第2章:過去からのささやき
大地溝帯の熱狂は、発見された「時間航行士」が厳重に封じ込められた特殊輸送カプセルに入れられ、最先端の研究所へと運ばれることで、一時的な静寂を取り戻した。研究所は、最高レベルのセキュリティと、ありとあらゆる科学分析機器を備えた、まさに科学の聖域だった。この場所こそが、10万年前の謎を解き明かすための、次の舞台となる。
発見された遺物が研究所のクリーンルームに運び込まれると、ただならぬ緊張感が漂った。誰もが、目の前の光景が、人類の歴史を根底から覆す可能性を秘めていることを理解していた。クレイン博士、カーペンター博士、ジョンソン博士、スミス博士といった現場の主要メンバーに加え、それぞれの専門分野で世界的な権威である研究者たちが集結した。
最初の、そして最も重要なステップは、この驚くべき遺物の年代測定だった。現代科学が到達した最も高精度な年代測定技術である加速器質量分析(AMS)法が用いられることになった。この作業を担うのは、バイオエンジニアのドクター・エリック・ベネット。30代後半の彼は、緻密な作業を得意とし、わずかな誤差も見逃さない正確さを持つ。普段は控えめな人物だが、データが出た瞬間の彼の興奮は隠しきれない。彼は、炭酸塩化した骨の微細なサンプルを、極めて慎重にAMS装置にセットした。装置が稼働すると、独特の低い唸り音が研究室に響き渡る。その音は、時間の深淵を覗き込むような、厳粛な雰囲気を醸し出していた。
数分の、しかし永遠にも感じられる沈黙の後、ベネット博士のコンピューター画面に、最終的な数値がゆっくりと表示された。彼の指が震え、その画面を凝視する。そして、その数字を目にした瞬間、彼の口から小さくも確かな声が漏れた。「…約10万年前です。誤差範囲はごくわずか。」
彼の言葉は、その場にいた全員の息をのませた。10万年。その数字が、まるで雷鳴のように研究室に響き渡った。それは、現生人類がアフリカを出て世界に拡散し始めた時期とほぼ重なる。しかし、その当時の人類が、これほどまでに高度な技術、宇宙服を着用していたなど、既存の科学理論では到底説明できない。彼らは、時間の壁を打ち破り、想像を絶する過去の存在と対峙していたのだ。
次に、この「時間航行士」の遺伝子解析という、さらに繊細で複雑なプロセスが始まった。骨からDNAの断片を抽出するという作業は、極めて困難を極める。何万年もの時を経て、DNAは劣化し、断片化している可能性が高いからだ。この困難な任務を引き受けたのは、生物学者のドクター・サラ・オコナー。30代前半の彼女は、DNAシーケンスと遺伝子解析の分野で目覚ましい実績を上げている若き天才だ。コーヒー中毒で常に目が冴えている彼女は、最新のCRISPR-Cas9技術と次世代シーケンス(NGS)技術を駆使し、古代DNAの抽出と修復に挑んだ。
何時間もの集中と、途方もない量の試行錯誤を経て、ついに成果が上がった。モニターに表示されたDNAの塩基配列の羅列を、オコナー博士は食い入るように見つめる。そして、興奮に満ちた声で叫んだ。「成功しました!DNAシーケンスの結果、この遺伝子は現代人のものと一致します!さらに、DNAの損傷を修復する最新の技術を用いることで、かなりの部分を再構築できました。これにより、完全な遺伝子プロファイルが得られました!」
この報告は、衝撃的だった。つまり、10万年前に高度な宇宙服を着用していたこの人物は、遺伝子的に「我々」と同じ、現生人類の祖先にあたる存在だったのだ。これは、単にテクノロジーの歴史を書き換えるだけでなく、人類そのものの歴史、進化の道のりに対する理解を根底から揺るがすものだった。彼らは一体、何者だったのか?なぜ、この時代に、宇宙服を必要としたのか?
遺伝子解析と並行して、宇宙服の素材そのものに対する材料解析も進められていた。この作業は、ベテラン材料科学者であり、カーペンター博士の師匠にあたるドクター・アレックス・ロビンソンが担当した。50代後半の彼は、物質の微細構造解析の権威であり、HRSEM(高分解能走査型電子顕微鏡)とXRD(X線回折)といった高度な分析装置を自在に操った。
ロビンソン博士は、ケブラー繊維の断片を電子顕微鏡のステージに置き、その微細な構造を何時間もかけて観察した。彼の落ち着いた物腰は、この歴史的な瞬間にも変わらなかった。しかし、彼の指がキーボードを叩き、データがモニターに表示されると、彼の表情にわずかな驚きが浮かんだ。「ケブラー素材は、部分的に炭酸塩化していますが、その構造は、現代の宇宙服に使用されているものと完全に一致しています。繊維の織り方、個々のフィラメントの太さ、そしてそれらを構成する分子の配列に至るまで、驚くほど同じです。さらに、宇宙服の一部に見られた、これまで未知だった高強度ポリマーの分析結果も出ました。これも、現在の我々が開発している最先端の合成ポリマーと構造的に非常に近しいです。」
ロビンソン博士の言葉は、最後のピースがはまるように、この奇妙なパズルの全体像を浮かび上がらせた。年代測定、遺伝子解析、そして材料解析。三つの異なるアプローチからのデータが、一点で完全に収束したのだ。10万年前の人類が、現代の宇宙服と同等、あるいはそれ以上の技術を持つ宇宙服を着用していた。この事実は、もはや疑問の余地がなかった。
研究室の空気は、興奮と困惑、そして畏敬の念で満たされていた。彼らは、単なる化石を発掘したのではない。彼らは、失われた歴史の章、あるいは人類が歩む未来の可能性を、目の当たりにしていたのだ。この発見は、科学界に激震をもたらすだけでなく、人類が自らの起源と進歩について抱いていたすべての前提を、根本から問い直すものとなるだろう。彼らの目の前には、未解明の謎の深淵が、口を開けていた。