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25話 アンジェラ





「うわぁぁぁぁぁぁん!」


「うおっ」


突然の、袋を内側から引き裂くような泣き声に、ユーマは肩を跳ねさせた。


腹の底から絞り出す、子どもじみた絶叫。


静まり返っていたダンジョン宿屋の大広間に、甲高くも芯のある声が反響する。天井の古びたシャンデリアがびりびりと震え、積もった埃がぱらぱらと落ちた。


アンジェラ・マルティーニは、両手で顔を覆いながら大粒の涙を零していた。


幽体であるはずのその頬を、確かに涙が伝っている。


混沌とした状況に、ダンが困惑しながらも営業用の笑顔を貼り付けて歩み寄る。


「お、お嬢ちゃん。どうしたんだい?」


「────ずるいっっ!」


「……ずる?」


「そうよ!そこの無愛想を絵に描いたような無頼漢!」


体温を感じない唇をぷるぷると噛みしめながら、アンジェラは涙目でユーマを睨み上げる。


「……は?俺のことかよ」


「貴方以外誰がいるのよ! 貴方、自分が今どれだけの贅沢を浪費していると思っているの!?」


「話が見えねぇ。方言か?」


「私は王都出身よ!!」


ぐしゃ、と袖で涙を拭う。

だがすぐにまた溢れる。


「うおっ!?」


ユーマの胸ぐらをがしりと掴む細い体温を感じさせない指は小さく震えていた。


「わたしが……っ」


嗚咽でひっくり返るのを仮面している様な声は、先ほどの大声とは違い不安定で今にも消えてしまいそうなものであった。


「わたしが十年かけて、やっと辿り着いた宿を。あ、貴方は……」


ユーマの瞳が微かに震える。そこでようやく泣き腫らした目と

視線を合わした。初めて面と向き合った。赤毛の縁から涙がぽたりと落ちる。


そこでようやくユーマは理解した。彼女はこの宿屋の持ち主である、いやあったことに。

ついで脳裏に浮かぶのは、己の能力で部屋を魔改造した数々の所業。

無意識に握っていた拳が徐々に汗ばんでいくのを感じた。


「あー……、ごめん」


謝って済む問題ではないが謝らざるを得ない状況に、自身より二つほど頭身が下の相手へ謝罪を行う。

しかしアンジェラは眉尻を上げたままだ。


「何が悪いかわかっているの?」

「……勝手に人の家を魔改造した事です」

「そうよ!他人の家を勝手に作り変えるなんて信じられない」


それはごもっとも。

一人内容を理解していないダンをよそ目にアンジェラの言動は白熱していく。


「ここはわたしと父さんが築いた思い出の宿屋なの!勝手に触れないでよ!」


大人びた紅いルージュから漏れ出る言動は何処か幼さが残る純粋な感情の濁流であった。


「……勝手に改造したのは悪かった。後でどうにかして戻す。だけどよ────」


ユーマは一度口にその言葉を留め、何度か斟酌した後、やはり堪えきれないというばかりに口を開いた。


「大切な宿にしちゃあ、管理が行き届いてないんじゃないのか」


空気が、凍った。


ダンが「あ」と小さく声を漏らす。


アンジェラの涙が、ぴたりと止まった。


掴んでいた胸ぐらの力が、逆に強まる。


「……なんですって?」


低い地を這うような声が冷たい部屋に響いた。。

先ほどまでの子どもじみた泣き声とは違う、底冷えのする声。


ユーマは一瞬だけ視線を逸らしかけ──やめた。


「床は湿気で浮いてる。梁は魔物の爪痕そのまま。埃は積もりっぱなし。客を迎える場所とは思えねぇ」


相手から目線をずらし、アンジェラの半透明な体の奥に見えるまだ直しきれていない奥の壁のひび割れを見つめた。

絵画のような花や草を前面にちらばめた壁面に、稲妻のような歪な枝分かれしたヒビが幾つも見えてしまっている。

壁そのものは見事な作りだが、これでは壁に触れた客人に怪我をさせてしまう。


「思い出があるのは分かる。でもよ、それを改善しない理由に使うのは怠慢なんじゃねぇのか」


ダンが慌てて割って入ろうとする。


「おいユーマ、それは──」

「部屋見りゃわかるさ。丹精込めて辿り着いた宿なんだろ?」


アンジェラの緑の瞳が、揺れる。


「だったら尚更、こんな状態で満足してちゃ駄目だ。お前の父ちゃんも、家も……お前も可哀想だぜ」


胸ぐらを掴んでいた手が、かすかに震える。


怒りか、悲しみか、それとも──。


「わかったような口を聞かないで。……放置なんて、していないわ」


か細い声。


「毎日、見ているもの」


視線が、崩れた壁へ向く。


「壊れた場所は念動力で寄せて、これ以上崩れないように支えて……荒らそうとする人間は追い払って……」


唇が震える。


「これ以上、失わないように……」


ぽたり、とまた涙が落ちる。そうして溢れた一粒の涙は、やがて大量の雨となって彼女の頬を濡らした。


「でも……無理なの」


アンジェラは手を上に掲げる。


「触れないの。材料も、人も、体もない……」


ゴーストであるという現実。実体がないという制限。ユーマはこの世界のゴーストの詳細を全く知らないが、もう人間ではなくなってしまった者の悲哀がその半透明の腕から感じられるような気がした。


「わたしは排除することしか出来なかった……」


声が崩れる。


「宿屋はどんなときでも人を招き入れ、休息を促す場所なのに……!わたしはっ────」


嗚咽するように、鋭利な言葉が彼女自身を蝕む。


「父様との誓いすら守れない……!」


ツタのように絡まる父からの助言が彼女への呪いとなって、境界の曖昧な体を蝕み続けていた。悲しみにも無念にも、諦観にも嫉妬にも感じる負の感情は、責任という形になって彼女の肩に重くのしかかっていたのだ。


「だから貴方が憎たらしいのよ……!」


再びユーマを睨む充血した瞳。


「触れて、作れて、壊して、直せるくせに……!」


涙で歪んだ視界のまま、叫ぶ。


「わたしが出来なかったことを、平然とやるから!」


拳が、彼の胸を叩く。念動力とは違い柔らかな生々しい感触に、彼女も元は人間であったのだなと感じるには十分な素材であった。


「わたしが十年排除することしか出来なかった場所を、貴方は変えられる……!」


一際重くユーマの胸を殴ると、力が抜けたように足元に座り込んでしまった。


「それが、羨ましくて……悔しくて……怖いのよ……!」


しばし、沈黙。


崩れかけた壁の隙間から、外の風がひゅう、と鳴った。


ユーマは胸を叩かれた場所を一度だけさすり、座り込んだアンジェラを見下ろす。


言い返そうと思えばいくらでも言えた。


だが、喉の奥に引っかかったまま出てこない。


「……怖い、か」


ぽつりと呟く。


アンジェラは俯いたまま、ぎゅっと床を掴む。

掴めていないはずの指が、軋む音を立てる錯覚を覚えるほどに。


「わ、わたしが守ってきた形が、壊れるのが怖い。父様との思い出が、別のものに塗り替えられるのが、嫌なの」


震える肩。掠れた声が響き続ける。


「でも……何も出来ない自分も嫌い。排除するだけで、前に進めない自分が……」


その言葉は、誰よりも自分自身を刺していた。無言の時間が過ぎた後、ユーマはゆっくり歩み寄る。影が彼女をすっぽりと包みアンジェラが、わずかに顔を上げた。


「……勘違いすんな。俺は、あんたの思い出を塗り替えるつもりはねぇ」


視線を壁へ向ける。

その先にはひび割れた花模様。

ダンが静かに見守る中、ユーマはしゃがみ込む。


「俺がやった改造、当たり前だが全部が正解とは思ってねぇ。気に入らねぇなら言え。直す」


淡々と、しかしどこか力強い声が彼女の震えた拳を包み込んだ。


「でもな。壊れかけたまま止めとくのは勿体無い。ここには無限の可能性があるんだから」

「……っあんたに、何が────」

「わかるさ。この建物は端々に工夫が散りばめられている。お前の父ちゃんは凄い人だったんだな」


アンジェラの瞳が揺れる。


「だからこそ、ここを潰すのは惜しい。このままだとよくない結果になることぐらい、お前が一番わかってんじゃないのかよ」

「……でも、じゃあ、どうすれば」

「────俺を使え」


静かな断言。

その言葉に、彼女の肩がびくりと跳ねる。その肩に擦り寄りように、耳元へ声を潜め小さく問う。


「お前は、俺のこと(能力)について知ってるんだろ」

「……」


彼女は無言で頷き、気まずそうに口元を膨らませた。


「だったら俺を利用すればいい。俺もここの施設を完全なものにするって大見得切っちまったばかりなんだ」


ダンジョンで命を救ってくれた彼は、自分がこんなことをしていることなんて望んでいないのかもしれない。自己満足でも、エゴだとしても。


「怖いなら、全部俺のせいにしろ。だから、頼む」


アンジェラが目を見開く。その瞳には頭を下げたユーマの頭上が映っていた。


「俺にもここの再建を手伝わせてくれ」


彼は手を差し出す。

触れられるかどうかも分からない、半透明の少女へ。


「ここの伝統や歴史守るのがあんたなら」


低く、しかし確かに。


「俺は、前に進める役をやる。お前に出来ないところを俺が補うんだ」


アンジェラの喉がひくりと鳴る。涙が、また一粒落ちた。

だが今度は、先ほどとは少し違う。何か吹っ切れたものがあった。


「……勝手ね」


弱々しく笑う。


「無頼漢のくせに、ずいぶん偉そう」

「生まれつきだ」


ダンが堪えていた緊張した空気を腹から吹き出した。


「ぶっ!はは……!よくわからないっすけど、和解は済んだっすかね」

「和解なんてしてないわよ。この軟派男」


アンジェラはそっと、ユーマの差し出された手を見つめる。


触れられない。無意味だと、エゴだとすら思うのに。その忘れ切っていた温もりが、密かに彼女の心にも芽生え始めていた。


アンジェラは立ち上がると、もう一度その手を見つめ、やがて小さくルージュの口を緩めた。


そして、乱れていた髪を直し、ダンスの誘いを受けるように細やかな挙動で上から自分の手を重ねた。


実体はなく、なんの温度も感じない。だが確かにそこには先ほどにはなかった前向きな意思が重なったのだ。


「……やるからには、妥協はなしよ」

「ああ、もちろんだ」


勝ち気な瞳が先ほどとは違い愉快そうにユーマを貫く。


「ゴーストのしつこさを思い知らせてやるわ」

「俺も無一文の諦めの悪さを思い知らせてやるよ」


止まっていた時間が、わずかに動き出す。

幽霊の宿屋は、ようやく“守るだけの場所”から一歩踏み出そうとしていた。


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