込む。
石と鉄の匂いに満ちたダンジョン前の空気とは明らかに異なる、落ち着いた香りが漂っていた。ほのかに甘く、どこか薬草のようでもあるその香りは、親しみのある礼拝堂を思わせる静けさを帯びている。
ベアトリスは無意識のうちに、止めた足をもう一歩踏み出した。
エントランスは決して広大ではない。
だが、その整えられ方は明らかに普通の宿屋とは違っていた。
床は深い色合いの木材でできており、丁寧に磨き上げられている。松明の灯りを柔らかく反射するその床の上には、厚手の絨毯が敷かれていた。
そのおかげか歩いても靴音がほとんど響かない。まるで足音そのものが吸い込まれていくようだった。
壁には濃紺の布が張られている。
ただの布ではない。
細い金糸で繊細な模様が織り込まれており、灯りの加減でわずかに輝いて見える。模様はどこか古い神殿の装飾を思わせる幾何学模様だった。
さらにエントランスの奥には、重厚な木材で作られた受付カウンターが据えられていた。
木目の美しいそのカウンターには、細かな彫刻が施されている。蔓草のような曲線が絡み合い、よく見れば小さな竜や鳥の姿まで彫り込まれていた。
それは王族の宮殿のような華美な豪華さではなく、
古い神殿や歴史ある館に感じるような――静かな威厳のある豪華さだった。
ベアトリスはしばらく言葉を失っていた。
(……宿屋?)
どう見ても、普通の宿屋の入口ではない。
むしろ貴族の邸宅の客間に迷い込んだような気分になる。
この宿がダンジョン探索者向けだという話を思い出し、ベアトリスは首をかしげた。
探索者向けの宿といえば、もっと荒々しい場所を想像していたからだ。
武具が壁に掛けられ、酒の匂いが漂い、泥だらけの冒険者が騒ぐような場所を。
だがここは違う。
静かで、整然としていて、どこか神秘的ですらある。
その空気に気圧され、ベアトリスは思わず背筋を伸ばした。
その時だった。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声がした。
ベアトリスが顔を上げると、先ほどまで無人だった受付カウンターの奥に、一人の女性が立っていた。
黒い給仕服に白いエプロン。
長く特徴的な赤髪を後ろでまとめた女性だ。
鮮やかな髪色とは対照的に、その佇まいは驚くほど落ち着いていた。
まるでこの静かな空間の一部であるかのように、自然にそこに立っている。
ベアトリスは慌てて姿勢を正した。
「え、えっと……ポスターを見て来ました」
アンジェラは静かに微笑み、優雅に一礼する。
その仕草は、まるで高級ホテルの支配人のように洗練されていた。
「ようこそお越しくださいました。今晩のみのご宿泊でお間違いないでしょうか」
どうやらいつの間にか、自分の要望は彼女に伝わっていたらしい。
先ほど入り口付近で声を掛けてくれた男性が、伝えてくれたのだろうか。
ベアトリスは視線だけでその姿を探した。
だが、あの背の高い男の姿はどこにも見当たらない。
いつの間にか姿を消していた。
「は、はい!」
「ありがとうございます。本日フロントを務めさせていただきます、マルティーニと申します。恐れ入りますが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
ベアトリスは胸に手を当て、少し緊張した様子で答えた。
「ベアトリスです。
回復術士見習いで……神殿所属です」
「ベアトリス様ですね」
アンジェラは帳簿らしきものを開き、丁寧な文字で書き込んでいく。
「ご利用は早朝まででよろしいでしょうか」
「は、はい」
ベアトリスは少し身を乗り出した。
「あと……朝、起こしてもらえたりしますか?」
「モーニングコールですね。承りました」
アンジェラは軽く頷いた。
宿屋では部屋の中に時計がないことが多い。
手持ちの時計があったとしても、疲れて眠ってしまえば時間感覚は狂いやすい。
だがこれで、明日の探索に遅れる心配はない。
ベアトリスはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「お会計、3ゴールドでございます。料金は前払いとなっております」
ベアトリスは少しだけ緊張した表情になり、鞄から財布を取り出した。
銀貨を数え、そっとカウンターに置く。
アンジェラはそれを確認し、静かに頭を下げた。
「確かにお預かりいたしました」
そして鍵を一本取り出す。
「当宿は開業したばかりのため、現在お部屋の等級差はございません。
客室は五部屋のみとなっております」
「五つだけ……」
「はい。本日は営業初日のため、ベアトリス様のみのご宿泊でございます」
「えっ」
思わず辺りを見回す。
確かに、人の気配はない。
「それではお部屋へご案内いたします」
アンジェラはカウンターを出て、静かに歩き出した。
アンジェラは静かな足取りで廊下を進んでいく。
ベアトリスはその少し後ろを歩きながら、きょろきょろと周囲を見回していた。
廊下もまた、エントランスと同じ神秘的な雰囲気だった。
床には柔らかな絨毯が敷かれ、足音がほとんど響かない。
壁には同じ濃紺の布が張られ、等間隔に設置されたランプが淡い光を落としている。
どこか宮殿の回廊を歩いているような気分だった。
やがてアンジェラは一つの扉の前で足を止める。
「こちらがお部屋でございます」
鍵を回し、扉を静かに開いた。
「どうぞ」
促され、ベアトリスはおそるおそる中へ入った。
そしてすぐに、目を丸くした。
壁際には丁寧に作られた木製家具が並び、荷物を置く台や衣服を掛ける棚が整然と配置されている。
窓際には小さな机と椅子が置かれていた。
そして部屋の中央には、大きなベッドがある。
「すご……」
思わず声が漏れた。
アンジェラは静かに微笑む。
「どうぞゆっくり御くつろぎくださいませ」
そして部屋の奥を示した。
「浴室、および浴槽はあちらでございます」
「よ、浴槽?」
ベアトリスは思わず聞き返した。確かにポスターには浴室付きと書いてあったが、予想していたのは女性用の大衆部屋に簡素な体を拭く水の入った桶が置かれているものであった。
浴槽という言葉自体は知っているがそれは、王族や貴族の屋敷にある特別な設備のはずだった。
ニコニコと微笑み続けるアンジェラの視線を背を押され、恐る恐る奥の扉を開ける。
そして――固まった。
「……ふわぁ」
そこには立派な石造りの浴室があった。
床は滑らかな石でできており、壁際には棚が設けられている。
その中央には、絵本の中でしか見たことない丸みを帯びた大きな浴槽が据えられていた。
ベアトリスは呆然と浴槽を見つめる。
「……本当に存在するんだ」
信じられない、といった様子で呟いた。
アンジェラは静かに説明を始める。
「恐れ入ります。浴室の使い方をご説明させて頂いてもよろしいですか?」
「は、はい!」
ベアトリスは慌てて姿勢を正した。
アンジェラは浴槽の横にある金属の蛇口を指差す。
「こちらを捻りますと、お湯が出ます」
「お、お湯が……?」
ベアトリスは思わず蛇口を見つめた。
通常、人間の文化では湯を沸かすには大きな釜が必要だ。使用人が薪を焚き、湯桶で運ぶ。鉄工業の最先端であるドワーフの街では大衆浴場というものがあるらしいが、個人宅で湯が出る設備を整えているなんて聞いたことすらない。
ベアトリスの懐疑的な視線の前に、アンジェラが軽く捻ると――
さらさらと湯が流れ始めた。
「……!」
ベアトリスは思わず一歩下がった。
「浴槽に半分ほど溜めてからお入りください」
アンジェラは続ける。
「先にこちらの『シャワーヘッド』から出るお湯で汚れを流していただき、その後浴槽へ入られるのが一般的な使い方でございます」
そう言って壁にかかっている何やら柄杓らしいものを指で示した。
「えっと……その……」
ベアトリスは少し困ったように聞いた。
「お湯の中に……入るんですか?」
「はい」
アンジェラは当然のように答える。
「湯に身体を浸して温める設備でございます。疲れも取れますので、是非」
「……へえ……」
ベアトリスは恐る恐る浴槽を覗き込んだ。
本家の神殿でも高位の聖職者しか使えない設備だ。
自分のような見習いが入っていいのだろうか。
そんな不安が顔に出ていたのだろう。
アンジェラは穏やかな声で言った。
「本日はベアトリス様のご利用のためにご用意しております。どうぞご遠慮なくお使いください」
その言葉に、ベアトリスは少しだけ安心したように頷いた。
「ありがとうございます……!」
アンジェラは部屋を出る直前、最後に浴室の棚を示した。
「こちらは石鹸と薬湯でございます。各々の説明は紙に書かれております故、お好みでお使いください」
説明を終えると、静かに一礼した。
「それではごゆっくりお休みくださいませ」
そう言って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ベアトリスはしばらく浴槽を見つめていた。
「……すごい宿に来ちゃったかも」
ぽつりと呟く。
そして恐る恐る蛇口をもう一度捻った。
さらさらと流れる湯を見ながら、思わず小さく笑った。
「ダンジョンの宿屋って、こんなすごいんだ……」
湯に反射した瞳がキラキラと輝いているようにも見えた。




