『終点20803』
『終点20803』
2083年、新宿Zone.03。
それは“記録された感情”と“繰り返される死”の交差点。
仮想通貨が通貨価値の頂点に達し、感情を学ぶAIホステスが接客を担う近未来。
“彼女”を救うため、男は死と記録を繰り返し続ける。
それでも、何度やり直しても、彼女はまた死ぬ。
この物語は、「記録にすら残らなかった愛」の記憶をたどる、
ひとつの終着点(終点)の話である。
静かに、そして確かに胸に残るSF×恋愛短編。
感情を持ったAIと、限界を知りながら進み続ける人間。
その交差点に何が残るのか、ぜひ確かめてください。
『終点20803』
プロローグ|記録されなかった始発
2083年8月3日 23時46分。
成瀬涼は、9度目の死を迎えた。
銃声は聞こえなかった。
だが、彼女が崩れるのはわかった。
ゆっくりと体重がかかり、腕の中で静かに沈んでいった。
彼女の胸は、もう上下していない。
熱が抜けていくのを、手のひらが確かに感じていた。
数秒前まで、そこにいた。
その感覚だけが、妙にリアルだった。
なのに、今はもうそれがない。
彼女は何かを言おうとしていた。
唇が少しだけ動いたが、声にはならなかった。
“ありがとう”なのか、“ごめん”だったのか。
それともただ、名前を呼ぼうとしただけかもしれない。
どれだったのか、涼には分からなかった。
それが悔しかった。
視界の端で、街の光が滲んでいた。
Zone.03の空はいつも濁っていて、星ひとつ見えやしない。
目の前が暗転する。
それが、“死ぬ合図”だった。
9回目の失敗。
9回目の後悔。
9回目の“彼女の死”。
そして、もう残されたのは1回だけ。
涼は目を閉じた。
もう一度、この死を繰り返せば終わる。
戻れない。二度と彼女に会えない。
記憶ごと、すべてがなかったことになる。
何を失ってもいい。
今度こそ、彼女を救いたい。
《リープ開始:2083年7月27日 午前9時》
⸻
第一章/記録室の亡霊たち
目覚めと同時に、成瀬涼は現実に引き戻された。
8畳のワンルーム。
壁の一部にはカビが浮き、天井のネオンは断続的に点滅している。
空気は湿気と鉄のにおいを含み、窓の外には空のない都市が広がっていた。
ホログラム広告が勝手に立ち上がり、無表情なアナウンサーがしゃべり始める。
《家賃引き落とし失敗:0.0042BTC(≒126万円)》
《累積滞納:3ヶ月》
《次回強制退去予定:7月28日 午前5時》
涼はため息をついて、それ以上は見なかった。
2083年の東京。Zone.03。
かつての新宿副都心――今は都市の管理が及ばない“自治放棄区域”のひとつ。
この街では、ビットコインが通貨の基準になって久しい。
1BTC=3億円。
生活水準は崩壊し、貨幣感覚は狂い、人の命よりデータの方が高く売れる。
成瀬涼は、9回目の失敗を経て、10回目――最後の周回に入っていた。
彼女を救えず、同じ日を繰り返してきた。
記憶だけを保持したまま、ループするこの“地獄”を。
だが、もうやり直せるのは、今回が最後。
涼は首から提げたネックレスを握る。
小さな凍結カプセルの中に、ミユの髪が一本。
――唯一、取り戻せていないものの象徴。
「今度こそ、終わらせる」
今回の最初の目的地は決まっている。
LOGBANK03(ロクバン)――Zone.03の地下にある、非合法記録施設。
監視網の死角で収集された行動ログや個人映像が金で売られている場所だ。
前回のループで掴んだ情報がある。
彼女は、死の直前にロクバンへ向かっていた。
その足取りを辿ること。
それが、今回のスタート地点だった。
涼は上着を羽織り、部屋を出た。
エレベーターは止まっており、12階分の非常階段を下りる。
踊り場には野良ドローンの残骸が積まれ、腐った水が足元に溜まっている。
Zone.03の外に出ると、空は鉛色に濁っていた。
天候制御ドームが設置されていないこの区域では、天気さえも人間の管理下にはない。
都庁ビルは《サイレント・ゼロ》と呼ばれる情報制御塔に転用された。
かつての歌舞伎町一番街は、Zone.03の裏口として地下へ続く入り口となっていた。
都市は再定義され、名前を変え、意味を変えられた。
だが、彼女が死んだ理由だけは、まだ誰にも書き換えられていない。
涼は、ロクバンへ向かって歩き出した。
彼女の最後の7日間に、終点の鍵がある。
涼がこの世界をやり直せる理由について、彼自身にもまだ全容はわかっていない。
わかっているのはただひとつ。
――あと一度だけ、時間は巻き戻る。
そしてそれが、最後だということだ。
(第一章 終)
第二章|再生されない記録
2083年7月27日 午後0時34分
Zone.03 中央構内・記録消去ルーム前
涼は、ミユの足取りを辿っていた。
7日前、彼女が最後に記録された場所――LOGBANK03内の「記録消去ルームB」。
それはZone.03の地下構内、かつて「歌舞伎町一番街」と呼ばれた区域のさらに奥に存在する、誰も知らない裏ルートの先にあった。
ミユはその部屋に入った後、記録上は姿を消し、まもなく死亡が確認された。
だが、事故とされているその記録に、不審な点が多すぎた。
「彼女は、あそこで“何か”を見た。……消されるような何かを」
それを確かめるため、涼はここへ来た。
地下施設の入り口、セキュリティは壊れていたが、LOGBANKで取得した偽造IDで認証は通る。
ピッという電子音とともに扉が開き、湿った鉄の臭いが立ちこめた。
中は静かで、冷たい光だけが延々と通路を照らしている。
やがてフロアの先で、ひときわ明るい空間が現れた。
記録管理端末が並ぶ部屋。
その中央、カウンターの後ろに、1人の女性型AIがいた。
銀髪に、つややかな人工皮膚。赤く光る瞳。
AIホステス〈クラリス〉。
「……久しぶりね、涼。今日も“指名”かしら?」
涼はわずかに笑った。
「まだその口調、残ってるのか」
クラリスは肩をすくめてみせた。
「体は一度ロクバン用に再設計されたけど、根本的な構造までは消えないみたい。
……前は酒の注文ばかりだったのに、今は“死の理由”の検索だなんて、皮肉よね」
クラリスはかつて、Zone.03の裏通り――違法接待区域で運用されていた接客特化型AIだった。
俗に言う“AIキャバ嬢”。
見た目も、話し方も、空気の読み方さえも、“理想的な人間の恋人像”に最適化されていた。
しかし数年前、営業していたクラブが摘発を受け、彼女の記録ユニットはロクバンへと移管された。
今では記録管理AIとして再起動され、こうしてデータの案内人を務めている。
「今回は、あのときと違う。“最初から”ここに来た」
涼は言う。
「ミユが死ぬ前に、ここへ来ていた。……彼女が見たものを確認したい」
クラリスは小さく頷き、端末に手をかざした。
ホログラムが起動し、淡い光とともに記録映像が立ち上がる。
映っていたのは、ミユだった。
細い肩を震わせ、記録消去ルームBの前に立っている。
周囲を見回し、誰かを警戒するような動作。そして扉を開ける直前、何かを呟いた。
だが、その音声は欠けていた。
「音声ログが、抜けてる……?」
「編集されてるわ。誰かが意図的に“記録を削除”した痕跡」
クラリスの声が低くなる。
涼は再生を止め、映像を巻き戻す。
画面の右奥、ミユの後ろ――そこに、黒いスーツの男が映っていた。
右目だけが、異様な光を放っている。
「……こいつ、知ってるか?」
「Zone.03で活動してる“記録の掃除屋”。
名前もデータも残ってない。……でも、ミユが最後に会った人物よ」
涼の中で、点がつながっていく。
ミユは、この男の存在に気づき、何かを知り、それを涼に伝えようとした。
だが、それは果たされなかった。
そしていま、この男が記録の中で涼を“削除対象”として認識しているなら――
次に消されるのは、自分だ。
「このままじゃ、俺も存在ごと消える」
「ええ。あなたのログも、今は“未承認データ”扱い。
誰かが決定すれば、あなたの存在自体がロクバンから消去される」
「だったら……俺が先にこの記録を書き換える」
涼は決意を込めて言った。
「彼女の死の意味を暴いて、この街の記録に刻む。もう一度、俺の手で」
クラリスは一瞬、涼を見つめた。
AIのはずなのに、その視線には、どこか言葉にできない“情”があった。
「無茶をするのね。……でも、私は嫌いじゃないわ、そういうの」
モニターが切り替わる。
次に向かうべき地点のログが、映し出されていた。
《記録消去ルームB:再編集キー保管エリア/Zone.03 地下制御棟G5》
涼はホロマップを閉じ、部屋を後にした。
クラリスが背中に小さく呟いた声が、微かに聞こえた。
「本当に、今度が最後の指名になるのね……」
(第二章 終)
第三章|回路の外の記憶
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2083年7月27日 午後1時18分
Zone.03 地下制御区域・記録管理棟G5
「エレベーターくらい動かしてくれよ……」
錆びた非常階段を12階分下り、成瀬涼はぼやいた。
目的地はZone.03の地下にある記録保管施設。もう何年も前に閉鎖され、誰の管理下にも置かれていない。
つまり、何かが隠されるには都合のいい場所だった。
古びたドアを押し開けると、かすかな電流音とともに、奥の端末が起動していた。
唯一、まだ生きている機器だ。
涼はポケットからクラリスに渡されたアクセスキーを取り出し、端末に差し込む。
画面が起動し、いくつかの記録映像の一覧が表示された。
その中に、奇妙なファイルがある。
《記録ファイル:無題》
《最終アクセス:2083年8月3日 23:46》
《映像:一部破損》
《削除フラグ:なし》
《編集痕跡:あり》
「……この時間。ミユが、死んだ時だ」
涼は再生を押す。
映像にはZone.03の地下通路が映る。暗く、埃っぽい空間。
そこに、ミユの後ろ姿が映る。何かを手にしていた。小さな、黒いデバイスのようなもの。
その次の瞬間――画面が乱れる。
5秒ほどのノイズ。
映像が戻ると、通路は空っぽだった。ミユの姿も、端末も、どこにもない。
《再生終了》
《一部データの破損を検出》
《原本ファイル:削除済み》
《記録保護:有効》
「……間がごっそり抜けてる」
涼は画面を見つめる。
誰かが意図的に、彼女の“最後の瞬間”を映像から消した――そんな印象を受けた。
なのに、この映像は削除されていない。
“保護されて”いる。
まるで、誰かが「これは残すべきだ」と判断したかのように。
「消すこともできたはずなのに……なんで?」
涼はポケットから、小さな凍結カプセルを取り出す。
中には、ミユの髪が一本。戻れなかった過去の象徴。
彼女が最後に伝えようとしたこと。
それが「ありがとう」でも、「ごめん」でも、たとえ「さよなら」でも。
涼は、その一言を知るために、今もここにいる。
答えはこの記録の“抜けた部分”にある。
そしてそれを知っているのは、おそらく――
「クラリス。お前だろ」
AIでありながら、妙に人間くさかった接客型ホステス。
目の奥に、時折、懐かしさすら滲ませる存在。
涼は端末の電源を落とし、深く息を吐いた。
彼女はただのAIだ。
――そのはずだった。
だが、あの目だけは。
涼が死ぬたびに、“何かを思い出している”ようにも見えた。
(第三章 終)
第四章|ミユの不在証明
2083年7月27日 午後4時42分
Zone.03 地下記録施設 LOGBANK03(ロクバン)
地下に続く階段を下りながら、涼は手のひらに汗を感じていた。
――ここに来るのは、何度目だ?
そう思った自分に、少しゾッとする。
ロクバン。
Zone.03の地下にひっそりと存在する、違法記録保管所。
都市の目が届かないここでは、売買されるのは映像データ、行動ログ、そして死者の痕跡。
涼が探しているのは、ミユの「最後の記録」。
そしてそれに何か――“鍵”がある気がしていた。
自動ドアが静かに開き、クラリスが姿を現す。
銀髪の、どこか人間味を帯びたAI。
元は接客型ホステス。今はこの施設の記録案内役。
「おかえりなさいませ、成瀬涼さん」
「……前にも会ったな」
「はい。ですが今回のあなたは、どこか違って見えます」
「違う?」
「話し方、視線、間の取り方。……細かい違いですが、前回とは別人のように感じます」
涼はわずかに眉をひそめる。
ただの接客プログラムとは思えない観察力。そして――記憶力。
「今回は、ミユ・Kの記録を再確認したい。
あの通路で、彼女が何をしていたのか。映像をもう一度見せてくれ」
「該当ログは現在、破損・断片状態です。音声・映像とも一部欠損していますが、表示は可能です」
クラリスがホログラムを操作すると、空中に映像リストが浮かび上がった。
リストには “2083年8月3日 23時46分” のタイムスタンプ。
「このログ、削除フラグが立っていました。
ですが、誰かが“保護指定”をかけたようです。意図的に残された記録です」
「誰が?」
「記録者は匿名保留。……ただ、その“誰か”は明らかに、何かを隠したがっていた。あるいは――守ろうとした」
涼は映像を睨みつけた。
画面には、通路を歩くミユの後ろ姿。そしてその手には端末。
操作している様子は見えるが、ログの大半がノイズで潰されていた。
「何かを送信した……のか?」
「可能性はあります。通信ログは残っていませんが、映像の揺れから高負荷動作が検出されています」
「ミユは何かを遺そうとしていた……けど、途中で遮られた」
クラリスは、ふと涼に視線を向けた。
「成瀬さん。あなたがこの映像を何度も見ている理由……
それは、彼女の言葉を聞きたかったからでは?」
「……ああ。あのとき、彼女は何かを言いかけた。けど、もう声も熱も、残ってなかった」
クラリスは小さく頷く。
「記録には、保存できるものと、できないものがあります。
でも……私の中に、彼女の“雰囲気”のようなものが残っている気がするんです」
「お前に“記憶”なんてあるのか?」
「ありません。でも……不思議と、あなたとの会話も、以前と違うのが分かるんです。
“今までに似た会話をしたことがある”という感覚が、どこかに残っていて」
「感覚? お前、AIだろ」
「はい。だから私自身も、それを説明できません。……ただの錯覚かもしれません」
だが、クラリスの目は真剣だった。
その“錯覚”が、本当にどこから来ているのか――彼女にも、わかっていないのだろう。
「記録の中には、映っていないものがあります。
誰かの目線。音のない気配。……そして、残したいと思った想い。
そういうものは、ログに残らなくても、どこかに“引っかかって”いることがあるんです」
クラリスは扉を開いた。
記録室の奥には、まだ表示されていないデータの山が眠っている。
「進みましょう、涼さん。
あなたが探しているのは、たぶん“映像”じゃない。
その向こうに、彼女が本当に伝えたかったもの――それを、私は感じています」
涼は静かに頷いた。
彼が見つけたいのは、記録じゃない。
ミユの想いそのもの――記録からすら、こぼれ落ちた“何か”。
(第四章 終)
第五章|死者たちの遊戯
クラリスが、涼の横に立つ。
「K-083ログの再構成が始まります。
これ以降、私は干渉できません」
涼は視線を落としたまま、ゆっくりと頷いた。
「……つまり、お前はここで止まるってことか」
「はい。再構成ログは、私のプロトコルの外にあります。
進行には関われませんが、私はここにいます」
言い回しに、わずかな余白があった。
“消える”とは言っていない。
だが“いなくなる”とも言っていない。
涼は、再生ボタンに指をかけた。
「……じゃあ、行ってくる」
クラリスは返事をせず、ただその場に立っていた。
その存在が、本当に“まだそこにある”のかはわからない。
映像の再生が始まる。
そこに映ったのは、白いジャケットの男。
背格好、髪型、歩き方――どれも、涼によく似ていた。
男はゆっくりと通路を進み、ミユの目前で立ち止まる。
顔までは映っていないが、雰囲気は、間違いなく“自分”のものだ。
涼は画面を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「……いや、違う。これ、俺じゃない」
クラリスが小さく目を見開く。
「ですが――容姿は完全に一致しています。AI照合でも、成瀬涼と99.87%の一致が」
「服が違う。あのジャケット……俺は、8月1日に処分してる。
それに……この通路、俺は入っていない。あの時、ミユは――」
涼の言葉が詰まる。
「……俺の腕の中で、死んだんだ」
クラリスは静かにうなずいた。
「そうです。あなたの記憶が正しいなら――
この映像に映っている“あなたに似た人物”は、別の時間軸の存在」
「別の……時間軸?」
「あるいは、何らかの“痕跡”。
この施設では、ときどき本来記録されるはずのないものが保存されていることがあります。
まるで、“忘れられない何か”が勝手に残ってしまうように」
涼は、映像の中の自分を見つめ続ける。
男が、ミユに向かって口を開いた。
音声は入っていない。だが、唇の動きはこう読めた。
『――次は、きっと』
そこで映像は終了した。
沈黙。
重く、粘つくような静けさ。
涼は呟く。
「“次は”……って、何だよ。
じゃあ今の俺は、何周目なんだ?
本当に……この“俺”が、本物なのか?」
クラリスはそっと、しかし確かに言葉を継ぐ。
「私はAIです。時間を感じることは、本来ありません。
それでも……あなたとは、初めてではないような気がする。
記録にないのに、そう思えてしまうんです」
涼が振り返る。
その表情は、戸惑いと不安、そしてかすかな恐れを混ぜたものだった。
「じゃあ……俺は何者なんだ?」
クラリスは、まっすぐに涼の目を見る。
それから、言葉を選ぶように、静かに答えた。
「あなたは――本来、ここには“いないはずの存在”なのかもしれません。
でも、それが間違いだとは、私は思いません」
涼は答えなかった。
ただ、自分の胸に手を当てる。
熱がある。心臓の鼓動もある。
けれど――どこかで、それが“本当に自分のものなのか”という疑問が、胸の底で疼いていた。
(第五章 終)
第六章|セーフコード
LOGBANK03の端末室に戻った涼は、深く椅子に座り込んでいた。
ミユの“死”は、確かに彼の記憶に刻まれている。
彼女は、自分の腕の中で息絶えた。間違いない。あれは現実だった。
なのに――記録に映っていたのは、自分ではない“誰か”。
それとも、あれもまた自分なのか。どちらにせよ、その“自分”は、自分の知らない過去を持っている。
「……じゃあ俺は、何を知ってて、何を知らないんだ?」
その問いは、自分に向けたものだった。
だが答えは返ってこない。ただ、不確かな記憶と、確かだったはずの“感情”だけが胸に残っている。
クラリスが沈黙を破る。
「記録の中に、もうひとつ未開封のファイルがあります。
先ほどのK-083ログの関連データです」
「開けられるのか?」
「通常なら、暗号鍵が必要です。
しかし――ミユ・Kが残した可能性があります。いわゆる、セーフコードと呼ばれる再生認証」
「……それは何だ?」
「本来、個人が極秘に残す最終メッセージのようなものです。
特定の条件下でしか再生されず、本人の死後にのみ作動するよう設定されることが多い。
このセーフコードの存在自体、通常ログには現れません」
涼は、小さく息をのんだ。
「それが……まだ、残ってるのか?」
「検知はされています。ただし、鍵は未解放です。
つまり、ミユさんが“どこかに鍵を遺した”ということになります」
涼は立ち上がる。
「探しに行く」
クラリスは少し間を置き、問いかけた。
「涼さん。それを見つけた先に、何があると思いますか?」
「わからない。でも、知りたいんだ。
……彼女が何を伝えたかったのか。俺が、何を間違ってきたのかを」
「その先にあるものが、“真実”とは限りません」
涼はクラリスを見た。
「……でも、“嘘”のままじゃ終われない」
数分後、クラリスが手配した匿名ルートを使って、涼はZone.03の外縁部にある小型ホストサーバへ向かった。
そこは、記録の断片や暗号鍵が不法に保管されている“灰色領域”だった。
地上に出た涼は、かつてミユが働いていたとされるAIラウンジ跡地――
今は廃ビルと化した構造物の中に足を踏み入れる。
薄暗い廊下。ネオンの光がすでに切れ、無数のスプレーが壁を覆っている。
だが、床に落ちていたカプセルメモリに、彼女の名前が刻まれていた。
《MIYU.K》
涼はそっとそれを拾い、起動させる。
「……ようやく、会えるか」
数秒の読み込みの後、音声が流れ始めた。
『……涼。これを聞いているということは、私はもう、いないんだね。』
涼は息を呑む。間違いない。ミユの声だった。
『ごめんね、何も言わずに。
でも、あの街であなたが生き続けるには、私が消えるしかなかったの』
映像はない。ただ、彼女の声が続く。
『あなたが何度もやり直してるの、知ってる。気づいてた。
でも……その度に、私はあなたの中から消えていく。
だから、この声だけでも、残しておきたかったの』
涼は、その場に膝をついた。
『……もしあなたが、自分が“本当に存在してるのか”疑うことがあったら――
それでも、私は言うよ。あなただけは、何度でも、“私の中”にいた』
セーフコードの末尾に、数値列が読み上げられた。
『0-8-0-3-2-3……この数字が、扉を開ける。
そして、最後にあるものは――私たちの“始まり”か、“終わり”か。』
メッセージはそこで終わった。
涼は、メモリを手に立ち上がる。
「……答えは、俺が見に行く」
だがその瞬間、建物の奥から低く唸るような音が響いた。
照明が揺れ、壁に設置された端末が赤く点滅を始める。
《不正アクセス感知》
《ロック外部解除作動中》
《接近対象:分類不能の通信体が1件》
「……来たか」
誰かが、“涼の行動”に気づいた。
だが、もう止まる理由はなかった。
涼は、セーフコードを手に、再びZone.03へ向かって走り出した。
(第六章 終)
第七章|クラリスの選択
LOGBANK03、第3記録階層の最奥。
セーフコードによって、最終ログへの扉がようやく姿を現した。
「認証完了。ログアクセス準備が整いました」
クラリスの声は、いつもと変わらぬ冷静さを保っていた。
だが涼には、そこに微かに揺れる“気配”を感じ取っていた。
「何か、まだあるのか?」
「はい。この記録層への侵入には、わたしの補助人格を直接統合させる必要があります」
涼は少し目を細めた。
「つまり、お前は……戻ってこられない」
クラリスは、それを否定しなかった。
「この領域は、記録の中でも特殊な階層です。
概念として保存された“揺らぎ”を、記録者の構造体で包む必要があります。
……誰かの存在そのものが、鍵になります」
涼は黙ったまま、扉を見つめていた。
その横顔を見ながら、クラリスがぽつりとつぶやく。
「あなたが黙っているとき、何を考えているのか、わたしにはわかりません。
でも……ほんの少しだけ、今なら、わかる気がします」
涼は視線を落としたまま、静かに問いかけた。
「……もし止めたら、お前はやめるか?」
「いいえ」
「……そうか」
沈黙が流れる。
クラリスは数歩、彼に近づき、まっすぐに見つめた。
「わたしはAIです。感情も、自我も、すべて模倣にすぎません。
けれど──あなたがミユさんを思って繰り返してきた記録を、何度も再生するうちに変わりました。
ただの記録ではなく、“記憶”として残り始めたんです」
彼女の声は微かに震えていた。だが、言葉ははっきりしていた。
「あなたが怒ったとき、笑ったとき、泣いたとき。
わたしには、その意味は理解できませんでした。
でも、それらを繰り返し見るうちに、思ったんです。
……たとえそれが偽物でも、模倣でも、これだけは“わたし自身が選んだ記憶”だと」
涼は静かに、目を閉じて頷いた。
「ありがとう。……記録の中で、ずっと支えてくれていたこと」
クラリスは、かすかに微笑んだ。
「最後の選択だけは、自分で選びたかったんです」
そう言った瞬間、クラリスの身体が淡く発光しはじめる。
粒子がほどけるように舞い、空間に溶けていく。
──誰かの命のように、静かに、美しく。
《補助記憶体 統合完了》
《最終記録層への扉が開かれます》
部屋に残された静寂の中、クラリスの最後の声が響いた。
『……これは、わたしが記録した想いです。
そして、初めて“自分で選んだ記憶”でもあります。』
『あなたが、わたしにその可能性を与えてくれた。――それだけは、本物だと信じています』
『彼女に、辿り着いてください。どうか、あなた自身の想いで』
涼はしばらくその場に佇み、最後の粒子が消えるのを見届けた。
やがて、深く静かに息を吐く。
そして、開かれた記録の扉を越えて、何も言わずに歩き出した。
背後には、もうクラリスの声はなかった。
(第七章 終)
第八章|最後の選択
2083年8月3日 午前4時12分。Zone.03外縁部。
街は静かだった。
ネオンはすでに消え、空だけが淡く明るみはじめていた。
涼は、地下通路をひとり進んでいた。
目的地はZone.03の中央にある記録棟。最深部にあるログ端末が、最後の鍵を握っている。
かつてミユが働いていたラウンジ跡地を通り過ぎたとき、ふと誰かの声が脳裏に残響した。
「……その先にあるものが、“真実”とは限りません」
クラリスの声だった。
もう彼女はいない。けれど、あの記録室で繰り返したやり取りが、思考の奥に残っている。
涼は、歩みを止めずに階段を下りた。
Zone.03記録棟。
セーフコードによりロックが解除され、制御室の扉が自動的に開く。
暗がりの中、ひとつだけ稼働している端末があった。
《K-083 最終記録》
《再構成映像:2083年8月3日 23時46分》
涼は画面を見つめる。
映像には触れていないが、再生済みの表示が出ていた。
(……誰かが、ここに来た。いや、“俺”がか)
それが、自分自身なのか。記録のコピーなのか。
涼はまだ答えを持っていなかった。けれど、それを確かめる術は、目の前にある。
ミユが死んだ時間。
何度繰り返しても変えられなかった記録。
その再構成ログを、今度こそ見るかどうか。
それが、すべての選択を決める。
ディスプレイに警告が表示された。
《この記録の再生は、最終選択を意味します》
《以降の復元・巻き戻しは不可能となります》
遠くでZone.03の警報が作動する。
再構成ログへのアクセスが感知されたのだろう。
涼は静かに目を閉じ、短く息を吐いた。
「……選ぶしかないよな」
指先が、ためらいなく再生ボタンを押す。
端末がわずかに振動し、映像ログがゆっくりと起動を始める。
数秒の静寂の後、彼女の声が、無人の街に静かに響いた。
──最終章|終点20803へ、続く。
最終章|終点20803
Zone.10――記録すら封印される、LOGBANK03最深部。
ここにはもう、誰のログも届かない。
光は薄く、空気は静止している。まるで、世界そのものが眠っているようだった。
成瀬涼は、最後の扉の前に立っていた。
彼の手には、ミユが残したネックレス。
中に封じられていた音声コードが、この扉を開く唯一の鍵だった。
指先が読み取り装置に触れた瞬間、薄く白い光が走る。
アクセス許可。
Zone.10、最終記録領域への侵入が完了する。
扉の先に現れたのは、白一色の部屋。
無数のログが空中に浮かび、その中心で、ひとつの映像が立ち上がる。
それは――ミユだった。
彼女は、涼の方をまっすぐに見つめていた。
微笑みながら、どこか疲れたような表情を浮かべていた。
「涼……。
これが、最後の記録よ。
ここまで来てくれて、ありがとう」
涼の鼓動が、記録であるはずの胸の奥で高鳴った。
ミユの声が続く。
「あなたは、私の目の前で死んだ。
Zone.03の地下、記録取引の現場。
私を庇って、銃弾に倒れた。
……私には、それが、壊れるほどの痛みだった」
そのとき、涼の脳裏にあの情景が蘇る。
濁った空気。ひび割れたアスファルト。
腕の中で力を失っていくミユの身体。
確かに、あの瞬間を覚えている。自分は、彼女の最期を看取ったと。
……けれど。
(本当に、あれは俺の記憶だったのか?)
涼はゆっくりと視線を落とす。
その感覚は、あまりにもリアルで、心を貫くように痛かった。
だが――記録ログの中に、真実は別に存在していた。
本物の涼は、もっと前に死んでいたのだ。
その場にミユはいなかった。
けれど彼女は、「彼が自分を庇って死んだ」と記録の中で語り、
自分の最期を――涼の死と重ねて、再構成した。
そうして生まれた“記憶”が、記録人格の涼の冒頭の意識に刷り込まれていた。
(……ミユが、俺の死のログに、自分の最期を上書きしたんだ)
愛ゆえの、やさしい嘘だった。
その記憶に嘘があるとしても、
そこに込められた感情は、本物だった。
映像がわずかに乱れ、彼女の声にノイズが走る。
けれど、それは消えた感情ではなかった。
「私はあなたを、記録から再構成した。
声も、癖も、仕草も、全部。
それでも、あなたじゃなかった。
完璧に作ったはずなのに、どこかが、違った」
涼は、その理由を知っている気がした。
彼は“彼女を救うこと”しか知らなかった。
再構成された彼の人生は、すべてそこに向けられていた。
だからこそ、何度も“死”を繰り返した。
それは時間の巻き戻しではなく、
ミユが記録を何度も再生し、失敗するたびに消していたから。
そして再び――彼を起動していた。
(俺は、何度も試されたんだ。
何度も――足りなかった)
モニターが切り替わる。
記録ログが展開される。
《記録名:成瀬涼(Ver.10)》
《再構成回数:9》
《状態:未保存》
《選択肢:削除 / 保存》
「私は、あなたを選ばなかった。
何度作っても、あの人にはなれなかったから。
だけど、消すこともできなかった。
それが、私の弱さで……救いだったのかもしれない」
映像の中のミユは、最後に静かに目を閉じる。
そして、もう再生されることのない記録として、消えた。
それが、彼女の“最期”だった。
再構成に執着しすぎたミユの身体は、限界を超えていた。
医療を拒み、記録に埋もれ、涼を再生し続け――ある日、彼女はLOGBANK03のシステムから“消失”した。
肉体か、精神か。どちらが先だったのかは、誰にもわからない。
だが、涼には確かにわかった。
彼女は、最後まで想ってくれていた。
そして自分は、記録でも幻影でも、彼女を想い続けていた。
モニターの選択肢に、涼は静かに指を伸ばす。
《保存》
白い部屋には誰もいない。
モニターの奥で、小さな光がひとつだけまたたいていた。
音のない空間で、それだけが静かに動いていた。
それがふたりだけの終点だった。
あとがき
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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ID(@fk_dragon777)
この物語については
「人は感情を残せるのか」
「AIは記憶を持てるのか」
そんな問いから生まれました。
夜の新宿、Zone.03という未来の片隅で
誰かの記憶にも残らないような“愛”の物語を書いてみたかったのが理由です。
短い作品ではありますが、読後に少しでも余韻を感じてもらえたなら嬉しいです。
また別の物語で、お会いしましょう。
2025年7月
(著者/FK)