10話 ヘアケア
光のウィンドウが宙に浮かんだまま、悠真はしばらく考え込んでいた。
風呂エリアの強化――その中に並ぶ三つの選択肢。
【清潔状態Lv2】
【未解放スキル:ヘアケア/ボディケア
解放済みスキル:湯の効果 スキルレベル1】
それぞれに説明のようなものが添えられている。
《ヘアケア:洗浄・整髪・香気の持続効果を付与》
《ボディケア:皮膚・爪・体表の回復促進効果を付与》
《湯の効果:入浴による疲労回復・魔力回復効率上昇》
「……普通なら“湯の効果”一択だよな」
冒険者が多いと聞かされたこの街であれば、戦闘疲労や魔力消費は日常茶飯事だ。けれど、悠真の生活はそれとは程遠い。戦うことも、魔法を使うこともない。あるのは、掃除と生活だけ。
視線がふと、マリーの置きっぱなしの櫛と机の上に転がる香油の瓶に止まった。今朝の彼女の髪――朝の光を吸ったような金色の束を、思い出す。あの時は寝ぼけていたが、今思い出してみれば艶やかな髪になっていた、気がする。
「……ヘアケア、か」
湯の効果という全体的なものであの仕上がりなら、ヘアケアを強化した場合どうなるのだろうか。独りごちるように呟いて、悠真は指先で“選択”を押した。
瞬間、光が弾ける。
空気がわずかに震え、浴室の方から“しゃらん”という微かな音が聞こえた。何かが静かに目覚めるような、柔らかい音だった。
《スキル【ヘアケア】が開放されました》
《対象エリア:浴室》
最初は単純な「ヘアケア」だった表示が、次第に枝分かれしていった。
《ヘアケア:強化要素を選択してください》
・シャンプー
・コンディショナー
・トリートメント
・ヘアパック
・ヘアオイル
・ヘアミスト
・ヘアブラシ
「……なんだこれ、まるで美容院のメニューだな」
思わず苦笑しながら、悠真は一番上の【シャンプー】を選択した。理由は単純にヘアケアに疎い自分が一覧の中で知っている唯一の単語だったからだ。選んだ瞬間、指先から柔らかい光が浴室に広がる。
《シャンプー強化を選択しました》
《対象エリア:浴室》
《自動調整機能:使用者の髪質・体質・精神状態に最適化された調合を行います》
「自動調整……? つまり、その人に合わせて変わるってことか?」
使用者の欄にとりあえず自身の名前を入力する。
興味半分で調合と綴られたスペースを押すと、透明な液体が空中にとろりと流れ出た。幼い時にニュースで見た宇宙での無重力の空間で浮いた水の塊の様なふわふわと頭上を漂う。軽く指に触れた瞬間、どこか懐かしい温度と香りを感じた。最初は柑橘のような爽やかさ、次に微かな甘み、最後に落ち着いたウッドの香。そのすべてが今の気分にぴたりと寄り添うようだった。
しばらく光と蒸発する様な音を立てた後、シンプルなデザインの瓶がポンッと音を立て現れた。
「……すげぇな、これ。まるで俺の気持ちを全部読んでるみたいだ」
試しに瓶を浴室に持って行き、少し早いがシャワーを浴びた。簡単に湯を浴び、恐る恐る作られたばかりのシャンプーを髪に垂らし泡立てた。最悪失敗しても自身は短髪の為、大したことにはならないと思っていたが成果は自身の陳腐な想像を軽く超えてきた。
泡が流れていくたびに、髪が軽くなる。湯の温度も勝手に心地よい温度に調整されているらしく、頭皮に触れる感覚が心地よい。まるで誰かに丁寧に手入れされているような錯覚さえ覚えた。
泡が光を帯び、浴室全体に薄い膜のような清潔感が広がる。洗浄というより“浄化”に近い。
鏡の曇りも消え、湯の中の気泡が細やかに整列していた。
《ヘアケア:シャンプー Lv1 解放》
《効果:使用者に最適化された洗浄・香気調整・衛生度上昇(持続)》
スキルの説明が表示されたが、実際の感触の方がよほど現実的だ。ただ髪を洗っただけなのに、思考まで軽くなるような清涼感。
指先から滴る湯の粒がきらめき、淡い光を放つ。不思議と、赤の部屋の不気味な空気さえも、遠ざかっていくように感じた。
それが単なる気分の問題か、それともスキルの効能かは分からない。けれど、確かに“何かが整った”――そんな感覚だけは、胸の奥に残った。
「……ま、初回にしては上出来だな」
そう呟いて、悠真は湯の中で静かに息を吐いた。
その頃、廊下の方からは、軽い足音と扉をノックする音が聞こえていた。
「おにーさん?もしかしてお風呂入ってる?」
マリーの声だ。
いつもの調子なのに、どこか弾んでいる。
悠真は湯の中で軽く息を吐いた。
「……悪い、ちょっと今、髪の手入れ中」
「なにそれ!? どうしたの急に!?」
扉の向こうから笑い声が響いた。あまりの心地よさに惚けていた意識を無理やり現実に戻し、今日の成果を報告しようと浴室の扉を開いた。




