16話 決意
オルフェの去った部屋には冷たい圧がなくなり、いつも通りの空気に戻る。悠真は床に手をついたまま、荒い息を不規則に繰り返した。いつのまにか唾を飲むのを止めていたのだろう。喉の奥が乾燥し焼けるように痛む。
スライムは胸元の上でぴちゃりと鳴き、怯えたように体を小さく縮めた。
扉の前に立つ男は、灰色のマントを翻してゆっくりと剣を下ろす。
「……よぉ、いつかぶりだな。クソガキ」
低い声に、悠真は顔を上げる。
見えたのは、日に焼けた肌と鋭い灰色の瞳。無精髭に乱れた黒髪。
見覚えが──ない。
「……誰だ、お前」
「あ"ぁ!?お前、俺のことを覚えてねぇのか!?」
男は外套を外し、乱暴に机の上へ放る。口調には呆れと苛立ちが混ざっていた。
「休憩所でのこと覚えてねぇのかよ」
言われて、悠真はなんとか記憶を手繰り寄せる。
リオの命を助けられ、休憩所に行き、掃除をして。────あ。
「……あの時の、バカにしてきた人」
「ガルドだ。名前ぐらい覚えとけ」
ガルドは短くため息をつき、壊れた椅子を足でどかした。
「腑抜けた奴だとは思ってたが、まさか顔まで忘れられるとはな」
悠真は喉を押さえたまま、かすかに笑う。
「……悪い。人の顔、覚えるの苦手なんだ」
「苦手っていうか、もう病気だろそれ」
「うるっっせぇな」
ガルドは肩を竦め、机の上に乱暴に座った。その振動で床が大きく揺れる。
「……あの蛇野郎に心当たりは」
「全く。監査官がどうとか言ってたが、よくわからねぇ」
「監査はダンジョン全体の不正や腐敗を監視するって名目の粛清機関だ。よほどのことがない限り動いたりはしない……が、監査官があいつだとどうもな」
「知り合いか?」
「……何回かやり合ったことがな。だが冒険者なら基本あいつら統制局のことを敵対視してるぜ。仲良くなるぐらいなら、舌切って死ぬやつがごまんといる」
ガルドは顎を掻きながら、ランプを拾い上げた。
「理由は知らねぇが、統制局の犬にマークされたってことは厄介な連中に目をつけられたってことになるぜ」
「……なにもしてねぇ」
「火のないところに煙を立たせるのがあいつらのやり方だ。真偽なんて最初から気にしちゃいねぇ。ダウトと言われた後に無理やりジョーカーを押し付けられるのさ」
めちゃくちゃだ。そう言いたくなる気持ちを抑え、唇を噛む。ガルドの声が一層低くなった。
「理由は知らんが面倒ごとを起こす気がないなら、ダンジョンから消えろ。ここはゆっくり穏やかに生活出来る場所じゃねぇんだ」
そう言い残すと、ガルドは背を向け部屋を出て行ってしまった。残ったのは無様に尻餅をついた男と一匹のスライム。
悠真は拳を握った。喉にまだ残る痛みの奥で、胸の中の何かが微かに軋んだ気がした。
確かに本音を言えばここから出ていきたい。治安は悪いし、外は血や下水の臭いが充満している。夜の酔っ払いの声もうるさいし、派手にものが壊れる音も頻繁に聞こえるのだ。ついさっきも知らない理由で殺されそうになり、1秒だって早くここから逃げ出してしまいたい。
だがこの部屋だけは温かいスープと柔らかい毛布に包まれ眠ることができる安住の地であることも確かだ。ここを出て行ったところで他に行く宛も金もないのだから、手放す気はさらさらない。俺が家を捨てるなんて、そんなことは絶対にあり得ないのだから。
「……となると、邪魔なのはこっちか」
正直マリーが今の失踪事件の犯人だろうが関係者だろうがどうでも良い。罪を見つけ出すのが警察の仕事で罪を裁くのは裁判官の仕事。なら俺は俺の目的のために動くだけだ。
俺の目的はただ一つ。今の温かい生活が続けられなくなる事態を絶対に避けることだ。そしてそれらを阻む要因を確実に排除しなければならない。そうしなければ俺は本当に、次こそ死んでしまうだろう。
「事件のことを調べなきゃな」
そうして全ての邪魔の要因である失踪事件について、解決とも隠蔽とも違う道へ、男は一人舵を切った。




