闇と記憶の淵にて
……暗い。
視界は閉ざされ、上下も、時間の流れも定かでない。
何も見えない。
何も聞こえない。
あるのは、ただ――ひどく深い静寂と、重く、絡みつくような暗黒の気配。
ただ、静かに波打つ黒の海――
それが、今の彼の“世界”だった。
闇に落ちたわけではない。
だが、光も届かないこの場所は、
魂の最も深い層――封印と記憶が交差する冥府のような空間。
ここは、星紋の塔の最奥。
かつて自らの意志で“闇”を封じるために選んだ、己の終着点。
魂を対価に、星の巫女の祈りと共に閉ざした、禁忌の地。
ルヴィアンは、そこにいた。
……それでも。
(こんなに、冷たかったか……)
封印の器。
巫女の祈りの対となる、陰の鍵守。
彼の存在は、常に“闇と隣り合っている”。
だが、その深層――
――何かが、わずかに震えている。
最初は、遠い波紋のようだった。
けれど、それは確かに、この封印の核に染み入り、魂の底をざらりと撫でた。
だが今、その闇が――かすかに囁いていた。
《目を覚ませ、ルヴィアン。
そろそろ、お前の眠りにも終わりが来る》
囁きが、魂を刺す。
それは懐かしいほど聞き慣れた、“闇の声”だった。
あの時――星の巫女の祈りに応じ、封印に身を捧げたあの日。
共に閉じ込めたはずの“それ”が、今、再び動き出している。
《封印は綻んでいる。お前も、わかっているはずだ。
……もう、あの光は届かない。
お前は、取り残されたのだ。》
――違う。
彼はそう思った。
そう信じていた。
星の巫女――イリスの魂の呼び声は、封印の奥でも確かに届いていたからだ。
《だが、お前はまだ気づいていない。
彼女の隣には“新たな光”がある。
お前はもう、不要なのだ》
その囁きは、まるで風のように耳を掠める。
かつて感じたことのある、誰かに否定される記憶――
自らを“影”に貶めてでも支えたかった者たちの、遠ざかる気配。
胸の奥が軋む。
『……黙れ』
闇はくすりと笑う。
《ああ、そうだ。お前はいつも“影”だったな。
巫女の背に寄り添い、光の傍で燃えることすら赦されぬ者。》
闇の気配が、まるで彼の皮膚の内側から滲み出すように広がってゆく。
彼の罪、彼の悔恨、彼の“もう一人の自分”。
――光に嫉妬し、愛に縋り、そして自らを闇の“器”に変えた男。
その記憶すべてが、封印と共に彼の魂を締め上げていた。
(……僕は……まだ……)
身体は動かず、声も出ない。
意識だけが、這うように抵抗を試みる。
だが、力が出ない。
星の巫女の魔力が遠のいた今、この封印の場で彼の意志は、まるで霞のように薄れていた。
闇は、そこを狙っていた。
《目を逸らすな。
あの日、巫女の背中を守ると誓ったその手で――
お前は、己の居場所を全て諦めたのだ》
闇はうっそりとした笑い声をあげた。
《力を貸してやろうか? なあ、ルヴィアン。
お前は知っているはずだ。
この中にあるのは、他でもない――“お前の力”だ》
封印の底から、黒い手が伸びてくる。
それは、ルヴィアンの影から現れた、まるで“かつての自分”のような存在。
――怒り、嫉妬、哀しみ、絶望。
星の巫女に選ばれなかった日。
自分が“光の横に立つ資格はない”と感じた、あの日の絶叫。
『……黙れ……っ……!』
かろうじて、声にならない声を絞る。
だが黒い手は止まらない。
それはまるで、魂を丸ごと掴み上げようとするようだった。
《苦しいのだろう?
楽になれよ、ルヴィアン。
すべてを諦めれば――“彼女の光”さえも、もう追わずに済む》
(そうだ……確かに僕は……)
そこまで思った瞬間、不意に――
あの懐かしい“気配”が、彼の中に差し込んだ。
光だった。
……いや、光というより、もっと柔らかく、温かく、胸を打つ“声”――
イリスの魂が、彼の名を呼んでいた。
遠く、遠く、だが確かに――
《ルヴィアン……!》
一陣の風が、魂の内に吹き抜けた。
……なぜだ。
彼女の声など、もう届くはずがなかった。
だというのに、これは――
そのときだった。
――星が、震えた。
彼の中にある、遠く微かで、けれど確かに存在していた“記憶”が呼応する。
銀の光。
優しい手のぬくもり。
自分の中の、最も大切な名前。
《……イリス……》
その瞬間、魂の底に熱が走る。
呼応して、彼の中に眠っていた“星の力”が、ごく僅かに瞬いた。
(まさか……まだ、僕を――)
それを見て、闇が吠えた。
《愚かな……まだあの光に縋るか!?
また巫女のために消えるつもりか――!?》
――彼女は、まだ自分を呼んでいる。
――あの光は、今も、自分の中に生きている。
あの光に救われたことも、あの声に応えたいと思った自分も。
今なお、この魂の底で――
消えずに、残っていた。
ルヴィアンの精神が、黒の海の中で、微かに揺れた。
闇が、それを鋭く察する。
《呼ばれても、お前は動けぬ。
力を貸す者もいない》
だが、そのとき。
何かが空間を揺るがす。
空間の外――遠くから、通路が開かれ始める。
イリスの声。
星の共鳴。
そして、もう一人――“セフィル”の気配。
鍵守。かつての盟友。
その気配が、確かに塔に向かって迫っていた。
ルヴィアンの魂が、苦しげに、だが確かに震える。
『……来るな。君たちまで……呑まれる……!』
その瞬間、彼の胸の奥で、封じられていた星の紋章が、わずかに輝いた。




