帰る場所
魔道飛行船がゆっくりと学園に戻った時、
空はすでに茜から群青へと移ろっていた。
星々がひとつ、またひとつと瞬きはじめ、空気はほんのりと冷たい。
懐かしい森の匂い、塔の尖端が風に揺れる音――
すべてが、まるで遠い記憶のようで、けれど確かに「帰ってきた」と胸に響いていた。
(レオノール様……本当に……ありがとうございます)
イリスは、心の奥でそっとレオノールに感謝を伝える。
彼の飛行船がなければ、もう二度と学園の土を踏めなかったかもしれない。
ニーナの杖は、ルヴィアンの覚醒によって、転移の座標を失ってしまっていたから。
船が学園の中庭に滑るように降下すると、
学園の制服をまとった生徒たちや教職員が、遠巻きにその様子を見守っていた。
だが、彼らよりも一歩前に出て、その姿をじっと見上げている人物がいた。
ゼルファードだった。
深い色のローブをまとい、背筋を伸ばして立つその姿は、かつてと何も変わらない。
ただその瞳に浮かんだ光だけが、いつもより柔らかかった。
舷窓越しに、その姿を見つけた瞬間――
イリスの胸に何かが、ふいに押し寄せてきた。
懐かしさ。安心。尊敬。
そして、言葉にできないほどの、温もり。
船が完全に静止し、甲板の扉がゆっくりと開く。
風が吹き込み、空気が変わる。
その風の中で、イリスは一歩、また一歩と地上へと降り立った。
ゼルファードが、歩み寄ってくる。
その足取りはいつも通り落ち着いていたが、どこか、抑えた感情がにじんでいた。
「……よくぞ……無事で……」
その一言は、まるで胸の奥を包みこむようだった。
イリスは、こらえていた。
ずっと、涙を。
王宮で、神殿で、――闇の中で。
崩れそうになりながらも、ずっと踏みとどまっていた。
王都で、何度も思い出した声。
この場所へ戻りたいと、願い続けた日々。
ようやく……ようやくここに辿り着いたのだと、身体の奥が震えていた。
でも、今――
ゼルファードの姿を見た瞬間、こらえきれなくなった。
幾度も闇に飲まれかけ、仲間を守ろうと耐え抜いたその心が――
ようやく、ほどけた。
「……ゼルファード、先生……っ」
たったそれだけを絞り出し、イリスは駆け出していた。
気づけば、ゼルファードの胸に飛び込んでいた。
ローブに顔を埋め、小さな子どものように、震える肩を預ける。
ゼルファードは何も言わなかった。
ただ、幼子を抱きとめるように、その小さな背をしっかりと受けとめた。
「……よく帰ってきた」
かすれた、けれど確かなその声が、イリスの髪越しに響いた。
「本当に……よく、帰ってきてくれたな」
涙を流していたのは、イリスだけではなかった。
その姿を見ていたセフィルも、ルヴィアンも、ラーデンも――
静かに目を伏せていた。
誰も、言葉を挟もうとはしなかった。
長い旅の果てに、ようやく戻れた場所。
ゼルファードは、そっとイリスの背を撫でながら言った。
「今日はもう……何も言わなくていい。
泣きたいだけ泣きなさい。笑いたいなら、笑いなさい。
……今夜だけは、君たちの心が眠れるように」
イリスは、ゼルファードの胸の中でうなずいた。
「……明日、話そう。
君たちが見たものを、感じたことを……そのすべてを」
その言葉に、イリスの震えがようやく静かになっていく。
やがてゼルファードはそっと手を放し、イリスの頭に手を置いた。
「……おかえり、イリス。
そして――皆も、よくぞ戻った」
その言葉は、優しく広がっていく。
風がそっと庭園を撫で、どこかで梢が小さく揺れる。
魔法学園の中庭は、静かにそのぬくもりを抱きしめていた。
長く、険しい旅を終え、ようやく手にした夜の安らぎ。
それは何ものにも代えがたい静けさだった。




