ブラック企業の終焉
### 第1章:過労死とダンジョンの目覚め
オフィスの蛍光灯がチラつき、濁った様な光が机にある書類の山、エナジードリンクの空き缶を照らす。すっかり暗くなったフロアではパソコンのタイプキーを押す少し耳障りな音のみが反響していた。
高木悠真、26歳。ブラック企業の営業マンとして、終電を逃す日々が続いていた。目の下のクマは夜を明かすにつれて段々と深くなっていく。普段より乱暴に音を立ててキーを押す指に力が入った。そうしなければ自分の意思に関係なく震えている指が他のキーを押してしまうのだ。
最後に一際高い音が響き、悠真はヘロヘロになりながら背もたれに身を預けた。ネクタイを右手で緩め、詰まった息を吐き出した。なんとかまとめ終わった資料を最終確認しながら、なんとはなしに時計に目をやる。時計の短い針はギリギリ4の手前の午前3時を指していた。フロアの中に小さく舌打ちが響く。
「今日も家に帰れなかったか…」
悠真は呟き、よれたネクタイの先を胸ポケットに入れた。働かない頭で思い出すのはもういつ帰ったかも思い出せない狭いワンルームマンションであった。
安い賃貸のベッドと小さな机だけの殺風景な部屋。それでも、唯一の「自分の居場所」であり生きていくための希望であった。
思えば両親の不仲で居場所のなかった子供時代から自身はずっと自分の居場所を探し続けていた様に思う。あの時は皆が楽しそうに家に帰る意味がわからなかった。帰っても待っているのは賞味期限の切れたパンと足の踏み場もない異臭のする部屋だけ。片付けようにも物が多過ぎて少しでも触れれば崩れてくるのが嫌だったのを覚えている。
だからなのだろう。壊れかけたテレビに映し出されたワンシーン。ドラマかCMかはわからないが、新築の一戸建て家屋で幸せそうに暮らす家族の映像が今でも頭にこびりついている。
「理想のマイホーム」という単語を皮切りに展開されるその話は自分にとって夢とも読んで差し支えないほど今の自分に影響を与えていた。自分の好みに合わせた食事も掃除も家具の配置ですら思いのままに出来る家なんて、そんなの魅力的すぎる。
────いつか、自分の帰る居場所を得たい。
その願いが、28になった今でも心の支えだった。
だが、現実は過酷だった。徹夜続きの日々、上司の罵声、取引先の無茶な要求。最近の帰る場所は隣の会議室と近くのネカフェだ。家の鍵を取り出すことすら滅多に訪れない。
ふと出来上がった何枚目かの資料の序盤に誤字を見つける。気を抜いたら寝てしまいそうな意識をなんとか堪え、キーボードの右下にある左矢印のボタンを押し続ける。カーソルが冒頭の位置に段々と昇っていき、左上に到達した。
しかし悠真はそのキーボードから指を離すことなく、ただ画面を眺めていた。カーソルは資料の明後日の方向に飛び、所定の位置よりもだいぶ前に移動し続けていた。
力み過ぎた指先に血が籠り赤くなる。それでも何故か止めることなく押し続けていると、パキンという甲高い音を最後にフロアに響いていた音が留まった。
悠真はその黒目をカーソルから手元に落とす。押し続けていた左矢印のキーボードの場所が黒い機械面に変わっていた。床下を見るが目につく場所にキーカバーは落ちていない。
────めんどくせぇな、何処いったんだ。
節電のためフロアの明かりを灯すことは許されない。何とか携帯の明かりを頼りに無くしたキーを探そうと身を屈める。
「……あれ」
瞬間、視界が暗転した。携帯の光が落ちた訳ではない。書類が床に散らばり、悠真の視界には机の足が映る。倒れたのだと認識するよりも先に、久しぶりに横になって眠れるというのに、硬い床では眠れそうにない。家にある使い古されたベッドが欲しいなぁと何処か他人事の様に考えていた。
「家に…帰りたかった…」
眠さによるものかはたまたそれ以外か。意識が途切れる最後の瞬間、悠真の脳裏には、温かな家のイメージが浮かんだ。だが、それはドラマで見た絵物語であり永遠に届かない夢であることを何故か妙に納得してしまった。
床には悠真の身体と共に、左矢印キーが見えづらい机下に挟まっていた。左矢印の表記の下には小さな文字で「home」と掘られている。そして突如そのキーボードが鏡文字の様にぐにゃりと曲がり、徐々に歪みの割合が大きくなっていく。
1メートル程の大きさまで成長した歪みは近くにいた悠真の身体を呑み込み、眩いまで光を放った後消失してしまった。残ったのはキーが一つ足りないキーボードのみであった。
##
冷たい風が頬を叩き、悠真の意識が戻る。目を開けると、目の前に広がるのは薄暗い岩の洞窟だった。壁は黒ずんだ岩に覆われ、ひび割れから粘つく緑の苔と赤黒い菌類が這い出し、まるで生き物のように脈動している。
床には砕けた骨や錆びた剣の破片が散らばり、ところどころにこびりついた血痕が不気味に光る。空気は重く、腐臭と硫黄の混じる匂いが鼻を刺し、喉を締め付けた。遠くから聞こえる低く唸る音に混じり、時折、岩壁の奥からカタカタと何かを引っかくような異音が響く。肌を刺す不自然な冷気が這い上がり、背筋が凍った。
どれくらいここで寝ていたのだろう。体の節々の痛みに耐えながら何とか起き上がる。遠くで低く唸る音が響き、背筋が凍った。
だが硬い床で寝ていたにしては体は軽く、触れた腕は20代前半の若さを取り戻している様にも感じた。さらに変わった要素はそれだけではない。
着ていたはずのスーツは消え、みすぼらしい革鎧と薄い布ズボンに変わっている。革はひび割れ、縫い目から糸がほつれ、まるで何年も使い古されたような粗末さだ。
混乱する中、足元に古びた革鞄が落ちていた。仕事用のボロボロのビジネスバッグが、なぜか古臭い皮の鞄に変化している。表面には不気味な紋様一一まるで目を凝らすと動くような渦巻きが刻まれ、触れるとゾクッとする温かさがあった。
「俺の鞄、か?なんでこんなボロボロに……」
悠真は鞄を拾い上げ、開けてみる。中は空っぽで、ただの革鞄にしか見えない。何か入ってれば役得と思ったがどうやら期待はずれの様だ。落胆したため息が口から漏れ出る。仕方なく唯一の手荷物である鞄を肩にかけ、改めて洞窟を見回す。
壁のひびから滴る水が、骨の破片に当たってカチンと不気味な音を立てる。頭に奇妙な感覚が浮かんだ。
空中に【居心地度:5ポイント】と、まるでゲームのステータス画面のように表示される。いや脳に直接映り込むといった方が正しいのか。
今の状況を正確に言い表す語彙が悠真には無かったが、宙に薄く文字が表示されているのは確かだった。鞄の紋章から手を離すとそれは自動的に消える。
「居心地度?…この鞄と関係あるのか?」
鞄を軽く振ってみるが、何も起こらない。混乱が増すばかりだった。
その時、背後で岩が砕ける轟音が響いた。振り返ると、闇の中で二つの赤い目が爛々と光る。体長3メートルの獣――狼のような巨体に、額から突き出た鋭い角が青い光を反射していた。黒い毛皮は濡れて光り、牙から滴る唾液が地面をジュウッと焦がす。低く唸る声が洞窟を震わせ、悠真を威嚇する。
────おいおい冗談だろ!?
なんとか叫び出したい気持ちをぐっと抑え、見つめ合ったまま後ろ足から距離を取った。相手は熊ではないし適切な対処方法なのかはわからないが他に思いつく方法がない。
しかし獣はせっかくとった距離を嘲笑うかの様に一歩踏み出す。岩床がひび割れ、殺意の圧が空気を押し潰した。
「悠長にしてる場合じゃねぇ!」
悠真は咄嗟に鞄を胸に抱え、よろめきながら逃げ出した。その時乱雑に抱えた拍子にの紋章に触れた影響からか、先程と同じ様に空中に居心地度の表示が現れた。
鞄を握りしめた際に頭に浮かぶ【居心地度:5ポイント】。しかしよく見るとポイント表記の下に薄く『変換可能アイテムあり』の文字が。システムや原理はわからないままだが、藁にもすがる思いで叫ぶ。
「何か、何か出してくれ!」
鞄の中から微かな光が漏れる。重さはあまり変わらないが、何かが変化したことは間違いない。反射的に鞄の中に手を入れ中身をまさぐる。
すると指の先に先程までなかった薄い手触りの物に触れた。迷っている暇はない。今にも飛びかかってきそうな獣を前に、一心不乱にその何かを引っ張り上げる。
想定したよりかなり軽いそれは簡単に鞄から外へその姿を見せる。ふわりと翻ったそれは、手のひらほどの大きさで模様も刺繍もないシンプルな布地であった。少し薄汚れた白い布、頼りなさげに揺れている。
「嘘だろ!?これだけか!?」
絶望的な叫びが洞窟に響く。
魔獣が唸りを上げ、巨体が跳びかかってきた。悠真は咄嗟に布切れを投げるが、ふわりと落ちるだけで魔獣の勢いを止められない。鋭い爪が闇を切り裂き、男の肩を深く抉った。
「いてぇっ!」
焼けるような痛みが走り、血が革鎧を染める。肩から力が抜け、鞄が地面に落ちた。魔獣の赤い目が至近距離で光り、牙が自身の喉元を狙っているのがわかる。
「待ってくれ、頼む!!」
絶望が脳を支配し、叫びがこだまする。しかし獣はその叫びにすら興味を示さず、牙を振り下ろした。
その瞬間、洞窟の闇が爆裂した。四つ雷鳴のような破裂音の後魔獣の額に青い爆炎が炸裂した。苦しんでいる獣の牙は見事なまでに砕け散っている。牙に未だまとわりついている閃光が洞窟を青く染め、苔と骨が青く照らされる。
逆光になって見えないが獣が何かに攻撃を受けていることはわかる。続けて胸部に三発、正確無比な弾丸が突き刺さり、硝煙の青い輝きが血と共に辺りに充満した。
魔獣が咆哮を上げ、巨体がぐらりと傾ぐ。だが、なおも牙を剥き、爪を振り上げて反撃の意思を見せた。近くにあった岩壁が爪によって削られ、破片が飛び散る。
「おやおや、この程度じゃ寝てくれないのかい。随分と聞かん坊だなぁ」
のんびりとした、しかし隙を見せない声色。まだ声変わりの前の高いとも低いとも取れない声は闇の中から響いてきた。
次いで闇の間を縫う様に少年が霧の様に静かに現れた。物音が響きやすいこの暗闇で彼は足音どころか息遣いすら聞こえない。動きは無駄がなく、まるで闇そのものが形を取ったような存在感だった。響いているのは獣の苦しそうな荒ぶった息遣いと、俺の口から漏れる情けない呼吸音だけだ。
14歳ほどの細身の体、黒髪が風を切り、赤い目は言動とは裏腹に地獄の業火のように燃えている。革鎧は血と傷で汚れ、両手に握る二丁拳銃――黒鉄製の銃身に埋め込まれた何かの石が、激しく脈動していた。少年は宙で岩壁を蹴って身を翻す。
その一瞬で獣の死角となる後方に移動しており、さらなる三発が魔獣の首、角、目を撃ち抜き、青い爆炎と獣の咆吼が洞窟を揺さぶった。岩の破片が床に叩きつけられ、血と青い煙が渦を巻く。魔獣の巨体が一瞬硬直し、次いでドサリと岩床に崩れ落ちた。苔が血に染まり、洞窟に不気味な静寂が戻る。
少年は軽やかに着地し、銃口から立ち上る青い煙を冷たく見つめる。赤い目はまるで洞窟の闇を焼き尽くす炎の如く、ギラついていた。
男の目には、彼がまるで神話の戦士のように映った。青色の煙は彼の赤い目をより引き立たせており、二つの拳銃はまるで彼を彩るコントラストの様であった。
初めて見た実用品としての銃に見惚れていると、その銃先が不意にこちらに向いた。驚いて顔を見上げると、赤い瞳もまたこちらを射殺す様にこちらに向いている。
「手を頭の後ろにつけ地面に這いつくばれ。従わないなら撃つ」
いくら相手が子供でも銃口を向けられたらたまらない。すぐ彼の言う通りに床に伏せ頭の後ろに手を置く。少年は何処か大人びた口調のまま、続ける。
「君は誰。何故ここにいる?」
声は氷のように鋭く、銃口を悠真に向けたまま一歩近づく。背後からでも赤い目が獲物を値踏みするように頭から足元まで見られているのがわかる。
「俺、高木悠真!さっきは本当に命拾いした!ありがとうな」
「ユーマ、か。鞄の中身は入っていないね。荷物はこれで全部かい」
「?ああ、そうだぜ」
感謝の言葉を華麗にスルーされ話題はカバンの話に移った。少年は微かにため息を吐くと、銃口を下ろし拘束を解いてくれた。何とか肩の傷を押さえ、よろめきながら立ち上がる。血が滴り、痛みで視界が揺れているのがわかった。
「モンスターと疑って悪かったね。お上りさんか、パーティーに捨てられたかは知らないがダンジョンに荷物なしで入る馬鹿がいるとは思わなかったからさ」
少年は嘲るように唇を歪め、二丁拳銃を軽やかにホルスターに収めた。銃口にある石の青い光が消える。赤い目が悠真を冷たく一瞥し、それとと付け加えた。
「助けた礼なら態度と物で示しておくれよ、兄弟。口先だけならいくらでも言えるぜ?」
「兄弟」と呼んだ声には、皮肉と試すような響きが混じる。少年は一瞬だけ目を留め、冷たく鼻を鳴らす。
「とりあえずここから移動しようか。動けるなら休憩所に来ておくれ。死にたくなければ、ね」
背を向け、足早に歩き出す。銃のホルスターが革鎧に擦れる音が、洞窟に小さく響いた。急いで彼の後を着いていく。
「待ってくれ、名前を聞いても良いか?」
悠真が呼びかけると、少年は振り返らず答えた。
「────リオ。覚える必要はないよ」
赤い目が一瞬だけ振り返り、悠真を冷たく捉えた。
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心身共に疲れ切った身体をなんとか引きずり、リオに導かれたのはダンジョン1階の安全ゾーンに近い休憩所だ。扉は重苦しい鉄らしき物でできており、ダンジョンらしさに少しワクワクする。
マイホームとは少し違うが、こういう趣向の凝らされた建物を見るのは好きだ。高校生の時に読んでいた世界名建築のまとめを思い出す。その建物の家具ひとつ壁一つから歴史や文化が関係しており、時には派閥によって作り方が丸切り違う。
ルネサンス、ゴシック、バロック、ロココ。その時流に合わせて価値観に連れ従う形で作られる家屋はまさに文化の結集体なのだ。
扉の前でリオが何かを呟くと一人でに扉が開かれていく。悠真ははやる気持ちを抑えながら、嬉々として中に足を進めた。しかし中の状況を目の当たりにしてピタリ、と歩みを止めてしまう。
10メートル四方の狭い洞窟に、薄暗い松明がチラつく。壁は湿気で滑り、床は壊れた武器や血痕、腐った食料の残骸で汚れている。隅の簡易トイレ――ただの穴――は悪臭を放ち、汚物が溢れている。
石や腐った木のベンチに、数人の冒険者が疲弊した顔で座る。遠くで魔獣の唸り声が響き、誰もが緊張で肩を強張らせていた。
「……なんだ、この場所は」
「文句言う前に慣れな、兄弟」
リオは無造作にベンチに腰を下ろし、二丁拳銃の魔法石を点検する。赤い目が青い光に映え、冷ややかさがより強調されている様に思う。
「ここで休めなきゃ、ダンジョンで死ぬだけだ。嫌でもさっさと寝ちまえ」
諦め半分、苛立ち半分といった感情かため息となって少年から吐き出された。しかし同じ程の落胆の色を見せる悠真に首を傾げる。
「初めてみたダンジョンの建物がこんなっ……!?こんなに素材は良さそうなのに掃除しないなんて馬鹿げてんぞ贅沢者!」
あわよくば壁の素材や家具の種類を見たかったのに、これではそれ以前の問題だ。半泣きになりながら頭の中にあったダンジョンのイメージを手早く払拭し、洞窟の隅に目をやる。
そこには、埃をかぶった古い箒とバケツが放置されていた。箒を手に取ると、リオが銃の手入れを止め、赤い目が無言で悠真を射抜く。
「態度じゃ無くて物で返せって言ったのはお前だろ。大丈夫だって。ここをちゃんとお前が休める休憩時に俺が変えてやるからさ」
悠真は鞄から出されたままになっていた布を片手に、決意を込めて答える。
「寝言は寝て言いなよ。まぁ、道楽なら勝手にやっておくれ」
リオは鼻で笑い、つまらなそうに目をそらした。だが赤い目が一瞬だけ揺れ動き、悠真を一瞥したことに本人は気づかなかった。
リオは一階より汚いが人がいないからと普段休んでいる休憩所の二階に上がっていく。そして自分の荷物からわざわざ傷口に塗るポーション?という薬品を俺に分け与えてくれた。
なんでもダンジョンの周辺は衛生状態が良いとは言えず、小さな傷口から感染症を負うこともあるのだという。リオは対価を得ていない奴に死なれては困ると言い、ポーションを半ば強引に押し付けてきた。初めて見る緑色のポーションは傷口を早送りの様にみるみるうちに治してしまい、後は痛みを引くのを待つだけとなった。
「じゃあ借りは期待してるよ、兄弟」
その後ろ姿を見送りながら、なんとか一階の一部分だけでも清潔なスペースを確保しくつろいで欲しいと思い、悠真は辺りを見渡した。
空気は冷たく、湿気が肌にまとわりつき、まるで死者の吐息のような不自然な冷気が体を包む。数人の冒険者が石や腐った木のベンチに座るが、誰もが無言で目を伏せ、疲弊と警戒で顔に疲れの色が滲み出ていた。
誰かが咳き込むと、音が洞窟に反響し、ガリガリと獣の物音がするだけで空気がピリつく。呼応する様に遠くで魔獣の唸り声が響き、誰もが身を縮こませ、孤立感と絶望が洞窟を支配していた。
悠真は顔をしかめる。ブラック企業のオフィスより劣悪な環境に、自然と体に力がこもった。鞄を握るとまたも空中に字が表示された。【居心地度:0ポイント】
「え、ゼロ!?さっきは5だったろ!?」
悠真の突然の声に遠くから黙れと罵倒が浴びせられる。目の前にいたリオも迷惑そうな冷徹な感情を視線に乗せ、こちらを睨んできた。慌てて口を手で覆いながら、突如変わった居心地度というやつに頭をひねらす。
変わったことがあるとすれば場所の移動もそうだが、一番の要因はこれだ。血と苔で汚れた布を見下ろす。確か変更可能アイテム、だったか。あの時は訳も分からず無我夢中だったが、この布がそのアイテムというやつなのだろうか。しかし何か変わった布では無く、あくまで普通の白布の様だ。
布切れを握り、試しに服に付いた血痕を拭いてみる。だが、布はすぐにドロドロに汚れ、生臭い悪臭が鼻をついた。
「やっぱり普通の布か。特に変わったことも……」
悠真は言葉を止める。布の上空に『アイテムの損傷により使用不可 アイテムを還元します』という文言が表示されたからだ。その数秒後に文字通り布は煙の様に消え、そこには何も無くなった。
顔を上げると【居心地度:5ポイント】が戻っていた。
「おお、ポイントが戻った!なら、もう一度……」
鞄に手を入れ、5ポイントを消費。新品の布切れが現れる。使い方の大枠が分かり、胸を撫で下ろした。とりあえず今わかっているこの鞄の能力としては、①今自分がいる空間の居心地の良さを数値化できる、②その数値化したポイントをアイテムに変換できるらしい。
同時にある程度の制限もある様だ。アイテムは今のところこの布一種類のみ。他のアイテムや効果も探してみたが、5ポイントの欄にはこの布一種類しか選択肢がない様だ。
「……いや、待て。これひょっとしたら凄い使えるんじゃねぇか」
その夜、悠真は皆が寝静まった後、備え付けの箒とバケツ、そして鞄の布で静かに清掃を始めた。布で汚れに触れず血痕やゴミを拭き、汚れたらアイテム破損でポイントを回収して消し、再度5ポイントで新品の布を出す。
一定の行為をループすれば無限に布を出せることもそうだが、何より汚れと一緒に布が消えてくれるのが一番の利点であった。
トイレ以外の悪臭周りを重点的に掃除し、壁と床を肩の傷が疼き、汗と埃にまみれながら、一晩中作業を続けた。汚れと布の交換を繰り返し、休憩所が少しずつ清潔になっていく。
「……やっぱり漆塗りと同じ技法が使われてんなぁ。もしかしてフレスコ画法で描かれた壁画でもあったのか」
綺麗になった壁を指で触れながら、悠真は独りごちる。日本風にいうと漆喰壁というそれは、素材に埃やゴミなど付きにくい素材を使いナチュラルな質感と生活の質を同時に与えるものであった。だが同時に汚れやすさやメンテナンスの手間、費用の問題から一長一短といった特徴を持つ。
「家具もよく見りゃ質の良い奴ばかり。オーナーか責任者は何処に行っちまったんだろうな」
こんな良い家なのにもったいねぇな。埃と汚れを丁寧に拭き上げながら、悠真は掃除をただ黙々と続けている。本音を言うと体力も気力も共に限界に近かった。
しかし他人の家だとしても久しぶりの家事の手伝いをするのは嬉しかった。さらに素材が良いだけあって段取りを組んで手順通り磨けば予想以上に綺麗になっていくのが面白かった。
思えばどんなに仕事がキツくても机周りだけは意地でも綺麗にしていた頃を思い出す。俺はストレス溜まると掃除をし出す気性なのかもしれないな、と自嘲した。
床を磨く手の甲に汗が垂れ、顔にはそこら中に煤まみれになってしまった。早く寝てしまいたいと言う気持ちと、もっと掃除をしていたいと言う感情はどちらも本当だ。
だが他のことを何も考えず打ち込めたのは、久しぶりだった気がする。結局ひと段落ついたのは残業していた頃と変わらない時間になってしまった。
朝、窓からの木漏れ日に悠真はいつの間にか窓際の床で寝落ちてしまっていたことを理解した。起き上がり連日硬い床で寝て凝り固まった身体をポキポキと伸ばす。朝日に照らされた休憩所は昨晩とは違う雰囲気を纏っている様に感じる。
流石に大きなゴミは汚れと違って消すことはできなかった為一箇所にまとめているが、昨日と比べると僅かにだが見える床のスペースであったり汚れや埃が消えている。空中には【居心地度:10ポイント】と表示されていた。居心地度は清潔さや快適さでそのポイントの上限を引き上げられるらしい。
居心地度が掃除によって増えることにも驚いたが、なんだか自分の掃除が数字にして現れた様で嬉しく思ってしまう。特に窓際のスペースは人一人分横たわって寝れるぐらいのスペースを確保できた。周りも丁寧に掃除したし臭いや汚れも目立つものはない。
結局朝になってしまったが、今夜からでも充分にここで休憩できる筈だ。二階から降りてくる人々を盗み見ながら、リオの訪れを待つ。
階段の方から軋む音が聞こえ、寝落ちかけていたら意識を戻し顔を上げる。しかしそこには目当ての黒髪では無く、金髪の女性が肌着のまま階段を降りてくるところだった。
背丈が同じぐらいの為一瞬彼かと思ったが違った。もう一度、リオが降りてくる前に仮眠を取ろうと瞼を閉じようとする。
「────うわ、くっさ」
至近距離から聞こえた罵倒に、何事かと目を開く。目の前には翠眼はこちらを覗き込んでいた。金髪を肩まで下ろし、薄いカーテン素材の様な薄いワンピース状の肌着を着ており、その上から男ものの大きな外陰を羽織っていた。
彼女からはかすかに酒と汗の匂いが漂う。その瞳にはありありと好奇的なものを見る様な少し不躾な感情が含まれていた。
「ドブにでも落ちたの?おにーさん。すごい臭い」
ケラケラと笑う少女とも取れる女性は自分より少し年齢は下だろうか。鼻を抑え、『臭い』のジェスチャーを取る辺り、精神年齢は幼めの様だ。
「……そんなに、か」
「うん。そんなに!」
遠慮というのが無いのだろうか。少し傷つきながらも、相手から距離を取ろうと身を捩る。しかしその女性の興味は既に俺には無く、綺麗になったばかりの床に視線が向いていた。
「なんかここら辺綺麗になってんね。もしかして夜通しガサガサやってたのっておにーさん? こんな場所自分から掃除するなんて変わってんね」
彼女は肩をすくめ、細い指で金髪をかき上げる。
「ここで寝泊まりするのは、死にたくない奴らだけだもの。綺麗にしたって、明日にはまた血とゴミだらけさ。無駄なことすんなよ、疲れるだけじゃん」
彼女の言葉の何処か投げやりな響きは何処か傍観に近い何かが込められている様に感じた。
「でも、ちょっとでもマシになった方がいいだろ? こんな場所で寝るなら、せめて…」と反論しかけると、彼女は薄く笑い、目を細めた。
「おにーさん、変な奴だね。まぁ、どうせすぐに心折れるよ、ダンジョンじゃみんなそうだもん」
彼女はそう言い残し、斜めがかったベンチに腰を下ろし水筒から酒を一口飲んだ。
その直後、ドスドスと重い足音が洞窟に響く。屈強な体格の男が悠真に近づいてきた。革鎧にこびりついた血痕と、腰に吊るされた巨大な戦斧が彼の戦士としての経験を物語る。30代後半くらいの顔には無精ひげが生え、目には苛立ちと軽蔑が滲む。
「おい、テメェマリーに手ェ出してんじゃねぇぞ」
彼は先ほどの女性の肩に手を置き、彼女を乱暴に引き寄せながら悠真を睨みつけた。
マリーと呼ばれた女性が「やめなよ、ガルド。彼、ただ掃除してただけだって」と小さく呟くが、ガルドと呼ばれた男は鼻で笑い、悠真に一歩詰め寄る。
「掃除? ハッ、こんなゴミ溜めで箒振り回して何になる? 魔獣が死ぬか? アイテムが出るか? 無駄なことして仲間を起こしやがって、てめぇのせいで寝不足だぞ!」
彼の声は洞窟に反響し、他の冒険者たちがちらりと視線を向けるが、誰も口を挟まない。無言の同調圧は一人の青年にのしかかった。
「眠りを妨害して悪かったよ、起こすつもりはなかったんだ。次は昼の時間帯に掃除するさ」
「凝りねぇな。だから善人ぶんなって言ってんだよ。魔獣が来ればどんな綺麗な部屋もゴミ屋敷になる。テメェら新人がアホなことしてるとそのうちこっちにまで火種が飛ぶんだ」
「でも汚い場所で寝るより、少しでも綺麗な方がいいだろ? みんなで使う場所なんだし。疲れだって綺麗な部屋の方が取れるだろう」
ガルドは顔を歪め、唾を床に吐く。そこは図らずともリオの為により一層綺麗にしていたスペースであった。
「偉そうな口きくな、新顔。てめぇみたいなのがダンジョンで長生きできると思ってんのか? マリーの言う通りだ、すぐに心折れて死ぬぜ」
弱い奴はこのダンジョンじゃあ生きていけねぇ。特にテメェみてぇな夢見がちのクズはな。彼はリナの腰に手を回し、彼女を連れて洞窟の隅に移動しながら、振り返って付け加えた。
「次俺の眠りの邪魔をしたら八つ裂きにして魔獣の餌にするからな。覚えておけよ、クソガキ」
マリーはガルドに引きずられるように去りながら、申し訳なさそうに悠真を一瞥した。彼女の目にはわずかな同情が浮かんだが、すぐに顔を伏せてしまった。
他の冒険者たちも冷ややかな声を上げる。「おい、新顔、こんな無駄なことして何になる?」「ゴミ掃いて魔獣が死ぬかよ!」笑い声が洞窟に響き、孤立感が悠真を包んだ。笑い声が洞窟に響いていく。
「────うるせぇのはお前らの方だぜ。ド三流共」
階段の上から聞き覚えのある声が聞こえる。黒髪は毛先が少しはねており、身なりは皮鎧を脱いでおり昨日よりもラフな印象を与える。
「掃除したしてないでよくここまで盛り上がれるな。よそモンいたぶって遊ぶぐらいなら、依頼の一つでもこなせよD級」
「ンだとテメェ!」
「おいやめろ!休憩所は私闘禁止だろ!」
一人の男が殴り掛かろうとするのを知り合いらしき男が止める。リオは眼中にないといった様に視線を外し、こちらを向いた。
「君も夜に掃除をするのは止めろ。一応物音には注意していた様だが、ここらの冒険者達は物音に、特に夜にらえげつないほど敏感だ。やるなら昼にしろ」
「わ、悪い……」
リオは寄せていた眉を緩め、悠真の背後のスペースに目をやる。先程までは綺麗になっていたのだが、今はガストンの靴跡や唾で見るも無惨な状態になってしまった。
悠真は顔に血が集まっていくのを感じる。周りの冒険者たちに迷惑をかけたばかりか、リオの簡易的な寝るスペースも確保できないなんて。
「ふふ、素人の道楽だね兄弟。だけれど、少しはマシになったかな」
リオは屈み込み、靴跡の間から綺麗になっている所のみ指先ですくった。他の床に比べて埃も土もつかない指に赤い目が一瞬だけ細くなった。
「次はもっと綺麗にしておくれよ。ここで腹出して爆睡出来るぐらいさ」
悠真は疲れ果てた、しかしやり切ったと言う様な笑顔で答える。
「わかったぜ、リオ!リオが快適に寝られるマイホーム…いや、みんなが居心地良いと認めてもらえる場所を作るよ!」
リオは鼻で笑う。
「居心地?変なことを言う奴だねぇ、君は。まぁ、いいさ。僕に口先だけじゃないって証明して見せておくれ」
彼は二丁拳銃を機嫌よく回し、軽く口角を上げた。
悠真は鞄を握り、思う。命の恩人であるリオのために、この汚い休憩所を居心地の良い場所に変えたい。そして、いつか本物のマイホームを…。リオの冷たい「兄弟」という呼び方に、試されているような、だがどこか信頼の芽を感じながら、彼の夢が初めてダンジョン内で芽吹いたのであった。




