王の告白と赦し
薄闇の中で、王の瞼がゆっくりと震え、ついに開かれた。
その眼差しには、まだ霞がかかっていた。
幾年月の眠りの底から浮かび上がってきたように、
まばたきのたびに現実を確かめている。
「……こ、こ……は……?」
かすれた声が、空気を震わせた。
イリスがそっと手を緩めると、その視線が彼女を捉える。
「……きみ、は……」
「――星の巫女、イリス・ヴァレンティアと申します、国王陛下」
イリスは深く頭を下げた。
そして、ひとつ息を吸って静かに言った。
「陛下。お戻りを……心より、お待ちしておりました」
その言葉が、ゆっくりと王の心に降りていく。
ふと、王の視線が彼女の背後へと移った。
――ゆるやかに、瞬きを重ねる王の瞳がようやくこちらを見た瞬間、
レオノールの胸に張り詰めていた何かが、ふっと落ちた。
安堵と喜び。
――震えたのは、手だった。
隠すように拳を握った両手の指先が、震えている。
ほんの一瞬、彼は目を伏せた。
それは、王子としての仮面が剥がれた瞬間だった。
けれど、次の瞬間には、レオノールは再び顔を上げ、
ゆっくりと、確かに言葉を紡いだ。
「……父上……目を、開けてくださったのですね……」
言葉が、続かない。
喉の奥が熱くなる。
理性で封じてきた思いが、ほころびのように溢れ出しそうになる。
王の目が見開かれ、表情が揺れた。
「……お前、は……レオノール……なの、か……?」
レオノールは、黙って一歩、歩み寄った。
静かに、王の前で膝をつき、頭を垂れる。
「この日をずっと……待っておりました」
それは、王子ではなく、一人の息子としての言葉だった。
凍てついた時間が、溶けてゆく。
王は、信じられないというように彼を見つめた。
あまりに大きく、強く、そして冷静に育ったその姿が――
かつての無垢な幼子と、重なりもし、遠くもあった。
「……こんなにも……大きく……」
声は震えていた。
時間の軌跡が、ふいに交差する。
「……レオノール。
そう、か……お前が……この国を……」
レオノールは顔を上げ、まっすぐに言った。
「はい。未熟ながら、あなたの代わりに、歩んできました。
……あなたの息子として」
沈黙が落ちる。
やがて、王の唇がわずかに動いた。
「……私は……」
*
王の瞳が、ふと遠くを見つめた。
そのまなざしは今ここにはない。
霧のような記憶の中、血と炎の匂いに包まれた、あの夜へ――
「……あの日のことを、お前に語ったことは……一度もなかったな」
低く、震える声だった。
「……あの年、隣国との間に交わされた停戦協定が崩れた。
長き睨み合いの果て、敵国は王都から遠く離れた峡谷に大規模な軍を展開し、
我が国の西部領を奪い取らんとした」
レオノールの眉がわずかに動いた。
その史実は、彼も歴史書で知っている。だが、真実の戦況は語られてはこなかった。
「私は……出陣を決めた。
王自らが兵の先頭に立ち、軍の士気を奮い立たせねば、勝機は見いだせなかった。
あの時、王都に残れば、王妃とお前を守ることはできた。
……だが、戦況が……それを許さなかった」
王は遠い記憶に視線を落とす。
「……だが、その間に……敵の手が、王都の背後へ回っていた。
そして、彼女のいる離宮が……襲われた」
レオノールの顔に、微かな影が落ちた。
彼は知っていた――ぼんやりと、“母がその夜に亡くなった”という事実だけを。
だが、詳しく語られたことはなかった。
それはずっと、王家の禁忌と言わんばかりに、触れてはならないような出来事だったから。
エリオンは、重く瞼を閉じた。
「敵の一団が、深夜の霧に紛れて離宮に迫った。
護衛は薄く、王妃は……自ら剣を取り、お前を守ろうとした」
レオノールの呼吸が、わずかに詰まる。
「最後の瞬間、王妃は……侍女にお前を託したという。
“この子だけは……必ず逃して”と。
その言葉が、唯一、生き残った侍女の口から聞けた、最期の伝言だった」
「……」
「私は……戦場で勝利した直後、その報せを受けた。
あの瞬間、私のすべてが崩れ落ちた。
国のために選んだ道が……最愛の者を焼き尽くしたのだと」
レオノールは、初めて聞く母の最期に、言葉を失っていた。
「母上が……剣を取ったとは……」
「お前がまだ三つの頃だった。
何も分からず、侍女に抱かれて森を抜け、必死に逃げたと聞いた。
お前を守るために、あの人は……逃げなかったのだ」
エリオンの声が震える。
初めて、息子に向けて語られる、父としての真実。
「……私は、間に合わなかった。
そして……お前にすら、どうしても……そのことを、語ることはできなかった」
――長い沈黙が落ちる。
「私は……逃げたのだ。
目を逸らし、王としての責務に殉じるふりをして……自らの傷に蓋をした」
その隙を――
あの男が、見逃すはずもなかった。
「……ディアストレ・ヴァン・エスラ」
低く唸るような声で、王は名を告げる。
「奴は……巧妙だった。
忠臣の仮面を被り、私の傍に仕え、心の隙間に染み込むように……囁いたのだ。
『あの時、王妃を守れる術があったのだ』と」
イリスの瞳が、わずかに揺れる。
王の魂を蝕んでいた“声”――それが、あの男の術に端を発していたと知ったから。
「私は……愚かだった。
あの時、誰かにすがりたかった。
赦されたいと思っていた。
……だが、それが誰であるべきかを……見誤った」
王の声が、かすかに掠れた。
それは怒りではない。
誰よりも自身を責める者だけが持つ、絶望の音だった。
「私は……その言葉にすがってしまった。
“もし私が、違う選択をしていれば”と……何度も、何度も繰り返した。
……その想いが、私の心に巣食ったのだ。
そして気づけば――奴の術中に……闇に、堕ちていた。
王妃の死の真実すら、記憶の中で塗り替えられていった」
王の目に、涙が滲む。
過去の中で、王は自らを責め続け、
記憶を歪められながら、深い闇の中に閉じ込められていたのだ。
「……私が見るべきだったのは、彼女の残した“光”だった。
それを、今……ようやく思い出せた……」
*
レオノールは目を伏せ、しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「……私を……母上は、守ってくださったのですね」
「そうだ。……この国を、私を、そして……お前を」
「ならば……私は、その遺志を背負って、立たねばなりませんね。
あの日、私を守ってくださった人々のためにも」
その眼差しの奥に、光が灯る。
レオノールの中にあった空白が、今、ようやく埋まった。
――エリオンは、ゆっくりと病床に身を起こした。
長きに渡り伏していたその身体は、まだ立ち上がるには及ばない。
だが、彼の目には、確かな力が戻っていた。
そして――父子は、静かに向き合う。
過去を知り、傷を分かち合い、
今やっと“父”と“子”として、初めて同じ場所に立ったのだった。
*
沈黙が場を満たしていた。
それは、言葉のいらない静けさだった。
その空気を、そっと破るように――
イリスが一歩、前へ進み出た。
「……私は、王妃様の想いを、この手で受け取りました」
その声は、深く静かで、まっすぐだった。
「うん……光は、常に受け継がれる。
それを信じるのなら、きっと――届くよ」
イリスの肩に、そっと手が添えられると、静かな声が響いた。
ルヴィアンだった。
イリスが見上げると、そこには優しい光をたたえた瞳があった。
彼は微笑んで頷くと、イリスに己の魔力をそっと流し込む。
その手のひらから、淡く光が広がっていく。
イリスの足元に、星の紋が浮かび上がる。
――王が思わず、ひとつ息を呑んだ。
その中心から、柔らかな光が舞い上がり――
やがて、幻のように一人の女性が姿を現す。
王妃フィリア。
凛とした眼差し。
母としての優しさと、王妃としての誇りをたたえたその佇まいに、場の空気が変わる。
「……フィリア……!!」
王が思わず名を呼ぶ。
王妃は、王の方へとゆっくりと顔を向けると、微笑んだ。
『――あなたの選んだ道は、間違ってなんかいなかったわ。
お願い……もうこれ以上、過去に囚われないで。
今は……私たちの子が、あなたの背を追って歩もうとしている。
それこそが、何よりの答えだと思うのです』
王の目から、涙が溢れる。
それは後悔の涙ではない。
赦された者が流す、再生の涙だった。
「……すまなかった……フィリア……」
彼女は、かすかに首を振る。
『あなたは、国を背負った。
私は、命を懸けて、子を託した。
そのどちらも、誇るべき選択だった。
だから……もう、どうか自分を責めないで。
私は、あなたを誇りに思っています。……ずっと、ずっと』
イリスの体に星の記憶が流れ、幻影が光を放つ。
そして、王妃の視線は――
ゆっくりと、レオノールへと向けられた。
その眼差しは、どこまでも柔らかく、母の愛に満ちていた。
『……レオノール。あなたが無事でいてくれて……それだけで、私は幸せです。
私の想いは、侍女を通して、あなたに届いていると信じていました。
そして今――こうしてあなたの姿を見られる日が来るとは……』
レオノールは声を失っていた。
だが、その胸に宿るものは確かだった。
『あなたは、自らの意思で歩んでいますね。
もう誰かの影ではなく、あなた自身の足で。……それが、私の願いでした。
だから、どうか……これからも、自分を信じて歩んでください。
私は、いつまでもあなたを――愛しています」
レオノールの瞳に、熱いものが滲んだ。
「……母上……!」
その言葉は、胸の奥から滲み出るような、かすかな声だった。
――王はゆっくり頭を垂れると……胸元に手をあてた。
「……すまなかった、フィリア。……そして、ありがとう。
私は……もう、迷わない。
この国の未来を、共に……見届けてくれ……」
イリスの光が、静かに収束していく。
王妃の姿もまた、満ち足りた微笑と共に、霧のように溶けて消えていった。
星の記憶が閉じ、静寂が戻る。
その余韻が、王とレオノールの胸に、確かに残された。
――赦しと、誓い。
月が、静かに輝く。
二人の心に、新たな夜明けの光を告げるように。
そして……闇の楔は、跡形もなく、消え去った。




