――信頼
蒼い光が弾けるように、王子の執務室の一角に、三つの影が現れた。
星の紋を帯びた光輪が消えると同時に、室内の空気が張り詰める。
イリス、セフィル、ラーデンの三人の姿が、王子の執務室に浮かび上がった。
そこは、荘厳ながらも静謐な空気をまとった空間だった。
重厚な書棚と、大机。その奥に立つ影が、ひときわ鋭く動く。
窓際に立っていたレオノールが、すぐさま振り向き――
その鋭い灰銀の瞳が、転移者たちを捉える。
イリスとセフィルに目を留めたのは一瞬。
だが、その視線がラーデンに及んだ瞬間、部屋の空気が一変した。
「……ラーデン・ノアクレスト」
王子の低い声が空気を断ち切る。
「貴様……なぜ、ここにいる」
レオノールの声音は静かだった。
けれど、明確な怒りと不信、
そして、長年の警戒が混じっていた。
「ディアストレの忠犬としてこの数年、私の周囲を探ってきた貴様が――
星の巫女と共に、まさか、ここに現れるとはな……!」
レオノールの言葉に、イリスが一歩前に出ようとした。
「王子殿下、ラーデン、様は――」
「……イリス」
その言葉をラーデンは片手で制し、ゆっくりと一歩前に出て跪き、礼を執る。
その瞳に浮かぶのは、隠し立てのない誠実な光だった。
「……私は、公爵の手駒として王宮に出入りをし、
星の巫女と鍵守の動向を探る任を担っていました。
表向きは、ディアストレ・ヴァン・エスラ公爵に忠誠を誓う者――その通りです」
レオノールがわずかに目を細める。
だが、ラーデンの声は揺るぎなかった。
「ですが、真意は違います。
星の巫女と鍵守を“守るため”に、公爵の元に身を置いたのです。
……エスラ公爵が、どれほど恐ろしい存在かを、私は間近で見てきました。
彼が何を望み、何を企てているか。
その野心がどれほど闇に染まり、王国を蝕もうとしているか。
私はそれを食い止めるため、その牙の内側に入る必要があったのです」
ラーデンは胸元に手をやった。
静かに外套の留め具を外し、襟を開く。
中にあったのは――
淡く、しかし確かに輝く“星の紋章”。
彼の肌に刻まれていたそれは、微かに脈動していた。
レオノールは目を見開く。
「それ……は……」
「……これは、星の巫女と共に星脈の封印に赴いたとき、
私の中に浮かび上がったものです。
ですが、今日の転移――王家の秘宝は、
この印を持つ私を拒まなかった」
ラーデンの声は、低く、誓いのように響いた。
「……それが意味することは、たったひとつ。
私は、この場に“選ばれて”来たのだと。
私はそれを誇りとし、ここに立っています」
――レオノールの瞳が、僅かに揺れる。
彼はラーデンの胸元の紋章を見つめ、
その意味を、沈思の中で確かめているようだった。
「そうか……それで……」
レオノールが呟く。
「戴冠の儀式の際、鍵守と共に、お前になぜ祝福の光が届いたのかと思ってはいたが――
あれは……そうか……そういうことだったのか」
ラーデンは驚く。
「殿下――!」
レオノールはかすかに笑うと言った。
「……安心しろ。見ていたのは私だけだ。
ディアストレも神官長も見えてはいないだろう。案ずるな」
沈黙――
「……私は、これまでずっとお前を“裏切者”だと信じていた」
レオノールは静かに口を開いた。
「父王が倒れ、次々と近臣が公爵派に染まる中、
お前のような才ある者が、何の躊躇いもなくディアストレの側についたと知った時……。
私は、心の奥で何かが崩れるのを感じた」
レオノールは長い沈黙の末、目を伏せ、ひとつ息をついた。
「……私の不明を詫びよう。
ディアストレの駒として振る舞ってきたその姿しか、私は見ていなかった。
……だが今、お前はここに立っている。
自らの立場も顧みず、危険を冒して」
そして、かすかに微笑む。
その言葉に、ラーデンは僅かに目を見開いた。
だがすぐに、少し俯きながら、静かに言う。
「……いえ、そう振る舞っていたのは、私の方です。
……私は、殿下を誤解していました。
共鳴体質のこの身をもってしても、あなたの心に触れることができなかった。
冷たい沈黙のような隔たり……。
まるで、底がないような静寂の中に、何も感じられなかった。
それが、どれほど異質で、不気味に映ったか……」
ラーデンはレオノールを見つめる。
「……ですが、今ならわかります。
あなたは、公爵の目と力から、自らを守るために、
心の奥に堅牢な壁を築き、深く、深く心を隠していたのだと。
それは、闇に満ちた公爵の眼があなたを見ている中で、
自らを護るために張り巡らせた――鎧だったのだと……」
ラーデンの喉が震えた。
彼は深く頭を下げ、そして言った。
「……私はその沈黙を、疑いで満たしてしまったのです。
そして今、そのことを悔いています。
申し訳ありません。私は、殿下を信じるべきでした」
沈黙が落ちた。
「……ありがとう、ラーデン」
レオノールは瞼を伏せ、短くそう告げた。
その一言に、わずかに張りつめていた空気がほどけた。
その声は、かつてないほど人間らしく、柔らかだった。
イリスは、ふたりの間に流れる空気に、胸が熱くなるのを感じていた。
誤解と疑念を越え、ようやく結ばれた“信頼”。
「――行こう。父上の元へ」
その一言に、イリスとセフィルも頷いた。
星の巫女、鍵守、そして星の環を繋ぐために影に立つ剣。
三つの光が、王の魂に潜む闇へと向かう―-
それは、長き闇の中で生まれた、ささやかだが確かな光だった。




