2話 マリーとの出会い
石壁のひび割れに燧台の光が揺れ、散乱した絹のドレスや宝石の首飾りが光を跳ね返す。まるで宝箱をひっくり返した様だ。しかし同時に床には埃が積もり、腐った果実とポーションの酸っぱい匂いが漂う。片隅には魔獣の鱗でできた敷物、汚れた血痕が染み、折れた短剣が壁に刺さっている。まるで慌てた子うさぎが散らかしていった巣穴の様であった。
テーブルの上には高価な土産物達が無造作に積まれ、ピサの斜塔の様に不安定なバランスを保ち続けていた。
高木悠真は鞄から取り出した白布で口を覆い、物を移動させる。掃除の失敗例として真っ先に挙げられる『綺麗にした気になっていたが、部屋の中の物を移動させただけ』をしている訳では断じてない。一箇所に散乱する物を集め、最低限の導線を確保するのだ。もちろん腐った果実や破けている壁紙など明らかにいらない物は除外する。現に手に持っている煤だらけの黒い塊もそのうちの一つだ。
汚れがつかない様に指で摘み上げると、その掴んだ腕にもう一つの手が重なる。同時に背中に柔らかい重みが加わり、視界の端に金色が映った。
「うわー、この髪飾りルイスがくれたやつじゃん。黒に変色してんだけど」
「……汚れますよ。手伝わんなら外に行って下さい」
「あ!つめたーい」
ひどーいよ、と泣き真似をしながら彼女は指で摘んでいたそれを床に落とした。黒ずんだそれはけたたましい音を立て、石造りの床へ散らばる。俺の仕事を増やした本人であるマリーをつい睨むと、背中に抱きついたまま罪悪感すら感じられない高い笑い声が上がった。
怒るだけ無駄だと判断し、ため息を吐きながら作業を再開した。
古い革鞄から布と箒を取り出し、眼前に広がった魑魅魍魎の空間に覚悟を決める。まず、床の埃と陶器の欠片を箒で集め、腐ったリンゴを白い布に詰めた。すぐに汚物判定された様で布ごと綺麗に消えていった。鼻をつく匂いが微かに薄れる。
次に絹のドレスを丁寧に畳み、ベッドの脇に積む。10コンドルと容器に彫られたポーション瓶は一つ一つ拾い集め、棚に直線的に並べた。唯一中身の入っていた緑色のポーションは保管枠として区別しておく。
ほっぽり出された首飾りと髪飾りを木箱に収めようと木箱を持ち上げると、その下から隠れる様にハンカチが現れた。ゴミか否かを確認するため手に取ると、流れるような刺繍に目が留まった。
「これは────」
目の醒める様な藍色の生地に散らばる鈍色の星。天井の光にすかしてみると、素材の薄さから満点の星空に見える。計算された構図は何処が一枚の名画を思わせた。布地の端には薄く文字列らしきものが彫られていた。星の邪魔にならない様配慮しているのかとびきり薄い。その箇所のみを光に晒そうと、掲げていた布地を一度元に戻す。
「乙女の持ち物をじろじろ見て、なーにしてんの?」
「うわっ!?」
突然の声に慌てて背後を振り向く。抱きついたままになっていたマリーは小憎たらしい笑みを浮かべながら、こちらを好奇的な視線を向けていた。
「意外とおにーさんもスケベだねー。女の子の持ち物はあんまり見ない方が良いよん。紳士の嗜みってやつでね」
「これは、どうもすんません。紳士じゃなくて」
そうだ、今は掃除を任されているのだ。他のことを考えるべきではない。
改めて保管枠の置き場へ汚さない様にハンカチを置き、掃除に集中する為一度頭を切り替える。
軽く息を整え、部屋一体を視界にとらえた。目測で部屋の大きさを測る。広さは48平方メートルほど。現代のホテルの客室とほぼ同じ広さだ。
次に動線を調整しよう。
今のままではカウンター(入口)からベッド、テーブルへの経路が遮られ歩きにくい。効率性を活かし、テーブルを壁際に寄せ、直線的な動線を確保しよう。魔獣の敷物を中央に置き、冷たい印象の床石に柔らかさを与える。
さらに淡い青の布を壁に掛け、燧台の光と調和させる。素材の木の質感も石壁に温もりを与えるだろう。無駄な装飾を排除した部屋は、機能美が空間を再生してくれる。
────ああ、やはりこの瞬間が俺は好きだな。
掃除後の部屋の構造を考えるのは、まるで真っ白いキャンバスの構成を考えていく様な楽しさがあった。限られた部屋は残りの紙の余白を表している様で、そこに何を描くのか描かないのかを自らが自由に選択できる。今ある家具(色)を使い分けて部屋を彩るのは、昔からの俺の趣味とも言えない楽しみであった。
煤まみれになりながらも白布を鞄から出して入れを繰り返し、少しずつ部屋を片付けていった。しばらくすると部屋は散らかったうさぎの巣穴から幾分かマシにはなっていく。掃除を終えたのは窓から刺していた日光がいつの間に月光に変わった頃であった。
「よし、こんなもんか」
塵一つない床に磨かれた灯、整列したポーション棚を確認して漸く一息をつく。我ながらよくここまであの汚れを取り除いたと自負する程度には満足をしていた。何とか終わらせたことに対する達成感と疲労感が同時に頭を回り、ふらつきながら壁に身をもたせた。
すると軽い扉を叩く音と共に、何処か高揚した様な声が聞こえた。
「おーい、入っていい?終わりそーかな!おーにーさん!」
「あ、ああ。今終わったとこですよ」
作業中、マリーは途中で俺を揶揄うことを飽きてしまったのか部屋をいつの間にか出ていってしまっていた。戻ってきた彼女は今朝見た服装とは違いラフなズボンに黒い長袖らしきものを纏っていた。
「わはー!すっごい綺麗になってる!」
扉を開けた俺の腕から器用にすり抜ける様は元気な小動物を思わせる。家主は自身の部屋だと言うのに綺麗にした箇所の一つ一つを目ざとく見つけ、オーバーリアクションにも近い反応を見せてくれた。側から見ればわざとらしさすらあるその反応だが、疲れ切った心身には充分過ぎるほど癒やされてしまう。頑張って、良かった。
「言われた通り要らなそうな物はその袋に纏めてあります。最終確認して捨てて来てください」
「はいはーい!」
「それから服はこの棚に。流石に女性の服の良し悪しはわからないので、破れてるのを除いて全て保存してます」
「えー!おにーさん、もしかして下着見たの?エッチ!」
「それから────」
「なんか反応して!?」
一通りの説明が終わると、マリーは嬉しそうに礼を言い同時にあるものを背後から取り出した。それは掃除の対価としてマリーから提示された3コンドルであった。
「はい、約束のお代!たまに覗き見してたけど、盗んだ物もないようだし」
しれっと付け足された事実に反射的に眉を顰めたが、マリーは面白そうに身を屈めこちらを覗き込む。ふわりの緩やかなウェーブの金髪から垣間見える意志の強そうな灰色に近い水色の瞳。何処か嗜虐的な笑みを浮かべる彼女はただの厚意で俺を雇ってくれた訳ではなさそうな気がした。
「お眼鏡に叶ったようで」
「うんうん。やっぱり誠実さと素直さのある男の人は魅力的だよ!はい、これ」
突然手渡されたのは盆にのせられた一杯のスープ。白濁色の汁に何やら野菜や芋らしきものが煮えられている。どうやら部屋に来た時に持ってきてくれたようだ。
「正直こんなにきっちりやってくれると思わなかったからさ。昼食も食べてないよね?」
言われてみれば確かに、と自らの下腹を少しさする。その動作に応えるように腹の虫が低い唸り声をあげた。魚介の匂いが混じるクラムチャウダーの様な料理を一瞥し、もう一度彼女と目を合わせる。
何処か気まずそうにしながら昨日とは違う素の色を見せる唇を尖らせた。先程の傲慢な態度がひっそりなりを顰めてしまっている。最後にもう一度盆上にのった腕を見つめた。
また揶揄われるのではないかと慎重にスープを口に運ぶ。しかし予想に反し芋と貝?の入ったそれは優しいホッとする味であった。白の中にひたらされた緑は何かの野菜なのだろう。朝一番に飲みたくなるような、同時に一日の締めに食べたくなるような丁寧な味付けをしている。あまりの美味しさに少し勿体無いと思いながら、無我夢中で胃にかきこんでしまった。
少しぬるいのは俺が話しすぎてしまったせいだろうか。だとしたら少し申し訳ない気持ちになった。
「ふふ。おにーさん、犬みたい」
「うるさい」
安心からか敬語が外れたことに後で気づいたが、マリーは気に求めず笑みを浮かべたまま自身もゆっくりとスープを呑み始めた。しばらく無音の食器の音のみが響く時間が過ぎる。
お互いが食べ終わったのを確認して、俺はマリーに向き合った。
「美味しかった。ありがとうな」
「んん……、そこまで真っ直ぐ言われると照れるなぁ」
「素直さは良い男の証なんだろ」
マリーの目が僅かに見開かれる。
「わお。良い性格してるね、おにーさん」
「おじょーさんの素直さには負けるな」
「良いんですー。女の子はちょっと意地悪な方がモテるの!」
ベットの脚を背もたれにしながら食べ終わった食器を片付け一息つく。ついでに土産物の中から特産品のワインを取り出してきたマリーと一瓶を開けてしまった。室内にはアルコールの煮詰まった匂いと掃除後の俺の汗の匂いも合い混ざり妙な気怠い空気が部屋を流れていた。不意に視界の端で光の中に映し出された影がチカチカと点滅しているのが見える。
「なんだこりゃ」
「んんぅ、なになに?」
隣の綺麗になったカーペットの上で横になっていたマリーが起き上がり、俺の視線をの先を辿るように見やった。二つの視線が交わった先には俺が持ってきた鞄がまるで目覚ましのアラーム機能の様に光を点滅させ、存在を主張している。
────やっべ。まさか使い過ぎて壊れたか。
酔いが飛ぶ勢いで頭をよぎったのは、この部屋全ての汚れや壊れ物を分別せずに入れていた頃に記憶。いくら入れても壊れる気配がないため腐った液体物やよくわからんガラス状のものも入れてしまったがそれがまずかったのだろうか。点滅って今までの経験上、良くない時にしか起こらない気がするのだが。
一度落ち着くために深呼吸し、肩越しに身を乗り出してきているマリーに顔を向ける。彼女との間に妙に緊張感のある無言の時間が流れた。
「……爆発したら悪い」
「一回落ち着いて、おにーさん。爆発は謝って済む問題じゃあないよ」
それはそうだ。でも謝らなくて爆発するよりは良いんじゃないか。そんな明後日の方向に意識を飛ばしながら、恐る恐る鞄に触れると、上空にスクリーンの様なものが現れた。
『いごごち度レベルアップ 獲得機能“浴室“』
なんか知らん間にレベルアップしている。
目の前の現れた白い画面を、俺はただぼんやりと眺めていた。いやいや、少し待て。大人の階段でももう少しゆっくり登るぞ。急にバージョンアップしないでくれ、iPhoneかお前は。
「どーしたの?おにーさん」
「え、いや。これ……」
表示されている鞄の上空を指差したが、彼女は眉尻を下げ首を軽く捻る。他人には見えていないのか?
『新しく機能が追加されました。設置しますか?』
眼前にゲームシナリオの選択肢の様なYES or NOが表示された。助けを求めようと何度もマリーを見るが、発光している鞄の方に目が入っている様で興味深そうにポケットの中を青色のネイルで弄っている。
向き直り少しの間の後、恐る恐るYESの表示をタップした。すると赤色の透明なタイルの様なものが宙に現れる。ピコピコと点滅しながらタイルの上空には『設置面積が満たされていません。何もない部屋に設置面を設定して下さい』と表示されている。
光ったままの鞄を持ちマリーに近くの無人部屋の場所について尋ねる。するとこの階の端に物置崩れの様な部屋が存在するらしい。
「ここか?」
「うん。この階の端は階段からも遠いからゴミも人も多分捨てられていないと思う」
「後半は聞こえなかったことにする。よし、開けるぜ」
立て付けの悪い扉をなんとか開けてみると、確かに部屋の中は荒らされた様子やゴミ溜めがある訳ではなく石造りの硬い床に埃が積もっている程度であった。
再度赤の透明なタイルを表示すると緑色に変わり、『設置準備完了』と表示されている。恐れ半分、好奇心半分で決定ボタンをタップした。
黒い岩壁がきしむと、ひびの隙間から淡い光が滲み出し、次の瞬間にはその破片が鏡のように砕け宙に舞った。隣にいたマリーは突然のことに驚いたのか俺の手首を強く握った。しかし俺は目の前の光景から目を離すことが出来ずにただ呆然とその神秘的な様子を眺めていた。光を帯びた欠片が万華鏡の模様のように幾重にも広がり、形を変えながら壁に重なっていく。ざらついた石は、鮮やかな幾何学模様に塗り替えられ、やがてそれが静かに収束していくと、白く光沢を帯びたタイルの壁へと落ち着いた。
足元の床もまた、割れた鏡片がくるくると回転しながら並び替わり、冷たい岩壁の凹凸を消し去っていく。最後に水面のように光を反射する四角形が整列し、そこに温かな湯気が立ち昇った。
先程まであった洞窟特有の陰鬱さは、まるで幻影が剥がれ落ちたかのように消え失せていた。残ったのは二畳ほどの小さな浴室────けれどなにより清潔で美しかった。
生暖かい湿った空気を顔面に浴び、自分が昨晩から働き詰めで風呂にすら入っていないことに気付く。掃除のこと、食事のこと、金のこと、未来のこと。色々と考えているうちにそんなことすっかり頭から抜けていたのだろう。
「────酒飲んだ後風呂入るのってマジィかな?」
説明も考えるのもめんどくさくなり腕を掴んだまま呆けているマリーに少しおどけて問いかける。彼女は最初何やらを考えていた様だし実際何度か口を開きかけた。けれども最終的に金髪を手でガシガシと掻き、右手に握っていた瓶を傾ける。
「……夜の化粧落としがダルい時の攻略方法知ってる?」
突然の質問に首を横に振ると、顎を掴まれ無理やりマリーと同じ目線に合わせられる。右手に握られていた瓶は掲げられ、明るい室内では飲み口の奥の液体がはっきりと見える。赤黒い液体がゆっくりと波を作り飲み口から溢れ出る瞬間がスローモーションの如くコマ単位で再生される。あ、と気づいた瞬間にはもう遅く顔面から上半身のシャツに至るまでワイン塗れになっていた。
そのまま顎を引き寄せられ、マリーの端麗な顔が息遣いが聞こえるほどの距離になる。サファイアの様なネイルが俺の顔ごとワインに濡れ、毒々しい光をギラギラと反射していた。
「もっと汚して入らざる状況を作るべし、ってね」
半分ほどのワインがシャツの染みに変化した後鼻の頭についたワインをぺろりと舐められ、ようやく顎を掴んでいた手を離して貰えた。
「はやくはいろーよ。こんな綺麗なお風呂、初めて見たかも」
「一緒にか」
「いや?」
上目遣いで見つめられ、不覚にも鼓動が跳ねる。長くない付き合いだがこれはわざとやっているとわかる程度にはあざとい。しかしこれを跳ね返す理性も体力も今の俺には残っていなかった。とりあえず早くこの体の汚れと疲れを落としたい。
「……流石に下着は着けてくれよ」
元気な彼女の返事を聞きながら、後ろ手に扉を閉めた。
蒸気が柔らかく漂い、湯気に混じってほのかに檜のような香りが鼻をくすぐる。浴槽は石を組んだはずなのに、どこか職人の手が入ったかのように滑らかで、湯の温度は肌にぴたりと合っていた。
「……なんで完璧にちょうどいい温度なのよ」
肩まで湯に沈み、マリーは吐息を洩らす。普段は軽口ばかりなのに、今は声の棘が抜けていた。
「このお風呂が出来たのもおにーさんの力ってこと?」
「多分な。俺も詳しくはわかってない」
「魔術関係は私も詳しくないけど、今はここまで進化してるのね。びっくりしたわ」
悠真は浴槽の縁に腰かけ、濡れた前髪をかき上げるマリーを横目で見ていた。湯に映える金髪は上にまとめられ、漏れた一筋の金が首筋にピタリと張り付いている。
沈黙。
今までのマリーならからかいの一つも口にするはずなのに、今はただ目を閉じ、湯を指先で揺らしていた。彼女の指につられ、小さく波飛沫が跳ね俺のズボンに小さなシミが広がっていく。
二人の間に流れるのは湯の音と、互いの体温を感じる距離感。恋人同士のような甘さはない。けれど、孤独を抱えた者同士の心地よい沈黙がそこにあった。
「……おにーさんはさ、他に何が出来るの?」
「他?」
「魔法のこと。掃除もお風呂も出来るんだから他にも隠してる感じ?」
「さぁなぁ、俺もよくそこら辺はわからん。家事をやるのは好きだから便利ではあるがな」
マリーは笑顔を戻し、軽口を叩く。
「家事が好きなんて変わってるねぇ。めんどくさいだけじゃん」
「もちろんめんどくさい時はある。でも自分の居場所である家を整えるのは嫌いじゃねぇさ」
仕事から疲れて帰ってきて、あったかい飯を腹の中にかき込んで、風呂に入り安心して布団で寝れる。それは何にも変え難いかけがえのないものだということを俺は知っている。
「俺はこの魔法を気に入ってるよ」
自然と弛んだ頬を隠すため、湯を顔に浴びせ顔についた汚れを取る真似をする。マリーからは少し息の詰まった声が聞こえ、続いて笑い声に変わっていた。
風呂場に反響する声は、蛇口から滴る水滴が三滴ほど湯の面に落ちた辺りで漸く止まった。
「おにーさんさ、うちに住まない?」
「……急にどうした」
「お風呂なんて高級なもの、そうそう入れないしね。おにーさんがその魔法を私のために使ってくれるならご飯に困らない程度は養ってあげるよ」
眼前にある薄い両手のひらがふわりと頬を包んだ。
「私の犬としてね」
常人より少し低い体温が脈を打ち、手から顔に伝播していく。目を逸らすことを許さず、透き通った瞳が細められた。
「丁度、ペット探してたんだ。おにーさんなら手もかからなそうだし楽でいいね」
「よくねぇよ」
「じゃあどうするの。ここから外に出て行く宛はあるの?」
嗜虐的な笑みを浮かべながら首を傾げるマリーに、咄嗟に言い淀んでしまう。目線のみを下にずらしたが、顔ごと強引に上を向かせられ目線が再び重なり合う。
「────お手」
マリーは口角を上げ、犬にする様に手のひらを差し出す。眉を顰め、男は目線を下にずらした。そして手のひらを幾ばくか見つめ、はぁ、とため息をつく。
「あ」
風呂の湯が小さく揺れ波紋を描く。水滴のついた壁に照らし出された影が重なり、一つの歪な影になった。そしてすぐに大きな影が小さな影から離れ距離を取る。
「……聞き分けの悪いパピーね」
マリーの差し出されたままになっていた手の先には小さく歯形が残されていた。男は何処か得意げに、わんと鳴いた。




