心の牢獄、忘れられぬ記憶の影
王の魂に伸ばした魔力が、霧のような壁に触れる。
その瞬間――
イリスの視界が反転した。
目の前に広がったのは、先ほどとは違う空間。
灰色だった世界に、色が流れ込む。
ただし、それは現実の色ではなかった。
淡く褪せ、影を帯びた、夢と記憶の境界――
眼前に、花咲く中庭が広がっていた。
春の日差しが降り注ぎ、木洩れ陽が王宮の石畳に踊っている。
その中で――
若きエリオン王と、一人の女性が並んで笑っていた。
レオノールに似た面差し。
王妃だと、すぐにわかった。
美しく、温かく、柔らかな光を纏ったような存在。
王はその手を取り、何かを約束していた。
声は届かない。けれど、その想いだけは、波のように伝わってくる。
――守る、と。
――必ず、すべてから。
だが、次の瞬間。
景色が、砕けた。
春の陽光が闇に呑まれ、色彩が凍りつく。
王妃の姿が、霞のように崩れていく。
王は、その場に崩れ落ちた。
そして、自らを責めた。
イリスの目の前で、王は叫んだ。
音のない、けれど確かに魂が張り裂けるような声で。
跪く王の肩に、黒い鎖が幾重にも巻きついていく。
その一本一本が、「赦されない」という呪縛となって。
その足元には――ひとつの印。
禍々しい、黒き紋章が、王の影に浮かび上がっていた。
「……この印は……!」
イリスの声に応じるように、ルヴィアンが答える。
「……間違いない。これは……人の心の弱さに入り込む術の印だ。
エスラ公爵が、王の心に直接刻んだ……“闇の楔”だ」
イリスは目を見開いた。
「王妃様を救えなかった後悔……そこにつけ込まれた?」
「うん。
愛する者を守れなかった痛み。
それを“国王”として耐えきるために、王は心の一部を封じた。
でもその場所に、公爵が闇を流し込んだんだ。
……痛みの中に、逃げ場をつくるみたいに……」
王は膝をついたまま、うつむいている。
その背中から延びる鎖が、空間の彼方へと続いている。
過去へ、悔いへ、絶望へ。
「……このままじゃ、王の魂は、ずっとこの闇の中に囚われたまま……!」
イリスは胸元に手を当て、そっと瞼を閉じる。
心の奥から、柔らかな光が満ちていく。
――癒しの力。
――“星の記憶”に選ばれし、癒し手の王の力が目覚めようとしていた。
イリスは目を開くと、ルヴィアンを見た。
その瞳には、強い決意が宿っている。
「……行きましょう。
この鎖の先にある“王の後悔”と向き合って――
……この闇を、終わらせる」
闇の記憶の中心へ――
二人は、王の痛みと向き合うために、進む。
*
王の魂を縛る黒い鎖を辿るように、イリスは静かに魔力を進めた。
やがて、その先にたどり着いたのは――
崩れかけた王宮の回廊。
壁にひびが入り、床には砕けた装飾が散らばっている。
ここが、王が心に封じた“最後の場所”。
「……っ……!ここは……」
その瞬間、イリスの額の紋章が脈動し、光を放った。
癒し手の王の力に呼応するように――そこに……一人の女性が現れた。
王妃。
月の光をまとったような、美しい気配。
その腕には――布に包まれた、小さな子どもが眠っている。
王妃は優しく――微笑んでいた。
『……あなたの声が、聞こえていたわ』
その声は、風のように優しかった。
だが、その微笑には確かな意志があった。
「……王妃様。
私は、星の巫女……イリス・ヴァレンティアと申します。
あなたの想いを……伝えに来ました」
王妃は、小さく頷いた。
『……あの人は、まだ……自分を責めているのね』
それは、知っていたという言葉だった。
『あなたの選んだ道は……間違ってなんか、いなかったのよ』
それは、囁きのようでいて、魂を貫くほどに確かな言葉だった。
王妃は、腕の中の子を見つめて微笑む。
『そう……あなたの選んだ道は、間違ってなんかいなかった。
どうか、過去に、囚われないで。
今は……私たちの子が、あなたの後を継ごうとしている。
――どうか、その手を……彼に。
未来へ……繋げてあげて』
その声と共に、光が弾けた。
『……ありがとう。エリオン……愛しているわ……』
王妃の姿が、星の粒となって舞い上がる。
イリスはそっと手を伸ばし、その光に触れる。
「……王妃様。
この想いを……私たちに、託してくれて……。
……ありがとう、ございます」
その囁きとともに、イリスの星の紋が、淡く輝いた。
その瞬間――
鎖がひとつ、音もなく、崩れ落ちた。
闇の楔が、軋むように軟化し始める。
風が吹いた。
それは――長い時を越えて、凍てついていた王の心に、ようやく届いた風。
王の魂を縛っていた“後悔”という名の闇が、静かにほどけていく。
「……届いたんだね」
イリスの呟きに、ルヴィアンは、穏やかに笑った。
「うん。でも……これは始まり。
あとは、陛下自身が“赦し”を選ぶかどうか……だよ」
ふたりの間に、光が差し込む。
すべてが静かに――癒されていく。
*
イリスがそっと目を開けると、現実の空間が戻っていた。
王の寝所。
月明かりが差し込む静寂の室内で、彼は――
瞼を、震わせていた。
「……!!」
レオノールが息を呑む。
王の目が、ゆっくりと開かれる。
長い夢の底から浮かび上がるように――
失われた時間が、再び動き出す音がした。
イリスは王の手を包み込んだまま、静かに言った。
「おかえりなさいませ、陛下」
その手は、確かに――温かかった。




