静夜の語らい
夜が更け、学院内の小部屋に、イリス・セフィル・ルヴィアンの三人が集まった。
部屋の中央にある低いテーブルを囲んで三人が座る。
夜の光を帯びた蝋燭が、室内にやさしい明かりを投げていた。
イリスは、しばしのためらいの後――ルヴィアンに向かい、ゆっくりと語り始めた。
王都で見たもの、感じたこと──
エスラ公爵ディアストレの底知れぬ影と、
国王、エリオンの魂に起きている異変、第一王子レオノールの静かな祈り。
そして――星の巫女として契約を交わしたこと。
セフィルは隣から補いながら、淡々と、けれど慎重に言葉を紡ぐ。
決して誇張せず、悲観もせず。
ただ事実だけを、静かに。
ルヴィアンは、最後まで口を挟まなかった。
頷くでもなく、否定するでもなく。
ただ、真摯に耳を傾け続けていた。
やがて語りが終わる頃──
ルヴィアンは、小さく目を閉じた。
そして、そっと息を吐く。
「……なんとなく、そんな気がしてたよ」
穏やかだけれど、そこには確かな重みがあった。
「君たちの表情や、声の奥に……どこか、緊張が漂っていた。
だから、王都が不穏な状態だって、なんとなくわかってたよ。
世界の均衡が、どこかで軋んでいる音が、ずっとしてたんだ」
ルヴィアンはゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、どこか星明りのように澄んでいて、迷いはなかった。
「……王の魂を、救わなくちゃいけないね」
その言葉は、誰から求められたわけでもなく、彼自身が選び取ったものだった。
「もし、僕が必要とされるなら……力になりたい。
光のためでも、闇のためでもなく──ただ、“誰かの願い”のために、僕は在りたいんだ」
その時、イリスははっきりと気づいた。
ルヴィアンは、かつての闇を乗り越えたのではなく、
それを包み込んで歩くことを選んだのだと。
セフィルがそっと微笑む。
目に宿るのは、信頼。
そして、これからに向けての静かな希望。
部屋の外、夜風が窓を揺らす。
星々の輝きが、三人の沈黙をそっと包んでいた。
*
同じ頃。
魔法学園の最上階、学園長室。
蝋燭の灯がわずかに揺らぎ、
机の上に開かれた書が一枚、風もないのにふわりとめくれた。
その静寂に、ふいにひびが入った。
室内の結界の一角が、わずかに震える。
目に見えない魔法の封印が、まるで来訪者の気配に呼応するかのように、脈打つような微光を発した。
机に向かっていたゼルファードは、微かに目を細めた。
気配は声を持たないまま、室内の空気に小さな波紋を描く。
彼は立ち上がらず、右手を軽く振った。
空中に描いた魔紋が、音もなく展開する。
封印に一筋の狭間が生まれ、その中から、黒衣の青年が現れた。
──ラーデン・ノアクレスト。
影のように静かに、音もなく室内に現れた彼を見て、ゼルファードはふっと口元を緩める。
「……相変わらずだな、ラーデン」
それは、短い言葉に込められた、懐かしさと喜びだった。
「……ゼルファード先生」
ラーデンが頭を下げる。
「ーーきっと来ると思っていたよ。
……座れ。冷える夜だ」
ラーデンは黙って座る。
ゼルファードは、机の上の銀の杯に、酒を注ぐ。
淡い金色の液体が杯の内側を静かに濡らす音が、部屋の空気をほんの少しだけ柔らかくした。
「これは?」
「《星苞の実》から作った熟成酒だ。
この学園の地下庭で採れる、数十年に一度しか実を結ばぬ果実から仕込んだものだ。
今宵は……これに相応しい夜だと思ってね」
杯が満たされ、ふたつのグラスが小さく音を鳴らす。
ラーデンは静かに杯を受け取る。
香りを確かめ、そっと口をつける。
柔らかい苦味と、花のような香り。
それはまるで、この学び舎で過ごした、静かな年月の記憶を伝えてくるようだった。
しばらくは何も言わず、二人は杯を傾ける。
「……君が初めてこの学園に来た日のことを思い出すな」
ゼルファードはかすかに笑うと、ゆっくりと語り始めた。
「確か、あの日も今日と同じように、月が高く昇っていた。
君は十二になるかならないか。
誰よりも早く魔法陣を読み解いて……。
まるで、自分の行く先を全部知っているような目をしていた」
ラーデンは静かに笑う。
「そんな風に見えていましたか?」
「見えたよ。
だが……その裏にある迷いと悲しみにも、私はすぐに気がついた。
それでも君は、それすら凌駕する、強い純粋さを持っていた。
それは今も変わらない。
そして、それを貫き通してここに来た。
それだけで……もう十分だ」
ゼルファードは杯をゆっくり傾けると、さらに言葉を継いだ。
「覚えているか?
十四の頃、お前はひとりで図書室の禁断結界を解除し、
禁書の”魔導理論”を盗み読もうとしたことがあったのを」
ラーデンは小さく息を吐いた。
「はい……あの時、”逃げなかった”私を、叱らずに、机の前に座らせてくださった」
「それで、お前は眠るまで理論を語り続けたな。
自分の魔法は“感じるより先に、構造が浮かぶ”と」
「……あの夜が、私にとって、“魔法”と“学び”が重なる、初めての瞬間でした」
ゼルファードは、杯を傾けながら、窓の外を見た。
沈黙が、ふたたび部屋を包む。
蝋燭の炎が、僅かにゆらぐ。
ゼルファードは静かに立ち上がり、書架の一冊を手に取る。
書棚から、古びた一冊の魔導書を取り出す。
「これは、お前が初めて“心で読んだ”と語った本だ。
……あの日のまま、置いていた」
ラーデンが目を見開いた。思わず立ち上がり、本を受け取る。
革表紙の角はすり減り、ページには何度も読み込まれた跡が残っていた。
「……私に……?」
「──初心を思い出せ、とは言わん。
だが、お前の“はじまり”は、ここにある。
……私はな、お前が何を選ぼうと、どこに向かおうと、最後まで見届けるつもりでいる」
ゼルファードはラーデンを見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
「礼には及ばぬ。
だが──返すのなら、未来で返せ。
自分の信じたものを、最後まで守ってみせろ」
しばし本を見つめたのち、ラーデンは顔を上げると、深く頭を下げた。
「……必ず、そうします」
その言葉には、嘘はなかった。
ゼルファードもまた、微かに頷いた。
「──夜はまだ深まる。
けれど、夜明けは必ず来る。
……それを信じて、歩いていきなさい。ラーデン」
夜の静けさに、
またひとつ灯が灯ったようだった。
杯は空になっていた。
言葉も尽きた。
それでも、室内には確かな”約束”があった。
師と弟子。
それは過去の関係ではなく、今もなお続く、絆のかたち。
夜風が塔の外壁を撫でる頃、ラーデンは静かに立ち去っていく。
封印の狭間が、音もなく閉じた。
ゼルファードはしばらく椅子に座り、空の杯を見つめていた。
星々が静かに輝いていた。
それだけで、十分だった。




