11話 帰宅
「ただいーまっ!」
扉を開けると鼻を刺す様なアルコールの匂いと共に、マリーが抱きついてきた。首筋に幾度もキスをされ、艶やかなルージュが首元に移る。
「酒くせぇ」
「んふ!今日はいつも以上にみんなに美しいって言わたし、いっぱいお客取れた!体調も絶好調だしもうサイコー!」
「今まさに酔っ払ってる奴が何言ってんだ。ほら離れろ」
しかしマリーはユウマの胸元に顔を埋めたまま、離れようとしない。
「……ねぇ、おにーさん」
「ん?」
「た・だ・い・ま!」
至近距離で怒鳴られ、思わず顔を顰めた。しかし彼女が不機嫌そうに顔を傾け何かを待ち侘びた様な表情を浮かべる。少し考えた後悠真はあぁ、と腑に落ちた息を吐く。
少し迷った後、恐る恐る額にキスをした。
「……おかえり」
それは昨晩マリーと共に決めた同棲中のルールの一つであった。どちらかが帰ってきたら必ず『ただいま』と『おかえり』、家を出る時には『いってきます』『いってらっしゃい』と言い、頬か額にキスをするというものだ。
最初は何処の新婚だと思ったが、ご主人様の言いつけは絶対の様でどうにも押し切られてしまった。まぁ、無職の俺に飯を作ってくれる彼女の我儘なのだから多少は無理してでも叶えるのが筋ってものだろうが。
望んだ答えだったのか、彼女は酒で熱った頬をさらに赤くし、嬉しそうに微笑んだ。
「わんちゃんはいいこだね!よしよ〜し!」
わしゃわしゃと撫でられていると、突然ピタリと手の動きが止まる。そして首元の襟を捻られ、より近くマリーの肩に顔を埋める姿勢になった。近くで深呼吸する音がした。
「……なにこの匂い」
マリーの声が一段低くなる。次いで頬を両手で挟まれる。彼女の瞳は怒っているのか、驚いているのかわからない感情をしていた。この目は少し苦手だ。まるで濡れた真綿で首を絞められる様な錯覚に陥るから。
湯気が立ち込める浴室の中で、悠真はタオルで髪を拭きながら、ぎこちない苦笑を浮かべる。
「犬扱いしてるのはそっちなのに、随分嗅ぎつけるじゃねぇか」
「他の子と遊んだの?」
「あ?何の話だ。シャンプーのことじゃねぇのか?」
「……え」
マリーはそこで初めてあたりに目を向ける。鼻を癒す様な心地よい清涼感のある匂いは彼から、細かく言えば彼の髪から漂っていた。そして近くには昨日までなかった白い瓶。
「────もう!ややこしいことしないでよ!」
「あいってぇ!!」
乾いた音が浴室にこだました。
##
マリーは新しく自分用に作られた紅色の瓶を好奇心が入り混じっていた視線を向けている。そしてその視線は浴槽に張られていた湯の方にも向かった。湯の表面は微かに光を帯び、香りは彼女の好みに近いバニラとハーブの中間。
「おにーさんに私の好み教えたっけ」
「いや、俺はただシャンプーしただけで――」
悠真が言葉を探すより先に、マリーは彼の髪を掴んだ。指を通した瞬間、目を見開く。
「……サラッサラ。なにこれ、宮廷係付けの美容師でも呼んだの?」
「いや、勝手にこうなった」
「“勝手に”って言葉、魔法師の世界で一番危険なのよ?」
マリーは眉を寄せ、湯の表面に手をかざした。
細かな魔力の粒子が舞い上がる。彼女は目を見開きそして、ふっと笑った。
「ねぇ、ワンちゃん。あんた、ほんとに何者?」
「ただの掃除が得意な人間だよ」
「ふぅん……掃除でスライム呼び出して、風呂で祝福発生させる“ただの人間”、ね」
マリーはそう言って、彼の頬を指でつんと突く。
からかうようでいて、瞳の奥にはほんのわずかな警戒と、好奇心の光があった。
「ま、いいわ。部屋が綺麗でいい匂いになってるなら、それで合格。
────じゃあ今度は私の髪でも洗ってもらおうかしら?」
「冗談だろ」
「半分ね。もう半分は、確認よ。あんたの“力”がどこまで届くのか」
マリーは笑って立ち上がる。
その笑みは柔らかいが、元冒険者特有の“勘”が働いているのがわかった。
寝巻きを取りに行こうと浴室の扉を出ていく直前、彼女は振り向いて言った。
「……ねぇ。おにーさんってさ、もしかしてこの宿そのものに好かれてるんじゃない?」
冗談めかした一言だったが、その言葉に悠真の胸が微かにざわついた。さっき見た“部屋の残留物”と、“スライムの誕生”。全部、偶然にしては噛み合いすぎている。
「もしそうならこっちからプロポーズしてるさ」
湯気の中、静かに笑いながら悠真はバスタオルを肩にかけた。




