静謐なる夜の告白――再び交わる誓い
夕刻。
イリスとセフィルが去った後の学園長室には、再び静寂が戻っていた。
ゼルファードは暖炉の炎を見つめながら、静かに自問するように呟いた。
「……ラーデン・ノアクレスト。
彼は若き日の私の弟子であり、かつては理想を語る魔導士だった……」
そして、先ほどイリスとセフィルに言った、自身の言葉を思い出す。
「だが……王家の後ろ盾を得て以降、彼は変わった。
今では王子直属の“執行官”として、評議会の意を忠実に実行している。
君たちを“観察対象”としてしか見ていないかもしれない」
深いため息の後、ふと、机上の魔導式封書に目を落とす。
そこにあるのは、かすかに浮かぶ不可視の文様――学園内の者ではない魔力が、繊細に、緻密に、密かに封じられていた。
ゼルファードは目を細め、指先でその魔力をたどる。
「……これを、私に残したか。変わってなどいない、か……?」
彼はゆっくりと立ち上がると、学園長室の防結界の一角に、僅かな綻びを作った。
そこにひとりの影が、静かに足を踏み入れる。
「ゼルファード先生」
ラーデン・ノアクレストは、黒衣に身を包みながらも、その瞳にはかつての気高さが宿っていた。
「この時間に来るとは……相変わらず人騒がせだな、ラーデン」
「あなたに、どうしても伝えたいことがありました。周囲の目を欺くには、こうするしかなかった」
ゼルファードはしばらく黙ったままラーデンを見つめていたが、ふっと力を抜くと席を勧めた。
ラーデンは短く礼をして腰を下ろし、しばし沈黙したのち、口を開いた。
「既にご存じかと思いますが……私は今、“エスラ公爵派”の一員として見られています。
ですがそれは、表向きの顔です」
「……つまり、二重の立場を取っていると?」
「はい。評議会の思惑、王家の力、エスラ家の動き……そのすべてを観察し、必要ならば、内側から抑止するためです。
私は彼らに従っている“ふり”をしている。
ですが、心までは預けていない」
ラーデンの声に、わずかな自嘲が混じった。
「もし、王家が“星の巫女”を力の象徴として囚えようとするならば……私は、その企てを阻む側に立つつもりです。
私の剣は、あくまで“正しき在り方”のために振るうものと決めている。
彼らが王都で孤立しないよう、盾になるために、私は護送任を“自ら”願い出たのです。
……それを信じていただけるなら」
ゼルファードは、まじまじとラーデンを見つめた。
その瞳の奥に、かつて教え子だった頃の、あの真っ直ぐな輝きを確かに見つけた。
「……君を、敵だと思っていたよ」
ラーデンの瞳がわずかに揺れる。
「君が王家に仕えると知ったとき、私は嘆いた。
理想を語っていた青年が、権力の側に吸い寄せられたのだと。
君がイリス護送の執行官として動いていると聞いたときは、冷たい現実を突きつけられたようだった」
ゼルファードは、目を伏せ、低く続けた。
「疑った。警戒した。敵意さえ持った……君の瞳を、もう一度ちゃんと見ようとせずに。
私は、君の変化を恐れたのだ。
……そして、見ようともしなかった。君の中に今も灯り続ける火を」
しばしの沈黙ののち、ゼルファードは言った。
「……すまなかった、ラーデン。
君を疑った私こそ、師の名に値しない」
ラーデンは目を閉じ、静かに頭を下げる。
「謝るべきは、私の方です。
誤解される道を自ら選び、真意を隠し続けてきたのです。
伝えねばならない言葉を、長い間飲み込んできました。
……ですが、私の剣は今も、信じたもののために振るうと、あの頃と変わらず誓っています。
先生に隠し通していたことを、ずっと後悔していましたが……ようやく、言えました」
二人のあいだに流れる沈黙は、長年の誤解と不安を少しずつ溶かしていく。
「王都では、私も“演じ”続けねばなりません。
だが、時が来れば……先生に、全てを託すことになるでしょう。
その時は――ご決断を、お願いいたします」
ゼルファードは、ゆっくり頷くと手を伸ばした。
ラーデンと固い握手を交わす。
「ラーデン。
……今の君の剣を、私は信じよう。
だが、これから君は、非常に危うい橋を渡ることになる。
表の顔を持つ者の中でしか、成し得ぬ役割があるのだろうが……。
王都には君を試す者も多いだろう。
……無理は、するなよ」
「はい。必ず、守ります。彼女を、そしてこの星の記憶を」
夜は深まり、火の粉がふわりと舞い、火の揺らめきが、ふたりの影を壁に伸ばす。
かつて交わされた師弟の誓いが、静かに、確かに、再び結ばれていた。