13話 夜
小さなリップ音が玄関に響き、頬からマリーの顔が離される。
「わすれもんは?」
「ありませーん」
マリーは元気よく返事をすると横に立てかけていた姿見で全身を確認し、満足そうに頷く。今日はいつもより早くに起きて準備をしていたし、メイクも服も気合いが入っている。
「おっけ!ご飯は机の上に出しといたから、煮て食べてね。棚の右にあるのが夕飯、左のが朝ご飯」
「朝飯?一緒に食わねぇのか」
「うん、今日はちょっと遅くなるから先に寝てて。同業の人たちに会う約束があるの」
「……ふーん」
「まぁ、仕事の延長みたいなもの。たまには私の宣伝もしないとね」
腰のガーターにいくつもの小瓶を留め、香りの強い香水を首筋にひと吹き。香りは強いが、先ほどの髪の清潔な香りと不思議と混じらない。むしろ両方が調和して、ひとつの香のように漂った。
「ふふ。これ、ウケそうだなぁ……。ねぇワンちゃん、私、ちょっと見せてくるね」
「見せる?」
「この髪。あの子たち、美容にうるさいから絶対羨ましがるもの」
彼女は軽くウインクをして、扉に手をかけた。
「じゃあ留守番よろしくね。あ、ついでにまた掃除でもしてていいよ。今日は何が起こるか楽しみにしてるね」
「……俺の予定をなんで知ってんだ」
「勘。あと、あんたの顔に“また上がった”って書いてある」
マリーは笑って出ていった。
扉が閉まる直前、金髪が朝の光を受けてきらりと揺れた。
静かになった部屋の中、湯の香りだけが残る。
悠真はため息をつき、掃除用の布を手に取った。
「……ほんと、落ち着かねぇ奴だな」
だが、彼女が出て行った後の浴場には、微かに光る魔法陣の痕跡が浮かび始めていた。それは新しいスキルツリーが開きつつある、わずかな前兆だった。
月の光が反射した石畳を、マリーは静かに歩いていく。街灯の暖かな光が、彼女の髪に反射して金色の輝きを放った。普段でも高級娼婦として名高い彼女だが、今日の髪はまるで夜の光を吸い込んだかのように艶やかで、一本一本が滑らかに流れ、風に揺れるたび光を跳ね返す。
顔にかかる薄いヴェールの下から覗く頬は、まるで陶器のような滑らかさで、艶やかに輝いている。風が通り抜けるたびに、肌の柔らかさと健康的な色合いが際立ち、通りの人々の目を引いた。
通りを行き交う者たちが、思わず足を止める。商人も旅人も、石畳を掃く少年も、その歩みに目を奪われ、立ち尽くす者すらいる。
だがマリーは気に留めることなく、ゆったりとした足取りで歩を進めた。その姿勢、微笑、そして髪や肌の輝きが、街の薄暗い石造りの建物の合間で自然と目立ち、まるで周囲の景色を柔らかく照らす光のようだった。
人々の視線を感じるたび、彼女は軽く微笑む。その微笑には、自慢も虚飾もなく、ただ静かな自信と余裕だけが宿っている。それでも、見る者すべてを引き込む力を持っていた。
酒場の前に差し掛かると、入口にいた常連や通りすがりの冒険者たちも、思わず振り返る。マリーの髪の艶と肌の輝きは、昼間の酒場のざわめきに勝るほどの存在感を放ち、街の片隅でひときわ目立つ光景となった。




