声なき祈り
それは、ほんの一瞬のことだった。
祝賀会の最中――
グラスを手渡しながら、レオノールがイリスに視線を重ねた、そのとき。
《……聞こえるか?イリス・ヴァレンティア》
声はなかった。
まっすぐな”意思”だけが、光のようにイリスの心へ飛び込んでくる。
まるで、透明な川のように――
《驚かないでほしい。これは、我が王家に伝わる能力だ。
君にしか話せない。
父王の魂に異変がある。……君に、確かめてほしい》
その声は、まるで胸の内を手渡すような、すがるような痛みを含んでいた。
静かで、それでいて確かな“想い”。
《君をこの場に呼んだのは、政ではない。
……希望を見たかった。
君の中に、確かに宿っているもの――
あの“星の記憶”が、選んだ理由を》
《私は、それを信じたい。
この国に、癒しという力がまだ残っていると。
人は、自分の意思で闇に抗えると……そう思いたいんだ》
それは、レオノールの内に秘められた、深い深い願いだった。
その想いは、どこまでも静かで誠実だった。
それは政治の駆け引きでも、策略でもない。
ただ一人の息子が、父のため、国のために、
自分を犠牲にしてでも光を探し続けた、無言の懇願。
《私は、父を……この国を、守りたい。
だが、もう手段が尽きかけている。
私は、あの男の望むものを与え続けることで、
かろうじて均衡を保っているにすぎない》
《君が、“癒し手の王”の記憶に触れたのなら……
どうか、その力で見てほしい。
父の魂に……何が起きているのか》
最後の言葉が響いたとき、イリスは気づいた。
これは……祈りだ――
心の奥底で、決して誰にも語れぬまま抱えてきた“希望”そのものだ。
誇り高く冷静な王子の奥に――これほどの孤独と葛藤があったのかと、イリスは息を呑んだ。
彼女は、声には出さず、心の中で静かにうなずいた。
(……わかりました。私が、確かめます)
その意思を、彼は確かに受け取ったのだろう。
ほんの一瞬、レオノールの瞳が細くなり、彼は小さな笑みを浮かべた。
現実の彼は、変わらず冷静に、グラスを手渡すだけの仕草をしていた。
ただ、それだけで。
誰も、その会話を知らなかった。
ラーデンですら、気配の揺らぎを感じたにすぎなかった。
だがイリスには、確かに届いていた。
彼の仮面の奥にある、熱と、願いと、誠意が――
星の夜の交信は、ほんの一瞬。
けれどそのわずかな時が、運命を静かに変えていくのだった。




